2 理不尽

 教会を出て家路についたリッツは、自宅の前でふと立ち止まった。中から話し声が聞こえたのだ。


「そう……残念。と言ってはダメね」

「……いえ。ですが、二、三日後には」


 それしか聞こえなかったが、母と神父のようだった。

 神父はすぐに出てきたものの「おや、お帰りなさい」と何食わぬ顔だった。


「神父様、何か用事が?」

「ええ。今回も素晴らしい出来栄えでしたと、お礼を……」


 そう言うと神父は帰っていった。

 聞こえた内容から多少妙だとは思ったが、彼がこうして礼を言うためにわざわざ家まで来るのはよくあることなので、リッツは特に疑わなかった。

 実際、母の縫った布飾りはよくできていたのだから。


「ただいま」

「おかえり」


 短い言葉のみを交わす。

 母、マデリン=パドガヤルとはいつもこんな調子だ。


「母さん。これ、代金」

「ありがとうリッツ。あなたはいい子ね、本当にいい子」


 そう言って、マデリンは自身と同じ黒い髪の頭を撫でまわす。


「……大げさだな」


 たかだかお使いの代金を持って帰ってきただけのことで、リッツにしてみれば気恥ずかしいったらない。

 マデリンはただ口数が少ないだけで、そういう人なのだ。


「それよりも母さん、弓の稽古に付き合ってくれ」

「毎日熱心ね。誰の影響かしら」


 熱心。確かにそうなのかもしれないが、しかしそれだけというわけでもなかった。近頃のリッツは、どこか言い知れぬ不安を抱えていた。

 何かに一心不乱に打ち込むことで、このを払いたかったのかもしれない。

 とかくそんな事情はありつつも、長い髪を風になびかせながら馬上で静かに弓を引き、正確に的を射抜く母の姿が、リッツはただ純粋に好きだった。


                   ◆


 三日後のことだ。

 その日は何かがおかしかった。

 マデリンがいつになく冴えない表情をすれば、いつものようにリッツをからかいに来る悪友たちも来ない。

 ミネとも、あれから一度も会っていない。

 だから遠乗りの約束だって、果たせていないままなのだ。

 不審に思ったリッツが村の広場まで繰り出すと、何やら辺りが騒がしかった。


「おい、本物かよ!」

「へえ! あれが公爵様!」


 リッツの耳にも「公爵」という単語は聞こえたが、貴族なんて縁のない人物だと思っていたので半信半疑だった。


「ええい! 皆、静まれよ! 公爵閣下の御前である!」


 若い女の声がした。ずいぶんと威勢がよさそうだ。

 そこでようやく、リッツは村人の群れに混じることができた。


「マティア、領民を威圧してどうする。我らは侵略者などではない」

「は、申し訳ございません! ヴォルター閣下!」


 直立不動にかしこまった若い女――ただの兵士にしては小綺麗で、騎士だろうか。その姿に何か言いたげではあったが、奥の男は小さく一息吐くだけに留めた。


「……まあいい。神父殿はおられるか」


 身なりのいい、堂々として気品を感じる壮年の男が神父を呼ぶ。

 何より目立つのは銀の髪と、同じ銀色の瞳。ここまでの話が本当なら、彼はこの地の領主ヴォルター=オールストン公爵その人である。


「はい、神父は私です。いや、しかしまさか閣下が御自らとは……」


 おずおずと神父が姿を見せた。

 だが、リッツはそこで違和感を覚えた。彼の反応は公爵に驚きこそすれ、この事態そのものに対する動揺ではなかったからだ。

 さらに神父の隣には、不自然なまでに着飾ったミネの姿があった。マデリンがしつらえた布飾りも身に着けている。


「大事な娘子を預かるのだ。ならばせめて、私自身が迎えねば」

「そんな、恐れ多い……」


 終始畏まった様子の神父と、うつむき加減でしゃべらないミネ。リッツには、わけが分からなかった。

 娘子を預かる。

 言葉のままに受け取るならばそれは、つまり――


「ミネ、といったか。貴方の娘を、公都の法術士として迎え入れるのだから」


 乱れる鼓動がリッツを襲う。

 その瞬間、すべてに合点がいったのだ。三日前に自宅で聞いた妙な会話も、朝から冴えない母の様子も、急に会えなくなった幼馴染も。

 ぜんぶ、ここに集約されるのだ。


「神父様も……母さんも……知ってて黙ってたのか!」


 思わず、口をついてしまった。


「リッツ……いたのですね」

「なんだよ公爵って! 公都って! ミネだって、そんなこと一言も――」


 子供とはいえ無礼だぞ! そんな怒声とともに従者の女が止めにかかるが、公爵はすぐにそれを制止する。


「……神父殿。この少年は?」

「リッツと申します。ミネとは……一番の友でした」

「漆黒の髪……」

「はい。スラヴァ人でございます。村はずれで母親と二人で暮らしております」

「自由を愛し、草原に生きる東方の民、か……」


 公爵は神父の言葉に耳を傾けつつ、顎に手を当て思考するように呟いた。


「……リッツ」


 そしておもむろに口を開いた。

 なんだよ、と言って警戒しつつも、風格にリッツは気圧される。


「まずは詫びよう。だが、君の意を汲んでやることはできない。なぜなら彼女の才は、我がオールストン家にとって絶対に必要な力となるからだ」


 取り付く島もない拒否である。

 問答もなく簡潔で、それがまたリッツを刺激した。


「ふっ、ざけるなぁっ!」


 反射的に飛びかかっていた。得物もなく、拳のみで。

 リッツは、それがどれほど愚かで無謀な行為かもわからぬ歳ではなかったが、抑えられなかったのだ。


「……やむを得ないか」

「か、閣下! 何とぞお慈悲を!」


 神父がうろたえた次の瞬間、リッツの視界は暗転した。剣の柄で首を殴打され、そのまま崩れ落ちていく。


「……っち、く、しょ……う……」


 少年は遠のく意識の片隅で、すすり泣くようなかすかな声を聞いた気がした。


「さよなら、リッツ……」

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