32 変化
広い中央棟のあっちこっちを、小走りで駆け回る。
額からは大粒の汗も滴っていた。
さすがにもう帰ったか――リッツの脳裏には、そんな、諦めにも似た感情が宿り始めていた。これだけ探し回ったのだから仕方ない。
そうしてちょうど足を止めようとした、その矢先のことであった。おもむろに眼前の扉が開かれて、誰かが部屋から出てきたのである。
「……君は?」
はからずも出待ちしていた少年の姿を見て、銀の髪をした壮年男性は驚きのあまり目を見開いた。その瞳にしても、やはり銀色だった。
ともかく、やっと、やっと見つけた。
「なあ! あんた、公爵様、だろ!?」
その拍子で、リッツは息も絶え絶えに叫んでいた。
もう諦めようかと思っていたところから一転して、探し人であるヴォルター=オールストンと、突然の遭遇を果たしたのだった。
「そうだが――」
「閣下、手前どもの騎士見習いが大変なご無礼を……」
そこで公爵の後方から、謝罪の言葉を添えて厳かに現れたのはオズワルド総長である。どうやらその部屋は貴賓室らしく、二人で何かを話し込んでいたようだった。
道理で見つからないはずだ。
「構わないさ。それで少年、私に何の用かな」
予想外の出来事にも、公爵、総長、ともに取り乱すことはなく、それでいてリッツをにべもなく摘み出すようなこともしなかった。
少なくとも今なら、話くらいは聞いてもらえるかもしれない。
「俺のことを……覚えているか?」
「……?」
問われた公爵は小首を傾げた。
普通に考えれば一領内の小さな農村、そこに住んでいた子供のことなどいちいち覚えているものか。
そう思った上であえて訊いたのだが、
「……いつぞや私に食ってかかり、殴りかかってきた少年か?」
「お、覚えてたのか」
「なぜ君の方が驚いているんだ?」
「い、いや。まさか本当に覚えてるなんて思わないだろ。あんた国の偉い人だし」
リッツはしどろもどろになって、すでに会話のペースを握られてしまった気さえする。しかしこんなところで引っ込んではいられない。
「なら、あの後村がどうなったか……それも知ってるよな」
公爵の眉がピクリと反応した。
「領内で起きた出来事だ……もちろん、知っている。すると君は――」
「ああ、生き残りだよ。唯一のな」
「そうか……一人、遺されたというわけか……」
巡り巡ってここまでたどり着いたのは運命のいたずらだが、母マデリンとザイールによってリッツは生かされた。それだけは間違いない。
「して、君の目的は? なぜ私を探していた」
公爵は落ち着いた表情を崩さない。
「村が無くなったあの日から、色々考えてた。次に会ったら何を言ってやろうって、毎日毎日頭に思い浮かべてさ。あんたを見て、今日がその機会だって……」
ミネを返せ。
どうして助けてくれなかった。
この二年間、鍛錬や勤労の合間にも当時のことを思い返せば、感情が渦を巻いたことだって一度や二度ではなかった。
むせ返るような煙のにおいを、冷たくなった母の姿を。
リッツは今でも夢に見る。
それでも、
「けど、やめた」
「それはなぜ?」
「そんなことしたって、母さんも神父様も……誰も帰って来ないからだ」
毅然としてリッツは答えた。
「……君は、まだ若いのに大したものだな」
「そんなんじゃない」
ザイールに拾われて以来、吐くほどつらい鍛錬を積まされたのだ。
結果的には飢えから物乞いとなったり、野盗に身をやつすことなくまっとうに生きられた。だがそれを幸運だったと思えるほど、リッツはまだ大人ではない。
けれども、今本当に知りたいことは何か。
走りながらそれを自問した時、たった一つ、はっきりと思い浮かんだ。
「……あいつは、元気にしているか?」
リッツは真っすぐに公爵を見据え、意を決してそれを訊いた。他の何を差し置いたとしても、これだけは絶対に問うべきだと思ったのだ。
一瞬呆気に取られていたヴォルター公爵も、その意図を悟って興味深そうな視線を少年に向けた。
「どういう心境の変化かね?」
尋ね返され、リッツとしては大変癪なのだが、
「いっそ逆に考えることにした。あんたがあの日、ミネを連れて行かなかったら……きっと俺は、あいつを守れなかった」
そういう意味では、公爵に感謝しなくてはならない。
「なるほど……それは、殊勝だな」
「いいから教えてくれ。いや、教えてください」
「うむ。誓おう、彼女は息災だ」
それを聞いて、リッツは一気に全身の力が抜ける感覚がした。
何物にも勝る安堵だった。
「そうか、よかった……本当に、よかった」
涙が一筋、頬を伝う。
たとえ会うことが叶わなくとも、同じ故郷の大地を、景色を、覚えている者がまだどこかで生きている。
天涯孤独となった彼にとって、今はそれだけで十分だった。
膝を折って打ち震える少年の姿を、二人の大人もただ黙って、しかし確かな慈しみをもって見守っていた。
◆
リッツが大人たちと別れた、その少し後のこと。
ヴォルター公爵はオズワルド総長を伴って、足早に中央棟の廊下を歩いていた。
「長居しすぎたな」
「……式典で、話の長い者がおりましたからな」
「ははは。まあこれも一興というものだ」
どうやら当初の予定よりも、公爵の滞在時間が押していたらしい。そこへきてさらにリッツとの問答が重なった、というのが現状だ。
ヴォルターは笑っているが、要人には要人のスケジュールというものがある。
「ところでオズワルド。彼の試験成績はどうだったんだ?」
歩きがてら、ヴォルターがそんな話を切り出した。
彼、とはリッツのことだ。
「ふむ。学科は少々心許ないですが、実技は教導師の間でも評判でしたな」
「ほう、それはそれは……とても二年前、素手で私に挑んできた少年とは思えないな」
「〈平原の山犬〉手ずからの薫陶を受けたようで」
「ああ、そういうことか」
腑に落ちた、といった様子でヴォルターは頷いた。
それから少し間があって、
「名は、何といったかな?」
「リッツ=パドガヤル……たしか、そんな名であったかと」
「ああ、リッツだ。そうだ、そうだったな」
かつて聞いた名を反芻しつつ、ヴォルターが柔らかに微笑んだ。ただその様子が少し滑稽だったためか、オズワルドは訝って尋ねた。
「閣下?」
「なんでもないさ。だがこれは、実に良い報せでもあるな。彼が生きていたことを知れば、きっとあの子も喜ぶことだろう」
言うや饒舌になって、ヴォルターの足取りも軽くなる。
隣で歩くオズワルドはやや呆れ顔だった。
そして呆れついでに、
「……ヴォルター。これはあくまでそなたの友として、一つ忠告させてもらう」
「おや? なんだオズワルド、改まって」
公爵はやおら態度を変えた総長を横目に、しかし歩みは止めずに問い返す。
「あまりよその娘ばかり構っていると……ご息女が拗ねてしまうぞ」
「これは、随分と手厳しいじゃないか。総長閣下」
予想外の角度から諫められ、ヴォルターは思いがけず笑ってしまった。
公の立場も違えば相応に年齢差もある彼らだが、周囲に誰もいないとき、こうして対等に物を言い合うことがある。
そんな他愛もないやり取りが終わる頃には、中央棟の外で待っている公爵の迎えも視界に入っていた。
引き裂かれた少年と少女が再会を果たすのは、まだ、もう少し先の話である。
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