第45話 Overwhelm

 面倒なことになったなと思う。正直男を無視してインストラクターを呼んでも良かった気がするな。ただ騒ぎになって天王寺さんに更に注目が集まってしまうのは、護衛としてもなるべく避けたい。


 正直この手の面倒な手合いは早めに片付けておくに限る。天王寺さんは心配するような目で俺のほうを見てくるが、たぶん相手の心配をしたほうがいい。


 このボルダリングジムで一番難易度が高い壁は、ジムの一番奥の付近にそびえたっていた。1階から2階に吹き抜けになっており、壁一面にびっしりとホールドが埋められている。


 ホールドの大小は様々で、小さいものは15cmほど、大きなものになると50cmほどあった。どれも簡単に掴めそうな部分はなく、他に誰も登っていないあたりこの壁の難易度の高さが伝わってくる。


 しかも厄介なことに、最初は垂直ではあるものの、そこから壁が"武者返し"のように反っており、壁が2mほど手前のほうに寄ってきている。腕の力だけでは乗り切れず、一番上の紫のホールドに到達できる人間はごくわずかだろう。


 茶髪の大学生くらいの男もさすがにこのレベルの壁を登ることはないのか、少し震えていた。このくらいの壁を登れないような男にもらうアドバイスなんぞないのになぁ。


 「早く登ってくれますか?俺は早く終わらせてゆっくり彼女とボルダリングを楽しみたいんです」

 「て、てめえ…。てめえはこの壁登れるっていうのかよ」

 「もちろん」


 こちらの至って真面目な回答に、茶髪は舌打ちすると、最初のホールドに両手をかけた。


 実際茶髪はそれなりに登れた。確かに人にアドバイスしようなんて言ってくるのも分かる。


 初めてボルダリングをやる俺から見てもそれなりには登れているように見えたし、結構このジムにも来ているのだろう。手の運びが一部スムーズだ。


 ただし3mほど登ったところで待っている"反っている部分"の手前につけると、そこからなかなか動かない。それなりにやり込んでいる人間もこの壁には躊躇するらしい。


 「ねえ、あの人全部クリアとかしちゃうかな…?」

 「ああ、しないしない。あの筋肉の付き方じゃ無理だと思うよ」

 「そんなところでできるかできないかが分かるの?」

 「ああ。確かに肩回りはそれなりに筋肉つけてるけど、ボルダリングも崖登りも腕の力だけでどうこうなるものじゃないんだ。脚の筋肉の付き方が足りないし、ここまでだいぶ時間使ってるから、乳酸も溜まっている分あと少しで落ちる」

 「ほぇ~」


 天王寺さんは隣で納得したように頷いた。さすがに2カ月忍者たちと暮らしているせいもあって、俺の言葉には説得力があるらしい。


 実際俺が予測したように、茶髪は反っている部分に入って2つ目のホールドを掴み損ねて落下してしまった。俺の予測通りになったことに対して、天王寺さんは感嘆の声を上げる。


 「随分早かったですね」

 「ああん!?」


 マットに落下し尻もちをついていた茶髪がこちらを睨んだ。しかし天王寺さんにバレないようにこちらからもにらみ返すと、茶髪は一気に押し黙った。


 余計な騒動に発展しないためにも、ここでおとなしくしてもらうくらいがちょうどいい。


 俺は一旦両手をブラブラさせて手首をほぐし、一度大きく深呼吸した。後ろから天王寺さんが周りに聞こえないくらいの小さな声で「葉太郎くん頑張れー」と声をかけてくれる。


 正直、この応援、いつも欲しい。この応援があれば、俺は普段の崖登りの修行でも、もっと厳しいところに命綱なしでいけそうだ。行けるなんて父親に言うと本当にヤバいところに連れていかれそうだから言わないけれど。


 両手を最初の紫のホールドに手をかけると、両足を少し浮かせ、次に右斜め上、そして左斜め上のホールドと、順番に、リズム良く掴んで登っていく。そのスムーズな動きの影響か、後ろで茶髪が息を呑む音が聞こえた。


 10秒掛からず3m登りきると、そこからは茶髪が落ちた反っている部分に入っていく。俺は一旦、反っている部分の一番手前にある紫の小さなホールドに左手の"人差し指"を掛けると、次に右斜め上にあった青いホールドを右手の人差し指と親指で摘まむ。


 普段の崖登りであればしっかり5本の指を使うものだが、このくらいの程度の壁で5本の指全部使っては、自分に対する"負荷"にならない。最近崖登りの修行をしていないだけに、このくらいの負荷がなければ自分のためにならなかった。


 その後に左足を大きく開き手ごろなホールドに掛け、左手の人差し指を更に上のホールドに掛けて、次にまた右上のホールドを右手の親指と人差し指で摘まんでいく。


 下からは天王寺さんの息を呑む声が聞こえてきた。そういえばまだこうやって壁を登っている姿は見せたことがなかったなあ。


 なんて考えているうちに反っている部分は終わり、残るは1mほどの登りだけだ。左手の少し上にあった赤いホールドにまた指を掛けていく。


 そうこうしているうちに目の前に目標の紫のホールドがやってきた。あとはこのホールドをしっかり掴むのみ。


 右手はまだ親指と人差し指しか使っていなかったが、最後のホールドはしっかり手全体で掴んで、右手一本でぶら下がると、5秒ほどその場に滞在し、手を放して床に着地した。


 次の瞬間、周りから拍手が起こる。何かと思ったら、俺が登っている間に周りのお客さんたちが野次馬として集まってきたらしい。せっかく誰も集まらないうちに早く終わらせる予定だったのに、この茶髪が無駄に時間をかけたせいで…。


 「葉太郎くん!ほんっとうに凄かった!感動した!」


 目の前では天王寺さんが本心から感動したのか、その場で笑顔でピョンピョンと跳ねていた。この程度の壁でこれだけ跳ねてくれるんだったら、崖を登って見せた時はどうなるんだろう。跳ねすぎて月にでも飛んでいく気すらする。


 茶髪は唖然とした表情で、声も出ていない。ようやく声を出せるようになったのは30秒ほどした後で、「お前…。何者なんだ…」と小さく、振り絞って言葉を発するのが精いっぱいという感じだった。


 「何者って…普通の高校生ですよ?」

 「ふ、普通の高校生があんなふうに登れるわけないだろ!」

 「ないだろって言われましても、今実際、ねぇ?」

 「ふ、ふざけやがって!こんなのは無効だ!もう一回…」

 「もう一回やれば登れるんですか?」


 俺の言葉に、茶髪が声を詰まらせる。まるで登れなかったのは事実で、何も言い返せないようだった。


 そこで近くにいたインストラクターが異常に気付いたようで、野次馬を解散させ、俺たち3人に事情を聞いてきた。


 こちらがお手洗いに行っている間に天王寺さんが無駄がらみされていたことを説明したところ、茶髪はそのままインストラクターに事務所のほうへ連れていかれてしまう。


 たぶんここからこの壁の傾斜よりキツいお説教が待っているだろう。たぶんこのジムには出禁になるんだろうなぁ。


 「葉太郎くんは本当に忍者さんなんだね…!YAMATOの崖登りの修行シーンを思い出した!」

 「あはは…。俺は早く辞めたいんだけどね…。これくらい香月も蔵之介もできるよ」

 「これくらいって…。今、あんな高いところまで登ったんだよ!?」


 そう言って天王寺さんは一番上、6mほど上に設置されていた紫のホールドを指さした。


 今改めて見ても普段の崖に比べたらだいぶ低いところにあるなぁとしか思わないのだが、一般的にはそうではないらしい。そんなに高いか?と首をかしげていたら呆れたように笑われてしまった。


 「…ねぇ、私ともう一度ボルダリングやろ?できればアドバイスも欲しいなぁ…?」


 その後目の前で若干上目遣いでおねだりしてくる天王寺さんを見て、俺の魂は6m上にある紫のホールドより高いところまで飛んでいってしまったのは言うまでもない。

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