5 異変

 床に就いていたはずのリッツは、ふと目を覚ました。

 それは胸騒ぎでしかなかったが、身の毛がよだつ感覚だった。


「……リッツ。あなたは耳がいいものね」


 マデリンはすでに起き、外の様子を窺っていた。

 その手に弓と、それから剣を携えて。


「母さん、それ……」


 スラヴァの民が伝統的に用いる湾刀。剣など、ただの飾りだと思っていた。リッツは今までそれが使われた記憶を持ち合わせてはいなかった。


「……灯り?」


 窓の隙間から差す、不自然な光。

 村の方からだった。篝火を何本も束ねて焚いたような、強い灯りだ。


「……あなたは馬で逃げなさい。今ならまだ間に合うわ」

「逃げろって、何から……母さんは!?」

「私もこの村の民。一人で逃げるわけにはいかない」

「じゃあ俺も……」

「リッツ!」


 これ以上言わせるな。そう思わせる母の気迫に、リッツは押し黙る。

 言い放つマデリンの相貌は、普段のぼんやりとした姿からはおよそ想像できないほどに険しく、鋭い眼差しで外を睨み続けていた。


「……もう、近いわね」


 人の叫ぶような音が聞こえる。

 外に出ると、はっきりと。それも一つや二つではない。


「とにかく遠くまで駆けなさい。村でも街でも、誰かを頼りなさい」


 半ば無理やりリッツを馬に乗せたマデリンは、目を閉じて静かに祈りを唱えた。


「風よ風よ、友なる風よ。どうかこの子に佳き道標を。私は疾く駆ける草原の民、パドガヤルの娘!」


 言い終わると同時にマデリンは馬の胴を叩いた。


「母さん!」


 慌ててリッツが振り返ると、母の姿はあっという間に闇夜に溶けていった。


                  ◆


 揺られながら、リッツはもう頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 村から見えたあの灯りも、聞こえてくる無数の悲鳴も、マデリンのただ事ならぬ雰囲気も、彼を混乱させるばかりだった。


「遠くまでって、どこに!? 頼るって、誰を!」


 叫びながら、がむしゃらに馬を走らせた。目的地などわからない。

 どれほどか走った後、リッツはハッとした。かすかに人の気配を感じたのだ。

 松明灯りではよく見えないが、街道脇の大きな岩の傍、まだ新しい野営の跡を目に捉えたのである。


「そうだ……たしか、夕方にはもう村を発ったって……」


 思い至り、下馬して近づくが誰もいない。

 もう次の場所に向かったのか。リッツは思考するが、一晩の中でわざわざ野営地を変える必要などあるだろうか。


「動くな」


 リッツは固唾を飲んだ。いつの間にか、背後を取られていたからだ。

 しかし、待てよ、と小さく呟く声がする。


「お前さん、昼間の……たしか、リッツだったか」


 その少し低く割れた声の主は、思った通りの人物だった。酔ってリッツのことを忘れてなどはいなかったようだ。

 僥倖だ。リッツは精一杯の平静を装って、笑みを作る。


「……そうだよ。あんた、ザイールだろ?」

「俺に、何の用だ」


 静かに凄まれ、背には刃の気配も感じた。

 危機的状況のはずだが、しかしリッツは手応えも感じていた。

 もしこのザイールという人物がただの無法者なら、この状況、誰であれ切り捨てていただろう。そうしないということは、少なくとも聞く耳は持っている。

 それでいて、相手が子供のリッツだと理解してなお、突き付けた刀剣を下げない慎重さを備えていた。

 つまり彼は「本物」なのだ。

 だからリッツは、彼の人となりとに賭けた。


「俺の村を、救ってくれないか」

「……報酬は?」

「ない」

「話にならん」


 相手は傭兵。対価も支払わず頼める仕事など、あるはずもなかった。

 リッツは一度深呼吸して、勢いよくザイールに向き直る。


「俺が、全部、体で返す! 何年かかっても絶対に返す!」


 腹の底から出た叫び声が夜道に響く。

 呆気にとられたザイールだが、すぐに口元を歪ませて大笑いし始めた。


「お前さんそれはヤケクソか? それとも、ただの馬鹿野郎か?」

「うるさい! できるのか、できないのか!?」


 ヤケでも馬鹿でも、どっちでもよかった。流れてきたのが藁だとしても、掴めるものがあるだけマシだ。

 リッツは、とにかく必死だったのだ。

 やや間があって真剣な面持ちに変わったザイールは、リッツの馬に飛び乗った。


「……早く乗れ。時間がないんだろ?」


 希望はまだ、断たれてはいない。



 リッツとザイール、二人を乗せた馬は駆けた。とにかく夜道を駆け抜けた。

 おぼろげだった村の輪郭も、はっきり見えるようになってきた。

 照らす赤色が空まで伸びて、炎の強さを物語る。


「くそっ! 母さん、神父様、みんな!」


 近づくにつれてリッツの鼻を刺激するのは立ち込める煙と、それから――


「……血の匂いだな」


 ザイールの低く割れた声が、耳に反響するようだった。

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