短篇集

龍之介

波間に眠る

「あら奥さん、今日はお出かけ?」


 自宅出ると声を掛けられ、私は振り返る。

 声の主には見覚えがあった。町内会で時々話した事があるご婦人だった。名前はなんて言っただろう――。


「ええ、そうなんです。良いお天気ですから少しそこまで」


 軽い挨拶もそこそこに私は足早にその場から離れる。

 気にしなくていいの。これからやる事、あるいはもうやった事で私は多分この街とは他人になるのだから。そう自分に言い聞かせ、駅へと向かう。荷物はほとんど持っていないから身軽だ。そして私の足取りは軽くもあり、重くもある。


 列車に乗り席に座ると、私は窓に軽く頭をつけ、流れていく外の景色を眺める。


 ふと自宅に残してきた書き置きの事を想う。


 彼は、なんて思うだろうか。


 そして奈良にいる両親の事も想う。


 不意に一人帰ってきた娘を、なんて思うだろうか。


 愛が無かったわけではない。冷めたわけでもない。

 彼に何かされたわけでもない。何もしてくれなかったわけでもない。


 ただ、怖くなってしまったのだ。どうしようもなく。

 皆と同じように恋愛をし、結婚をして、毎朝朝食を作り、彼を送り出して、掃除をして、時々はパートに出て、ご近所さんと何でもない話をして、夕食の準備をして、彼の帰りを待って、二人で会話をして、眠る――。


 時々は変化が…、というより同じ日が繰り返されるなんて実際には無いんだろう。

 でも、同じように見える枠の中の生活がずっと続くのかと思うと、急に怖くなった。

 そしてある時、自由という聞こえの良い言葉が私の脳裏に浮かび、

 私はそれがなんなのかもわからず、ただどうしてもそれが欲しくなって、飛び出してしまったのだ。


 ――列車の中には、会社員姿の男性達も多かった。


 彼も…と、ふと私は思った。


 彼も、変化の乏しい枠の中で孤独な思いをしてるのだろうか。


 外の景色は青く澄み渡っている。


 今からでも帰ろうか、と私が私に言う。

 そうしようかな、と私も私に言う。


 でも今は、まだもう少しだけこうしていたいと思う。


 自由という、どういうものかも分からないものを欲しがったこの気持ちの重さを感じながら、列車は私を故郷へ運ぶ。

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短篇集 龍之介 @kitaryuuno810

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