第三話

 次の日からクラージュは本当に山に籠ってしまった。

 ずっと誰かがいることに慣れてしまった家でまた独りになり、こんなに静かだったんだ。と改めて思った。

 僕は独りの寂しさを誤魔化すために一切手をつけていなかった夏休みの宿題に手を出した。

 それでもその日のノルマはすぐに終わってしまい、やることが無くなった。

 あんなに楽しかったゲームも独りだと虚しいだけだった。

 僕はクラージュにご飯を持っていくのを口実に頻繁に山に遊びに行った。

 最初は外装を修理していたクラージュも二日経った今は中の修理で、遊びに行ってもなかなか顔を出してくれなくなった。

 僕は、クラージュがロケットから出てくるのを待つだけで時間を潰す日が続いた。


 クラージュが山に籠ってから四日経った。

 僕がいつもの様に夏休みの宿題を今日の分終わらせてから昼飯を作って山に向かった。

 明日にはクラージュは決断をしてしまう。ゆっくり過ごせるのは今日だけだった。

 僕は、体調を崩して三日間無駄にしてしまったことを思い出して後悔しながら山を登った。

 ロケットの場所まで辿り着くと、クラージュは珍しくロケットの外にいた。

「やぁ、クラージュ。今日は外で待っててくれたのか。長時間待たなくていいから助かるよ」

 僕はそう言って、リュックを降ろして中から作ってきたサンドイッチの入ったタッパを取り出そうとした。

 しかし、それはクラージュに止められた。

「クラージュ?」

「ヤマダ、自分のおにぎり、今度は、食べてくれる?」

 そういえばあの後結局そのまま寝込んだからクラージュのおにぎりを食べられていないままだった。

「う、うん。食べるよ?」

 僕は突然出たおにぎりの話について行けなくて、困惑したまま返事をした。

「じゃあ、家に帰ろ」

 クラージュは僕の手を引いて歩き出した。

 タッパを取り出そうと前傾姿勢になっていた僕はいきなり引っ張られてバランスを崩しかけた。

「ちょ、くら、ロケットは?いいの?」

 僕は体制を立て直しながらタッパをリュックにしまいながらクラージュについて行く。

「船は、直った。今日、連れて行く。だから、最後に、自分のおにぎり、食べて欲しい」

 最後……。

 その単語に僕の心は締め付けられた。


 家に帰るとクラージュはテーブルの椅子をキッチンに引っ張っていき、慣れた手つきでお米の準備を始めた。

「クラージュ……もしかして、僕が寝込んでる間代わりに家事をしてくれたのって……」

 僕はずっと父だと思っていた事をクラージュに聞く。

「お世話になってるのに何もしない、嫌だった。ヤマダの動き、見て覚えた」

 クラージュは手元から目を離さずに答える。

「クラージュだったんだ。ずっと父さんだと思ってた。ありがとう。凄く助かったよ」

「うん」

 クラージュは料理に集中しているのか、少し元気が無いように見えた。

 僕は椅子に座って、テーブルに置いたクラージュのために作ったサンドイッチをつまんでいた。

 別にお腹が空いていた訳じゃないけど、なんだか気まずくて気づいたら食べていた。

 少しして、クラージュも向かいの椅子に座った。

 ご飯が炊けるまでやることが無いようだ。

 クラージュもサンドイッチに手を伸ばす。

「自分、ハンガーガーが好きって言った。でも、今はこれが好き。ヤマダの味」

 僕は嬉しくて、でも寂しくてはにかむことしか出来なかった。

「今日、どこ行くの?」

 僕は沈黙が気まずくてどうにか話題を捻りだす。

「うみ」

「海?」

 僕はサンドイッチを食べる手を止めて、気まずくてサンドイッチに落としていた目線を持ち上げてクラージュの方を見る。

「うん。うみ。ヤマダのあげた夏のひとつ。まだ、行ってないとこ」

 クラージュは僕が適当に挙げた海、山、プールという単語をずっと覚えていてくれたようだ。

「この星に来た時に見た、綺麗なところ。あそこに、ヤマダ、連れて行きたい」

 クラージュは今までに見たことないくらいに真剣な顔で僕を見ていた。

「う、うん」

 僕は頷くことしか出来なかった。

「あ!!!」

 僕は咄嗟にいいアイデアが浮かんで大声を出してしまった。

 僕の声にクラージュは肩を跳ねさせた。

「ご、ごめん!クラージュ!おにぎりできるまでまだ時間あるよね?」

「う、うん」

「ちょっと僕出かけて来る!!!」

 それだけ言い残して、クラージュの返事を待たずに僕は家を飛び出した。

 どうせ海に行くのなら、出来なかったことを最後にやろうと思った。


 一番近場のコンビニで用事を済ませてから急いで家に帰った。

 袋の中身をクラージュにバレないようにするために僕は下駄箱の上に置いてキッチンに戻った。

「ただいま!」

 僕が上機嫌でキッチンを覗くと、クラージュは既に握り終えたおにぎりを皿に乗せているところだった。

「おかえり!」

 クラージュは僕のテンションに合わせて返事を返してくれた。

「おにぎり、出来た!」

 クラージュがテーブルに移動したお皿には少し不格好なおにぎりが乗っていた。

「美味しそう!いただきます!」

 僕は一番持ちやすそうなやつを一つ手に取って、握りの甘いおにぎりが崩れる前に口に運んだ。

 丁度いい塩加減に酸っぱい梅干しが合っていて美味しかった。

「うん!美味しい!」

 僕は素直に気持ちを伝えた。

 クラージュは嬉しそうに僕の食べている顔を見ていた。

 二個食べたが、両方具材は梅干しだったので残りの二個も中身はきっと梅干しだろう。

 おにぎりを食べ終わる頃には外は夕方になっていた。

 残りも具材はやはり梅干しだった。

 僕はリュックに入れていた水筒を取り出して水を飲んだ。

「ごちそうさまでした。美味しかったよ。ありがとう」

 僕は改めて感謝を伝えた。

「よかった!自分の夢、ひとつ叶った」

 クラージュは嬉しそうに言った。

「夢になるほど僕におにぎりを食べて欲しかったの?」

 僕が聞くと、クラージュははにかみながら頷いた。

「おにぎり、一番心込めやすい料理って。だから、食べて欲しかった。自分、自信作」

「心を込めやすい料理……」

 僕はお米のこびりついた皿を見る。

 誰かも似たようなことを言っていた気がする。

 僕の脳裏にはノイズのかかった女性の顔が浮かび上がった。

 母さん?

 はっきりと思い出せなくて頭が痛くなってきた。

 僕はかぶりを振って意識を逸らした。

「ヤマダ、もう、行こ」

 僕はクラージュに差し出された手を掴んで立ち上がった。

「先に行ってて。後から行く」

 僕がそう伝えると、クラージュは一切の疑いを見せずに頷いてから麦わら帽子と水筒を手に取って玄関に向かった。

 僕は食べ終わった皿を流しに持っていき、水に浸した。

ついでに水筒に水を補充して、玄関の閉まる音が聞こえてから玄関に向かった。

 持っていたリュックに玄関に置いた袋の中身を確認してから詰め込んだ。


 玄関の扉が閉まる音がしてからすぐに僕も家を出たつもりだったが、結局山にたどり着くまでクラージュに追いつくことは無かった。

 山に着くと、クラージュは起動音のするロケットから顔を出して「いつでも出発できるよ」と、声をかけてきた。

 僕はクラージュに促されるままに、人生で初めてのロケットの中に足を踏み入れた。

「うわぁ。僕、ロケットって初めて乗った」

 僕は天井にまで広がる無数の機械を眺めながら言った。

「狭い?ごめん」

 僕は操縦席だと思われる場所にある椅子に背中を預けて体育座りをしていた。

「大丈夫。なんだかわくわくする」

 僕は椅子の向こう側にいるクラージュに声をかけた。

 なんだか話すことも思いつかなくて、僕は横にある窓から外を見た。

「動くから、気を付けて」

 僕が少し腰を浮かせたのに気付いたのか、クラージュは声をかけてくれた。

「うん」

 機械がいっぱいあるこの場所で、バランスを崩して下手に触ってしまうのも怖いので、僕は素直に座りなおした。

 僕が座ったと同時にゆっくりと重力が増していく気がした。

 あまり実感はないが、ロケットなのできっと飛んでいるのだろう。

「安定した、もう、大丈夫」

 好きに動いていいということだろう。

 僕は再度横の窓に顔を近づけた。

「うわぁ……。本当に、飛んでる」

 先程窓の外に見えた木々は、目下にあった。

「ゆっくり進むけど、転ぶ、危ないから、気を付けて」

「分かった」

 前のめりで窓を覗いていた僕は、その場に座って少し背を伸ばして窓の外を見ることにした。

 この景色を写真に収めたいと一瞬思ったが、ポケットの携帯に向かっていた手を僕は止めて、少し考えた。

 写真はやめよう。

 僕はこの景色を目に、心に、頭に直接刻もう。

 写真を撮るために一瞬でも画面を覗いている時間がもったいない。

 目の前に広がるこの景色は、常に動き続けているのだ。

 一分でも、一秒でも見逃すのがもったいない。

 少しでも長く、鮮明に、この景色を僕は刻み込みたかった。


 あっという間に僕の知っている町は無くなり、海が一面に広がる場所に出た。

「夜の海って、真っ暗だね」

「夜だ。もうすぐで着く、捕まって」

 僕は言われた通りにクラージュの座っている椅子の背に捕まった。

 操縦席にずっと背を向けていたから気づかなかったが、操縦席の窓は運転するために死角を無くすためか、僕が覗いていた窓よりも倍以上に大きくて、外の景色が一層開けていた。

「凄い迫力……」

 目の前の光景に僕の口からは無意識に言葉が零れていた。

「すごいでしょ。兄たちが作ってくれた、自分だけの、船」

 クラージュは鼻高々に言った。

「自慢のお兄さん達と、自慢の船なんだね」

 僕の言葉を聞いて自慢の家族がいることへの羨ましさと、僕もそう思われたいなという願望が混ざった、寂しい感情に襲われた。

「着陸する、捕まって」

 僕たちの目の前には周りを海に囲まれた孤島があった。

 見える範囲であるのは高床式の建物だけ。

 まるで、そのためだけにある孤島の様にも見える狭さだった。

 建物の近く、海に浸らない場所に船を着陸させる。

 プシュー。

 クラージュが足元のボタンをいじると、僕の横から聞き覚えのある音が聞こえた。

 いつの日か外から見た、煙を出しながら開く扉。

 完全に開ききってから、僕は外に出た。

 べたつく潮風に、鼻を衝く磯の香り。

「海だ」

 僕は背伸びしながら潮風を全身で感じた。

「べたつくけど、気持ちいいな~」

 僕は後ろを振り返り、クラージュが船から降りてきたのを確認した。

「ここいいね!人もいないし、静かだし。なんだか、非現実にいるみたい」

 僕は建物の階段を勢いよく駆け上がって二階に行く。

 一面黒い海。そこの見えない黒い海。

 きっと落ちたら二度と浮上出来ないんだろうな。

 クラージュはいきなり駆け出した僕に遅れてついてきていた。

 僕の横に来ると、僕と同じように黒い海を眺めた。

「ねぇ、クラージュ」

 僕は急に自分語りをしたくなってクラージュに声をかける。

 クラージュは僕の方を見た。

 手すりに頬杖をついていたので、今はクラージュが見上げなくても目の前に僕の顔がある。

「あのね、僕、母さんを殺したんだ」

 僕の告白に流石のクラージュも白目が見えるくらいに目を見開いていた。

「僕の母さんもおにぎりを作るのが好きだったんだ。それこそクラージュと同じで、『おにぎりは心を込めやすい料理だ』って言ってて……。あの日も、お昼ご飯に母さんが握ったおにぎりを食べた。父さんと、母さんと三人で海に来てたんだ。父さんは仕事の疲れもあってテントで寝ててね、母さんは使った物を洗いに行ってたんだ。小学生だった僕は一人で海に近づいちゃダメって言われてたんだけど、僕は海の中で光る何かが気になっちゃったんだ。どうしても、今すぐそれを取りに行かないと二度と手に入らないかもしれないって不安にかられて、僕は起きてくれない父さんを置いて、一人で海に近づいた。光る何かを探すのに夢中になってた。足が着くからまだ大丈夫、まだ大丈夫ってどんどん奥に進んでてね。気づいたら僕は、波が来たら足が着かないところまで来てた。僕が光る何かを捕まえると同時に今までよりも大きい波が来たんだ。僕は波に押されてバランスを崩した。体制を立て直そうとして地面を足で探したけど、僕の足は既に地面に届く距離にはいなくて、そのまま波に攫われた。僕はパニックになってその場で必死に暴れることしかできなかった。パニックになればなるほど僕の中には海水ばかり流れて段々上手く空気も吸えなくて、死ぬかもしれないっていう恐怖さえ感じなかった。そんな僕を洗い場から戻ってきた母さんは助けに来たんだ。パニックになった僕に巻き込まれて母さんも溺れた。二人して溺れているところを助けてくれたのはライフセーバーでも父さんでもなくて、見ず知らずのおじさんだった。すぐに僕たちは病院に運ばれたけど、生き残ったのは僕だけだった。病院に運ばれている間も離さないように必死に握っていた光る何かの正体はただのビニールだった。僕は誰かが捨てたごみを手に入れるために母さんを殺したんだ。しかもね、後日近所の人が言ってたんだ。母さんのお腹には子供が居たって。信じたくなくて、母さんの遺品を漁ったよ。見つかって欲しく無くて、見つからないことで、違うという証拠が欲しくて。でも、それはあったんだ。母さんの遺品の中に、僕が一番見つかって欲しくない、無ければいいのにと思った母子手帳が。僕はその日、殺人犯から殺人鬼になったんだ。僕はもう、誰とも関わっちゃいけないんだ。一人で生きていかにと、僕のせいでまた誰かを殺してしまうから。僕の好奇心は人を殺すんだ。」

 僕の長い自分語りを、クラージュは黙って聞いてくれていた。

 だからこそ、僕の気持ち良くなって開いた口から次々に言葉が漏れた。

「本当は僕はクラージュの事を友達以上だと思ってる。一時は弟とさえ思ってた。でもそれはきっと、クラージュに僕が殺してしまった兄弟を重ねていたのかもしれないね。クラージュならきっと人間じゃないから、僕といても死なないと思ってたのかもしれない。僕は無意識の間に自分を被害者だと思って、家族を欲してたのかもしれない。クラージュを幸せにすることで僕は殺してしまった家族に許されようと思ってたのかもしれない。僕をいつも見降ろしてくる父やご近所さんの幻影が僕を許してくれないんだ。どうすれば許されるのか分からなくて。あの日、本当は僕、死のうとしたんだ。最後に何かが帰られるかもしれないなんて希望を抱いて雷の落ちた山を見に行ったら、君が居た。神様が僕にくれた最後のチャンスだと思ったよ。『もしもこの宇宙人から地球を守ったらお前の罪は全てゆるしてやろうって』って言われている気がして、君に地球の良いところを案内するとか意味の分からない提案をした。そこからは、さっき話した通り、いつの間にか僕の目的は変わってた。でもね、これだけは言える。僕はあの日、死なないで、山に行って良かった。君に会えて、一緒に七月を過ごせて良かった。僕と出会ってくれて、僕の世界を変えてくれてありがとう。僕はもう一人でも歩けるよ。目を逸らし続けていた現実もちゃんと見て、父さんとも、あの日の事故ともちゃんと向き合う。それで許してもらえるとは思ってないけど、母さんが残してくれたこの名前に恥じないように、名前負けを言い訳にしない人生を歩くよ。僕と出会ってくれてありがとう」

 僕は隣にいる、もう宇宙人の姿をしていないそれに笑いかける。

 僕に笑いかけられたそれは少し照れた様に、はにかんだ。

「ねぇ、最後に花火をやらない?花火大会に行く約束果たせなかったからさ。あの写真みたいに盛大なものじゃないけど」

 僕が背負っていたリュックから今日の夕方に急いで買いに行った花火を取り出しながら提案すると、それは既に見ることが出来なくなった目を輝かせながら頷いた。

 見えなくても分かる。今まで何度も見た光の無い目が輝く姿、四本しかない細長い指。

 僕は、手持ち花火を一つ適当に差し出す。

 指が四本しか無い手が差し出した花火を受け取る。

 下に降りた僕は月明かりの反射した白銀の海から消火様の水をコップに汲んだ。

 砂浜に戻ると、近くにコップを置いてからそれに渡した手持ち花火にチャッカマンで火を点ける。

 点火してから少しして、勢いよく光が飛び出した。

 僕は安全に着火したのを確認してから自分の分にも火を点ける。

 綺麗な緑の光が勢いよく飛び出す。

「綺麗だね」

 僕が言うと、それは口元を緩ませている気がした。

 僕たちはどんどん手持ち花火を消費した。

 二本まとめて火を点けて、両手持ちで遊んだり、まだ火が付いている花火から火を分けてもらったり、それが火を点けた花火が実はロケット花火で急いで手を離した瞬間に飛んで行ったり。

 最初で最後の花火は一瞬で終わった。

 残っているのは線香花火だけだった。

 僕たちは風に煽られないように、自分たちの体で壁を作ってしゃがんだ。

 火を点けた。

 最初は燃えているだけだった線香花火は徐々に激しさを増していった。

「もう、花火も、終わりだね」

 線香花火のせいなのか、これで終わりだと分かっているからなのか、僕は先程まで盛り上がっていた気持ちが一気に沈んでいくのが分かった。

「夏だけじゃなくて、冬も遊びたかったな。」

 僕は目下の線香花火を見つめながら言う。

「作った風鈴、取りに行ってないね」

 線香花火の激しさが最高潮を迎える。

「ごめ……」

「ありがと」

 僕の言葉を遮ってそれは言った。

「え?」

 僕がそれを見ると、そこには何もいなかった。

「あっ」

 勢いよく顔を上げたせいで、線香花火の火種は落ちてしまった。

 終わってしまった。

 僕の夏は、今、終わってしまったのだ。

「うっ……ぐっ……」

 堪えていた涙が溢れだす。

 僕は許してもらえたのだろうか。

 こんな兄に、兄弟は最後に「ありがと」と言ってくれた。

 たった一か月、ひと夏だけでも生きられた兄弟は、幸せだったのだろうか。

 僕は零れ続けている涙を服の袖で拭って、無理矢理涙を止めた。

 僕はお兄ちゃんだ。嘘でも「ありがと」と言ってくれた兄弟に胸を張れるように。

 僕はコップに入れていた消火用の水を捨てるために海に向かった。

 花火の熱で火照った体に潮風が気持ちいい。

 波が来るたびに足が冷えて夢のような世界から現実に引き戻される。

 いつの間にか波は膝下まで来ていた。

「あぁ。もう、夢の世界は終わりか。僕は、ちゃんとこのひと夏の出来事を覚えているだろうか?僕がいつかこの出来事たちを思い出と言ったように……。僕は……。

 いつの間にか僕の声は音になって、一面に広がっていた白銀の海は黒一色になっていた。

 現実の僕が目を覚ます。



 僕は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。

 いつの日か見た気がする真っ白な天井が視界一杯に広がった。

 聞こえてくるのは僕の呼吸音と、規則正しい機械音。

 僕に酸素を供給してくれているはずの口元のマスクが酷く苦しく感じて、僕はそれを動かしにくい手で外す。

 なんだか下半身が重くて、僕はそちらに目をやる。

 僕が動いたことで夢から現実に引き戻された重さの正体は、まだ眠そうな瞼を擦りながら上半身を持ち上げる。

「と、さ……」

 僕は上手く声が出せないことに気づく。

「勇気?勇気!!!」

 僕が目を覚ましたことに気づいた父はベッドにナースコールがあるにも関わらず、急いでナースセンターに向かって走り出した。

 まだ閉まり切っていない扉の外から、看護師さんの怒っている声が聞こえてくる。

「ふっふっ……」

 僕は、乾ききった唇を持ち上げて乾いた笑い声を出す。

 上手く動かない体を無理矢理起こす気にもなれず、僕は父が戻ってくるまで天井を眺めて待った。

 その場で出来る簡易的な検査後に、様々な質問をされたが、僕の記憶は二年前の中学二年生で止まっている。

 経った二年のはずなのに僕は浦島太郎の気分を味わった。

 僕のいない二年の間に何かが大幅に変わった訳ではないが、何も変わっていないわけでもない。

 二年前の大雨のあの日、やはり僕は自殺を図っていた。

 ロープで首を吊っていたところを、落ちた雷による山火事を心配した山の持ち主が発見してくれたそうだ。

 当時の僕なら死ねなかった事に癇癪を起して今すぐにでも再度自殺を決行していたかもしれないが、今の僕は死ねなかったことに安心と喜びを感じていた。


 二年間父の介護があったとしても、ほとんど動かさなかった体はリハビリをするたびに悲鳴を上げていた。

 それでも早く退院したくて僕は無我夢中にリハビリを頑張った。

 その甲斐あって、僕は予定より大幅に早く退院出来た。

 医者は「若さってすごいね」なんて驚いていたが、僕はまだ16ですから。と誤魔化した。

担当してくれた医者や看護師さんに見守られながら、迎えに来てくれていた父の車に僕は乗り込む。

いつもは後ろに座る僕が助手席に座ったので、父は少し驚いた顔をしていたが、何も言わずに車を走らせた。

「あのさ、父さん」

 病院が見えなくなってから少しして僕は話しかける。

 いつの間にか僕の声は低くなっていた。

「僕、ごめん」

 自分から話しかけたのに、気まずくなって意識を戻してから何度目かも分からない謝罪を述べる。

「前も言ったが、もう、謝るな。生きてるだけで満足だ」

 運転中の父は前を向いたまま僕に言う。

 僕は顔を真っすぐに見ることが出来なくて、俯いた顔のまま横目で父を見ていた。

「うん、ご。……あの、さ……。僕、夢を見たんだ。長い長い夢。ほとんど内容も覚えてないんだけど、どこか懐かしくて、どこか新鮮で、どこか楽しくて、どこか寂しい夢」

 僕の話を父は静かに聞いてくれていた。

「何が言いたいのか自分でも分かってないんだけど、でも、その夢で僕は、母さんの事を思い出した」

 母さんという単語が出た途端、父は少し反応を見せた。

「僕は、母子手帳を見つけたあの日からずっと忘れてたんだね。ずっと、母さんがいないのは父さんのせいだと思ってたんだ。父さんは僕を避けている様に見えたから、僕のことも本当は嫌いなんだと思ってた。僕は、そんな父さんのところに僕を置いてった母さんのことも少し恨んでた。でも、夢の中で知ったんだ。母さんがいないのは僕のせいで、父さんは僕に記憶を思い出させないように敢えて接してこなかったんだね。玄関に飾ってあった風鈴も母さんが大好きだったものだから、僕の為にかたしてくれてたんだよね?本当は、あの音色を一番好きだったのは父さんだったのに。でもさ、父さん。僕、もう大丈夫だから。ちゃんと現実を見て、母さんと兄弟に胸張れるように生きるよ。だから、父さんも、僕に縛られないで。父さんの人生を生きて欲しいんだ。今まで、支えてくれて、ありがとう」

 僕は静かに零れてきた涙に気づいて、一気に感情が溢れてきた。

 静かに、静かに泣いた。

 父さんがどんな顔をして、どんな思いで隣にいるのかも確認できなかった。


 どうやら僕は泣きつかれて寝てしまっていた様だ。

 目を覚ますと、隣に父はいなかった。

 沈んでいた体を持ち上げて窓から外を見ると、コンビニの看板が見えた。

 トイレにでも行っているのだろうか?

 僕も喉が渇いたので、水を買うために外に出た。

 父は、車の鍵を車内に置いて行ってくれたので、警報を鳴らすことなく車から降りられた。

 僕は車の鍵を閉めてから背伸びした。

 伸ばした上半身を横に倒した時、コンビニの裏にどこかで見たことのあるお店の看板が見えた。

 どこで見たのかはっきり思い出せなくてモヤモヤした僕は、はっきりさせるためにお店に足を運んでいた。

 扉を開いて中に入ると、大量の風鈴が現れた。

「小さいときに母さんと来たのかな?」

 僕は店内を一通り見て回ることにした。

「そちらの商品は昔やっていた手作り体験で引き取りが出来なかった作品達です。体験者さんに確認を取ってから商品にしているんですよ」

 風鈴についている値札をなんとなく見ていると、若い女性の店員さんが話しかけてきた。

「そうなんですね」

 僕は値札に再度目を落とした。

「体験は、もうやっていないんですか?」

「はい。大盛況だったんですけど、スタッフ不足が原因で予約に対応出来なくなってしまって、泣く泣く体験は終了させていただきました。」

 女性店員は手をもじもじさせながら言った。

「それは、残念ですね。もしもまだやっていたら、僕も作ってみたかったです」

 お世辞ではなく、僕は素直に気持ちを伝えた。

「そう言ってもらえて嬉しいです!」

 女性店員は暗くなっていた表情に明るさを取り戻した。

「もしも作れとしたらどんな風鈴を作りますか?」

 女性店員の質問に僕は少し考えてから答えた。

「ロケットの形とか?」

 特別ロケットが好きというわけでは無いが、ふと、ロケットが思い浮かんだ。

「それだったら、お客様にぴったりな作品があります!ちょっと待っててください!」

 女性店員は店の奥に走って行ってしまった。

 僕は、ポケットの中に入っている鍵の存在を思い出して、父が僕を探しているかもしれないと少し焦り始めていた。

「すみません!この作品です!」

 作品を傷つけないように、店の奥に向かった時よりも落ち着いて速足で戻ってきた。

 僕は女性店員から箱を受け取ると、中身を見た。

 ロケットの形の風鈴だった。

「そちら、二年ほど前に体験に来てくださった兄弟が作った作品なんですが、取りに来ることはなくて、連絡しようとしたんですが、登録された電話番号が文字化けしていて連絡も出来ないから勝手に商品にするわけにもいかなくて、ずっと眠っていたんです。もうすぐお店も閉店しますから、商品にするのもありかなって思っていたところだったんです。もしも誰かが買ったことで、あの兄弟の目につくことがあればいいなって」

 女性店員は僕の手の中にある風鈴を愛おしそうに見つめながら言った。

「この作品は、私がこのお店に来てから初めて作った作品なんです。少し愛着があって、いい人の手に渡って欲しいなって思って、お兄ちゃんが嫌じゃなかったら、貰ってくれないかな?」

 女性店員は風鈴に落としていた視線を僕に向けた。

「愛着があるなら、お姉さんが貰えば良いんじゃないですか?」

「それも考えていたんだけど、私にはこれを作った兄弟の気持ちが分からないから、同じロケットの風鈴を作ろうとしたお兄さんの方が分かるかなって思って」

「そう、なんですね」

 僕は風鈴を一周見てみる。

 青色の風鈴には、肌色と黒色の何かと肌色単体の何かが描かれていた。

 確かにこれは、何を思って作ったのか分からないな。

「兄弟の弟さんが作ったんだけど、テーマは『思い出』って言ってたかな?」

 女性店員の説明を受けながら僕は何かを見つける。

 風鈴の端に小さくカタカナで『クラージュ』と書かれていた。

「クラージュ……」

 僕はその文字を指でなぞりながら呟く。

「くらーじゅ?あ、Courage?フランス語で勇気って意味だね」

「勇気……。そう、なん、ですね。これ、いただいてもいいですか?」


「ありがとうございました!」

「いえ、やまもとさんもお元気で」

 僕は店の外まで送ってくれた女性店員に頭を下げて店を後にした。

 女性店員は慌ててエプロンの名札を外そうとして手を空ぶらせてから、店から去っていく僕の背中を不思議そうに見ていた。

 父を待たせていることを思い出して、走って車に戻る。

 父は運転席側の扉の前でコーヒーを持ちながら立っていた。

「ごめん!」

 僕は急いで父に車の鍵を返した。

「いい買い物が出来たみたいだな」

「うん!これは、僕の大切な思い出なんだ」

 僕は、先程のお店で買った風鈴の箱を大切に抱えながら車に乗った。

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