8月32日
山白タクト
8月32日
額に汗が滲む。ヘアピンで頭上へと乱雑に纏め上げられた前髪は、汗が触れる隙を与えず、肌に浮かんだ水滴はそのまま重量に従って地表へと滑り落ちる。
汗は太陽で熱せられたアスファルトにじんわりと広がり、境界が曖昧にぼやけた模様を形作った。
「私、何してんだろ……」
誰に言うともなく、つい口をついて出た言葉は、夕暮れ時の、少し和らいだ熱を運んできた風にかき消された。
高台の、オレンジ色に染められた桜の木は、数ヶ月前までの春の息吹など微塵も感じさせぬ程に、丸裸で剥き出しの枝を大気に触れさせている。街を見渡すと、逆光で黒く影を落とした建築物の群れがひどく無機質に思えて、この世界に私一人しかいなくなってしまった、そんな突拍子も無い考えを胸中に渦巻かせた。
宿題は7月中に終わらせた。無理矢理に感想を捻り出した読書感想文も、絵の具で画用紙を汚しただけにしか思えないポスターも、小学生向けの科学雑誌に載っていた記事をそのまま真似ただけの自由研究も、全て終えた。
あとはただ、思うがままに、全力で夏休みを過ごした。
クラスの友達と行った郊外の大きなプール、ウォータースライダーから流れ落ちてきた、身体の大きな知らないおばさんに潰されかけた時はほんと死ぬかと思った。
お盆におばあちゃん家へ遊びに行った時、近所でやっていたお祭り。淡い水色の、紫陽花柄のかわいい浴衣を着て行ったのに、ヨーヨー救いをしていたら袖がびしょ濡れになって、花火を観ている間もずっとそこだけ冷たかった。
楽しい想い出ばかりの筈だった。なのに、夏休みの終わりを意識した途端、とても物足りない気持ちになった。もう決して取りには戻れない忘れ物を、照りつける日差しと蝉の声で彩られた過去に置いて来てしまったかの様な。
8月31日の今日、この日を終えるのが怖くて、堪らずに家を飛び出した。
わずか数時間後には9月を迎えるにも関わらず、日中の太陽は決して手を抜かずに、灼熱を地表へと降り注ぎ続けた。
生命の危機を感じさせる熱気のせいか、日中の街に人の気配はまばらで、行くあて無くここに辿り着いた。見上げた桜の木もまた、私の思いを映したみたく寂しげに見えた。
黄昏に背を向け、私は下り坂へと歩を進める。坂道に私の影が長く伸びる。網目にいくつかの大きな穴が空いた虫籠、中途半端に潰された空き缶、力なく萎れた雑草、干からびて地面に貼り付いたミミズの死骸、あとは朽ちていくだけの、役割を失った物達が否応にも私の視界の端が捉え、憂鬱に拍車を掛ける。
自由に使える時間やお小遣いの無い小学生の私に、行く宛などなく、自然と足は家路へと向かう。とりあえず今はシャワーを浴び、清潔な服へ着替えたい。汗で重くなったブラウスをつまみ、ため息が漏れた。
玄関を開け、サンダルを脱ぐ。揃えるために一度屈むと、地面に落ちたカレンダーの存在に気付く。いつもは靴箱の上に置かれているが、誰かが落としたのか、もしくは扉の開閉時に吹き込む風で落ちたのかは判然としない。
手に取り元の位置へと戻す。自然、カレンダーに記載された月と日付に加え、平日は黒、土日はそれぞれ青と赤に色分けされた曜日が、見るとはなしに目に入る。
上部に『8月』と大きく書かれ、下部には日付とちょっとしたメモを書き込めるよう小さな枠が設けてある。
右隅の『31日』の枠は、青いインクで囲われていた。
はたと考えを巡らせ、カレンダーをめくる。
『9月』と書かれた下に、1日から始まる日付が日曜日始まりで書かれている。
『1日』は赤で囲われ、つまりそれは9月1日が日曜日である事を示す。
思わず笑みが漏れる。明日は宿題を詰め込んだランドセルを背負わなくて良い。膨れた手提げ袋を両手に通学路を歩まなくて良い。
そういえば、冷凍庫にアイスがあったっけ。ハーゲンダッツのラムレーズン。ほんとはお父さんのだけど、こっそり盗んでやろう。
明日のお昼は素麺が食べたい。冷房の効いた部屋でタオルケットを掛けてお昼寝したい。ほんのひと時、茹だる暑さを、新学期の憂鬱を忘れさせて欲しい。
8月32日、私は私を祝福するんだ。
8月32日 山白タクト @takuto_yamashiro
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