第69話 I’m in love with you

 姉貴は酒癖は悪いが、車の運転は上手い。「飛ばすぞぉ!」と言いながら、ちょっと間違えば崖から落ちるような際どい山道もスピードを落とさず立ち回っていく。


 鉄道で来た往路も遠いなと思ったが、隠れ里は車でも遠い。山奥から脱出し高速に乗って三重の海沿いまで来た時には、時計の針はすでに正午を回っていた。


 運転できるのが姉貴だけということもあって、車のスピードは速くても移動のぺースはそこまで上がらない。


 サービスエリアに立ち寄って昼飯を食べたり、一度高速を降りておやつにパフェを食べに行ったりしていたら、いつの間にか夕方近くになってしまっている。


 静岡市を過ぎたあたりで、高速の右手には駿河湾が見えてきた。空は快晴、だいぶ傾き始めた陽の光が海に反射し、まるでダイヤモンドのように輝く。


 「わぁ…。きれい…」

 「桜、左側見てごらん、富士山見えるよ」


 海を見て感動していた桜が、香月からアドバイスを受けて富士山を見ようと、後部座席の中央から少し左、俺のほうに体を傾ける。すると俺と桜の体が一瞬触れ、お互いに驚いてサっと離れる。


 チラっと桜のほうを見ると、若干俯き気味だった彼女の頬はほんのり朱に染まっていた。そして一瞬こちらを見てきた彼女と視線がぶつかり、またお互い視線を逸らし合う。


 「ああもう車内が暑い暑い。紅葉姉さん、車の中が暑いしちょっと休まない?せっかくだしすぐそこの海とかどう?」

 「お、いいね香月!ならちょっと浜辺うろついてみようか。お酒でも飲みながら…」

 「おい姉貴、お前が飲んだら代わりに誰が運転するんだよ」

 「あ、そうだ私今運転中だった」


 こんな倫理観ユルユルの姉に昨夜危ないところを助けてもらったと思うと、なんだか情けなくなってくる。姉はカラカラと笑っているが、普段の酔っ払い具合から本当にやらかさないか心配にもなった。


 車は近くのインターチェンジから下道に降りると、5分ほどで海岸線にたどり着く。観光地でもなんでもなさそうな浜辺は海水浴場でもないようで、夏なのに人の姿はほとんどない。


 近くの駐車場で車を止め、俺たち5人は浜辺へ降りる。深い砂浜にスニーカーを食い込ませつつ波打ち際までやってきた時には、太陽はだいぶ傾き、山の稜線との距離を縮めていた。


 浜辺を歩くこと5分ほど。姉は手を叩くと、「そうねぇ、私明日仕事だしあまり長くはいれないけれど、30分くらい自由時間にしましょうか」と提案してくる。


 「紅葉姉さんは30分も何してるの?」

 「私?私はね…。ちょっと今、元彼と海に行ったことを思い出しちゃって。ここで海でも見ながら全てを忘れようかなって…」

 「なんかごめんね…」


 姉貴の地雷を踏んでしまった香月が後悔した表情を浮かべる。そしてその場にしゃがみ込んで深く溜め息をつき始めた姉の背中をさすり始めた。


 いや、失恋のショックを5歳も下の高校生になぐさめてもらうなよ。


 そんな姉の姿を見て弟の俺も溜め息をついていると、ふと左手の岩場の先がちょっとした砂浜になっているのが目に入った。


 ここらへんは基本岩が多くて海水浴には適さないのだろうが、砂浜がまったくないわけではなく、左手の浜辺もその一つなのだろう。


 なんとなく岩場の向こうに広がる景色を見に歩を進めようとしたところで、桜に声を掛けられる。


 「あれ?葉太郎くんどこ行くの?」

 「んー?いやせっかく来たんだし、ちょっとあっちの浜辺でも散歩しようかなって」

 「あ、なら私も行く!」


 ニコニコと笑う彼女の申し出を断る理由もない。二つ返事で了承すると、俺たちは二人並んで岩場の向こうへ歩き出していく。


 香月は元カレとの思い出が脳裏を駆け巡り落ち込む姉を、もう少しなぐさめるらしい。蔵之介はそんな2人を見ているとのことで、俺たちは2人で散策することになった。





 海沿いということで少し海風が吹いていることに加え、陽光がだいぶ傾いていることもあり、真夏の割にはだいぶ過ごしやすい。ふと隣を見ると、白いワンピース姿の彼女のブロンドヘアが海風に揺れていた。


 麦わら帽子をちょこんと被った横顔に一瞬見とれていると、視線に気づいたのか彼女はこちらへ視線を向ける。


 今は浜辺で2人きり。周りに誰もいない分先ほどの車の中のような気恥ずかしさは多少軽減されたこともあって、彼女はこちらを向いて「えへへ…!」と少しはにかむ。にこやかな表情が背景の海に映える。


 自然と足が止まり、俺たち2人は波打ち際のギリギリ波が届かないところにしゃがんだ。


 手を伸ばせば次々にやってくる波に手が届きそうなところで、2人で並んで夕陽に照らされた海を見つめる。


 「…楽しかったなぁ、隠れ里。田舎をお散歩して、スイカを食べて、夏祭りに行って、蛍も見て。イギリスに住んでいる頃に見ていたアニメのワンシーンみたいな時間をありがとうね、葉太郎くん」

 「いや俺は特に何かしたわけではないし…。それ以上にごめんね、危険な目に遭わせて」

 「ううん、私ね、前回さらわれた時と違って全然怖くなかったんだ。もちろんまったく恐怖感がなかったかというとウソになるけれど、今回は香月ちゃんがいたし、蔵之介くんもいたし、何より葉太郎くんがいたから。私の前に葉太郎くんが立って守ってくれていると思うと安心感しかなかったんだよ」

 「とはいえ、姉貴が来てなかったらどうなったかだいぶ怪しかったからね…。まあ結果的でもなんでも、桜がケガなく戻ってこれたことは良かったんだけれど」

 「そうだよ。私どこもケガしてないもん。だからね、ありがとう。まだお礼、ちゃんと言ってなかったよね。本当にありがとう」


 こちらを向いた桜が、しゃがみながらも俺のほうに向け頭を下げてきた。護衛対象なんだから守るのは当然なのだが、改めて大切な彼女を守れたことに対する安心感がやってくる。


 いつの間にか俺と彼女はしゃがみながら手を繋ぎ、まるでこの浜辺は俺たち2人のプライベートビーチのようになっている錯覚に陥る。


 「私ね、とても運がいいんだよ」

 「…運は悪くない?この短期間に2回も狙われてるんだよ?」

 「でもしっかり守ってもらえているでしょう?…ねえ葉太郎くん、私が最初に葉太郎くんに会った時、どう思っていたか分かる?」


 桜は急にクイズを出してきた。こちらを少し見やりながらフフっと微笑むあたりガチガチのクイズではないが、ノーヒントで答えを導き出せというのはだいぶ無理がある。


 「…まるでイケメンじゃないヤツの隣の席になっちゃったな、とか?」

 「あはは、そんなこと一切思ったことないよぉ。あのね、お恥ずかしながら、私が好きなマンガのYAMATOってあるじゃん?この前一緒に買ったあの忍者マンガの。私、主人公のヤマトが大好きなんだけど、…ヤマトと葉太郎くんの顔が似てるの」

 「初めて言われたよそんなこと。マンガのキャラと顔が似てるっていうのはそれ…、喜んでいいの?」

 「もちろんだよ!最初からカッコいいと思ってたんだから!でもね、私の隣の席の男の子はカッコいいだけじゃなかったんだ。私の話も聞いてくれるし、夢を諦めかけていた私のことを励ましてくれるし、幼馴染みの女の子が調理実習でピンチを迎えた時は率先して助けたり、人のために動ける優しい人だったんだ…」

 「…そんなこと言ったら俺のほうが運がいいよ。だって偶然空いてた隣の席にめちゃくちゃかわいい女の子がやってきたんだよ。誰にでも優しくて、いつも笑顔で…。気づいたらもうやられてた」


 浜辺には2人しかいない事実が俺に勇気を与える。普段は恥ずかしくて言えないことが次々と言える気がしてきた。


 「…桜、好きだよ」

 「…うん」

 「俺さ、まだ誰かを好きになったことがないから最初は自分の気持ちがよく分からなかったんだけれど、日を重ねるごとにこの気持ちが強くなっていくんだ」

 「…ありがとう。嬉しい。あのね、私もそうなの…。恋をしたことがなかったから自分の気持ちに名前をつけられなかったんだけど、日に日にこの気持ちは強まっていって、この前秋葉原に一緒に遊びに行った時、この気持ちは"恋"なんだって確信したの」


 お互いの気持ちを伝えあったところで、お互いの顔を見合う。夕陽の光が後光のように彼女に差し込み、ほんのり染まった頬が宝石のような輝きを見せていた。


 「ねえ、葉太郎くん…。昨夜香葉子おばあさんが教えてくれたじゃん?葉吉さんは危険を顧みず、家を捨てて桜姫を迎えに行ったって…。私、今からめちゃくちゃワガママのこと言うよ?もしこの先何かあっても、私のことを迎えに来てくれる?」


 言い終わった瞬間目を閉じた彼女の体は少し震えていた。まるで俺の答えがどんなものでも、覚悟を決めて受け入れるかのように。


 俺はしゃがみながら彼女との距離を一歩詰め、近寄ってきたこちらに驚きの表情を浮かべていた桜の肩をなるべく優しく寄せて抱きしめた。今の自分の気持ちを込めるように。


 「俺は桜の護衛担当なんだよ?決まってるじゃん。迎えに行くよ」

 「…本当?忍者はすぐ人を騙すってYAMATOに書いてあったよ?」

 「それはマンガの話。令和の忍者は違うの。俺は大好きな桜を裏切らない」

 「…フフ、嬉しい」


 一瞬、抱きしめていた彼女と距離が開く。心臓は先ほどからバクバクと鳴り続けているが、波の音が心音を消し去る。そして波の音に合わせるように声を絞り出す。


 「俺と、付き合ってください」


 こちらの問いを耳にした桜が少し、笑った。


 「…はい、喜んで。…I’m in love with you」


 彼女の答えが俺の耳に入るかどうかのところで、彼女はこちらに顔を近づけ目を閉じる。


 その奥では夕陽が山の稜線に沈もうとしていて、俺はまるで夕陽に吸い込まれるように、目を閉じながら顔を近づけ、そっと、唇を重ね合わせた。


 実際は5秒ほどの時間だったのだろうが、その時間はかつてないほど長く、かつてないほど幸せに感じられた。

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