第3話

  「シラフ…シラフ…」と呼ぶ声に、シラフは目覚めた。ホルチが上から覗き込んでいた。「一緒に行きたいの」とホルチは布袋を肩に斜めにかけながら呟いた。

  「木の種を拾いに行くの」シラフは起き上がって、わくわくとたずねた。昨夜、ホルチがもう一つの奇妙なところを見せるからと言っていたのを思い出したのだ。

  「そうだ。今日は大変だぞ。火の国を離れるまでの食を準備するんだから」とホルチは靴の紐を結び直しながら息を大きく吸い込んだ。シラフはさっそく服を着て、まだ熟睡しているおじ、アギとジガの足元をそっと通り、扉を開いて家を出た。

  「ア…」シラフは悲鳴を上げて、慌てて扉を閉じた。眩しい光がまるで鋭い矢のように彼の目に差し込んだのだった。「何だ?それは」シラフは手で目を覆いながら叫んだ。

  「太陽だよ」ホルチは、シラフの横を通り、扉を開きながら「目を瞑って出て。少し経てば、慣れちゃうから」と言った。

  「太陽?」シラフは声をあげた。ここに来てから太陽を見たことがなかったが、陽光がこんなに鋭かった記憶はない。彼は、袖で目を覆いながら家を出た。

  「昼間が懐かしがっていただろう」ホルチは目を細めて太陽を見上げながら「夜に慣れすぎると、陽光を耐えなくなるんだ」と言った。

  「ア…」シラフはまたしても悲鳴を上げた。

  「またどうしたの」ホルチは振り返った。

  「一体どういうこと?」シラフは周囲を見渡して愕然とした。なんと夜立ち並んでいた古代風の建物や道路などが消えて、かわりに植物の茂った大きな山の肩に立っていたのだった。

  「それか。まだ言っていなかったか」ホルチは、さり気ない顔で「ここの昼と夜の世界が全然違うよ」と言った。

  「どうして?」シラフは底の見えない谷を見下ろして、足の力が抜け、思わず座り込んだ。眼下に雲海が広がり、その中にいくつかの山の頂上がぼやけて見える以外、目にとまるものがなかった。見上げると、頂上の見えない崖が聳え立ち、あっちこっちに大きな木がはえてあった。

  「あの…そんな多くの建物と人々はどこに行ってしまったの」シラフは声を震わせて聞いた。

  「それは…」ホルチは軽くため息を付いて「建物は夜だけのものだ。道路も、金銀と宝石もだ。昼間になると全部消えてしまうよ。ほとんど人々は、今どこかの洞窟に寝ていると思う」と言った。

  「どうして?」シラフは納得できなかった。なぜかその理由を知りたかった。

  「まあな。その理由は、僕も知らないよ」ホルチは周囲を眺めてから言った。「今日、おじいさんが来ていないな。もし彼が来ていたら、君の質問を答えられると思う。彼はここのことを知り尽くしているからな。彼の話によれば、夜の街にあふれている全てのものは人々の欲で現れた幻だそうよ」

  「人々はそのことを知っているの」シラフは驚きを隠せなかった。人々が、その魂、時間、愛、健康などで交換したものが夜の世界だけで存在するものだと知ればどうなるかと不安になった。

  「おじいさんの話では、人々にそう教えても信じないそうよ。返って、バガもの、狂人というらしい」とホルチは苦く笑った。それから、彼は思い出すように言い続けた。「このことをおじが僕に教えたのだ。昼の木の種さえ食べれば、自分が誰か忘れないし、自分の何かを売らなくても生きられると。彼が教えてくれなかったら、僕はどうなっているか、想像も付かないよ。まだ木の種のおかげで、何とか自分を保たれているよ」

  「そうか」シラフは息を大きく吸い込んで「おじもここに来るの」と聞いた。彼の中で、おじがこれまでなく大きく、立派に感じられた。彼のおかげで、ホルチも、アギとジガも、シラフまでが、居場所ができたのだ。ホルチの教えた話では、おじが黒魔女の店で働くことで、あのぼろ屋を借りているそうだった。

  「来られないよ。昼の世界は、夜の街で何も食べていない、何も売っていない人だけが来られるんだ。おじは、ここに来て何も知らずのうちに、お腹が空いてたまらなくなり、記憶で料理を買って食べたらしい」とホルチは悔しく言った。

  「だけど、おじは木の種を食べていただろう」とシラフは、おじが木の種をおいしそうに食べていた姿を思い出して聞いた。

  「僕が木の種を拾ってくるようになってから、夜の街の食べ物を食べなくなったんだ。だけど、既に食べた分まで消すことができない。ただ、その後、何も売らなくても生きられるだけだ」ホルチは静かな声で話を続けた。「木の種を拾えるようになる前は、何か食べるには、何かを売らないといけないんだ。だから、何日間空腹で行ったことがある。ちょうどその時、あの木の横でおじいさんに出会って、木の種を拾う方法を教えてくれたんだ。それでやっと救われたよ」とホルチは感謝の込めた顔で山の頂上近くに生えた巨大な木を指した。

  「すごいな。物語のようだ」シラフは興味深く言った。「僕もおじいさんに会いたいな」

  「僕も会わせたかったけど、今日来ていない見ない。残念だな。火の国を離れる前に、最後の挨拶をしたかったけど」とホルチは、微かに声を震わせた。

  「ところで、木の種はどこなの」シラフはうずうずと聞き、自分たちが食べていた卵のような木の種を目で探った。

  「その木の上にあるよ」とホルチは、山の肩に聳え、枝を谷へ伸ばした巨大な木を指さした。

  「何?それ?」シラフは、口をぽかんと開けた。彼がこれまで見た全ての木を一つに束ねてもこんなに大きくならないだろう。「すごく大きい。何歳だろうな」と彼はやっと言葉を吐き出した。

  「僕もそう聞いたことがあるけど。おじいさんは、この木が自分でもその年を忘れただろうと言ったよ」とホルチもシラフの横に立ち、巨大な木を見上げた。それから、二人は急な斜面に茂った灌木から引っ張りながら、その木に向いた。

木に近付くほど、シラフは驚きを現す言葉を見つからず、「わ、すごいな。わ、大きいな」と繰り返し叫んだ。木の茎は、夜の街のどの建物をも丸ごと入れるほど太かった。もっと奇妙なのは、その茎は、山の斜面を沿って生えたのではなく、まるで柱のように、地面と九十度の具合で聳えるのだった。大きな枝が周囲へ伸び茂り、もっと深い谷の方に伸びた枝先が、雲の中に潜り込んでいた。

  「この木に登るの」シラフは呆気に取られた顔でホルチを見た。

  「すごいだろう。もし地面から登ったら、一日登っても枝にさえ付けないから。こっちへ来い」と言いながら、素早く斜面に横たわる黒い崖を上った。そして、その頂上から、木の枝へ飛び降りた。息を重ねながら、やっと追い付いたシラフは、これを見て、顔を青ざめて立ち竦んだ。崖と木の枝の間から見下ろすと、茎の黒い皮にできた粗末な模様が視線先まで伸び、地面が遠くに見えた。

  「全力で跳んで」ホルチは、茂った木の枝の間から叫んだ。

  「外の方法はないか」シラフは怖気づいた声で聞き、見回した。木の周囲に、黒崖以外何もなかった。

  「勇気を出して、シラフ。おじいさんが言っていたぞ。これさえ超えられなかったら、木の種を取る資格ないと。もっと、家に帰る道を探れないとな」とホルチは叫んだ。

  「家に必ず帰る」シラフは勇気を振り絞って、木の枝へ跳び下りた。彼は葉や細い枝を抜き、ホルチの立つ太い枝に着いたが、足が滑り、横へ倒れて、懸命に枝にしがみ付いた。危機一髪に、ホルチが彼を引き上げた。

  「よくやったぞ」ホルチは笑顔で「僕は怖くて一回目に跳び下りなかったよ。次の日に、お腹が空いてたまらないから、餓死するよりここから落ちて死んだほうがましだと思って、跳び下りたんだ」と言った。シラフはブルブルと震えて、頷くだけだった。

  「じゃ、急ごう。できれば、一人に二個の種を見つけよう。すると、家に帰る途中でちゃんと走れるぞ」と言い、ホルチは歩き出した。

  「走る?まだ走るの」シラフは、火の国に来て何度か必死に走ったことを思い出して口ごもった。

  木の枝はかなり太くて、一人が十分気楽に歩けるのだった。ホルチとシラフは進みながら、両側の枝や葉へ目を巡らせた。しばらく進んだところ、ホルチは振り返って、顎で前方を指した。よく見ると、枝の間からホルチの配っていたススメの卵大の黒い種が、チラっと見えた。その方に進むほど、木の枝が細くなり、葉っぱが茂ってきた。ホルチは、大きめの枝にしがみつきながら、布袋からかぎのついた縄を取り出して、細い枝を引き寄せ、種を慎重に取った。これを見ながら、シラフは自分が硬くて苦いと嫌がっていた種がこのように手に入っていたことに気付き、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。彼は、どんな時よりも気持ちを引き締めて、少しでも力になるように頑張った。シラフは行くほど慣れてきて、木の枝の上に歩いていることまで忘れてしまった。鳴き声が聞こえるが、姿の見えない鳥のささやきに耳を澄ませながら、緑の葉のどこかに隠れているはずの黒い種を熱心に探した。まだ心の中で「僕にもチャンスをくれ」と願った。それから、そんなに経たない内に、一つの黒い種が目に入った。彼は興奮で目が輝き「そこに一つ」と声を上げた。ホルチが近付いてきて「試してみるか」と促した。

  「僕もできるか」シラフは不安そうに言った。

  「もちろん」ホルチは例のかぎを渡して「これで取れ」と自信たっぷりに言った。

  シラフは縄を体に巻き、細めの枝を踏みながら前に進んだ。行くほど木の葉が薄れてきた。思わず足元を見ると、びっくりして立ち竦んだ。

  「どうしたの」後ろから付いてきたホルチが聞いた。

  「どうして雲の上?」シラフは声を震わせた。何と彼らが踏んでいた木の枝が果てしない雲海の上まで伸びていたのだった。シラフはほっそりと先に延び出た枝の上から雲海を見下ろしながら、自分が枝先に止まった小鳥のように感じた。

  「ここまで来てしまったか」ホルチの声も微かな不安を帯びていた。「ここは一番長い枝の先だ。周りにほかの枝がないから、危ないよ。戻ろう」

  「もう少し前に行けば…」シラフはここで戻る気はなかった。なぜか木の種が珍しく、彼らが一日をかけて六個しか見つけていない。目の前にある種は、これまで見つけたどの種よりも大きく、二食分ぐらいだった。

  「ゆっくりと戻って。僕が行こう」とホルチはシラフへ手を伸ばした。彼もこの機会を逃すのがもったいなく感じているようだった。

  「この枝は細すぎる。僕が軽いから行けると思う」シラフはできるだけ落ち着いた声で言った。これまで、種を見つけたことがあるが、取りに行っていない。一回だけでも力になりたいとシラフは決心した。

  「試してもいいけど、気を付けて」ホルチは、シラフの思い切った目付きを見て言った。シラフは、枝の上に這いながら種に近付いた。彼は縄を取り出して、種の付いた枝に絡ませて、手前に引こうとした。だが、この作業が見ていたように簡単じゃなかった。何度かかぎを投げても、枝に絡むところか、楽に手から離せない。一度は、力を使い過ぎて、枝から落ちそうになった。

  「心を集中させて。手を動かすけど、体を動かすな」ホルチが後ろから言った。

シラフは汗のかいた手を服で拭いて、細い枝を見据えてからかぎを投げた。まだ落ちそうになったが、幸いなことに、かぎが枝にばっちりとかかったのだった。息を潜めて細い枝を手前に引き寄せ、その上にがっしりと付いていた種を手に取った。だが、その瞬間体のバランスを崩して、木の枝から滑り落ちた。

  「ア…」と悲鳴を上げながら、もう家に帰れなくなったかという思いが脳に過ぎった。だが、幸いなことに、彼は空中に止まった。目を開けると、縄にぶら下げられていたのだった。

  「落ち着け。僕が行くから」ホルチの叫び声が聞こえた。彼は、先までシラフが這っていた木の枝沿いで近付いてきた。その枝は、くねくねと動いた。

  「まだ落ちるよ」シラフは泣かんばかりに言った。

  「心配するな。おじいさんが言っていたよ。これまで、誰一人をこの谷に落としたことがないと」と言いながら、ホルチは、シラフのぶら下がっている縄へ手を伸ばした。何度か取ろうとしたが、届かなかった。シラフは息を止めて、びくっと動くことからも恐れた。

  「シラフ、僕を信じるか」とホルチはこれまで見せたことがない真剣な顔で言った。「こうしよう。ぶらんこを遊ぶように、僕のほうに近付くんだ。君を必ず拾うから」

  「そんな。落ちてしまうよ」シラフは涙声で訴えた。

  「万が一君を落としたら」ホルチはシラフを真っすぐ見て言った。「僕も跳び下りるから。君を一人に行かせないから」

  ホルチの真剣な眼差しに励まされたか、シラフが体を動かしてみても落ちていかなかった。彼は、勇気を振り出して、体を思い切りホルチのほうに投げた。かぎがとうとうその重さに耐えず、形を崩し、シラフは悲鳴を上げながら投げ出された。その一瞬、ホルチは彼を空中に拾ったのだった。

  「もう大丈夫だぞ」ホルチは、ぶるぶると震えるシラフを抱き締めて、背中をなでた。しばらく経つとシラフが落ち着いてきて、涙を拭いて「これ…」と握りしめていた黒い種を渡した。

  「すごいな。こんな大きな種を初めて見た。おじいさんが見たなら、君を火の国一の大きな種を拾った勇敢な人だと言うだろうな」とうれしく言い、種を布袋に入れた。

  「本当に?」シラフは顔を赤らめて、にっこりした。大きい種のおかげで、彼らはもう一人二日分の食を整えたのだった。

  彼らが戻った時、おじたちはまだ崖の隙間にぐっすりと寝ていた。夜になってから目覚めたおじが、針と糸を持ってきて、ホルチとシラフの拾ってきた木の種を、一人一人の服のポケットに一個ずつ入れて縫いておいた。そして、それを家に帰る途中で食べるのだと教えた。その夜の分を食べた時、その硬くて苦い種が、シラフにこれまで食べたどの食事よりもおいしくて大切に感じた。

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