第46話 忍者に相合傘は難しい
梅雨時なんだから当たり前なのだが、俺と天王寺さんはだいぶしっかりと雨が降っている空を共に見上げる。
「雨、降ってるねぇ…」
「そうだなぁ…」
若干天に止むことを祈りつつ言葉を返したが、当たり前だが祈っても雨は止まない。
道行く人達の傘の花が俺たちの目の前をどんどん通過していく。今日雨が降らないと思っていた俺たちの手元には、咲かせる花もない。
そもそもボルダリングが面白過ぎたのだ。見知らぬ大学生くらいの男に絡まれ、そのまま蹴散らした後、再度2人でボルダリングを再開したまではいい。
天王寺さんはそれまで届かなかったホールドに次第に手が届くようになったのがだいぶ面白くなってきたのか、まったくやめる気配がなかった。俺は俺で彼女とボルダリングができるだけで楽しいから、つい時間を気にせずに熱中してしまった。
おかげで気づいた時には時計の針は18時手前を指しており、夕食のことを考えるともうすぐにでも帰らなければいけないため、急いで準備した結果…。外に出たらなかなかの雨が降っていたというわけだ。
天気予報を朝確認した時には確かに曇りだったはずなのだが、梅雨時と秋の天気予報は政治家の発言と同じくらい信用してはいけないのかもしれない。
「ごめんね葉太郎くん、私、ボルダリングが楽し過ぎて時間忘れちゃった…。もっと早く帰ろうとしてればこんなことにはならなかったのに」
「ううん、俺も楽しかったから今が何時か忘れてた。参ったなぁ、こんなに雨が降るなんて」
「そ、そうだ!タクシー使わない?」
「タクシーで駅まで行くのはありだけど、この道そんなに交通量ないしタクシー来るかな…」
そもそもタクシーでジムの最寄り駅まで行ったとして、駅で傘を調達しなければ俺たちの家の最寄り駅からまたタクシーになる。男の俺が支払いたかったし、それはそれで結構な出費だ。意外と高いんだよな、タクシー。
一応流しのタクシーが捕まらないか左右を見渡していると、数十m先にコンビニらしき看板が見えた。たぶん俺が走ればものの20秒ほどで着くだろうし、たぶんそこまでひどく濡れることはないだろう。
「ねぇ天王寺さん、ちょっと待っててくれる?あの左手のほうにコンビニあるんだけどさ、そこで傘2本買ってくるよ、ここで待ってて」
「え、私も行く!」
「いや濡れちゃうでしょ…」
「ううん、葉太郎くんだけ濡れるのは私が許さないから!…あと葉太郎くんが私から離れている間に、私に何かあったら護衛任務失敗じゃないの…?」
まさかそう言われるとは思わなかった。なんとか付いていきたい一心で言っているのが口調や目から伝わってくる。
確かに、ここで俺が離れて天王寺さんに何かあったら責任問題だろう。さすがにないとは思うが、先ほどボルダリング中にちょっと目を離したらナンパされていた。何かあっても困った。
雨の中走らせたくなかったものの、天王寺さんは走る気マンマンで、肩にかけていたバッグをなるべく濡れないように脇に抱え、ゲーセンで取ったぺんぺんの袋を抱えるようにして臨戦態勢を取る。さすがにここまでされたらついてくることを許可するしかない。
コンビニは50mほど先で、実際のところ雨の中10秒ちょっとしか走らなかったのは幸いだった。髪の毛を少し濡らし、服には多少濡れた跡がついたが、まだ許容範囲内とも言えた。
店内に入って傘を探すと、入口脇のコピー機の裏に傘の販売スペースがあることに気づいた。のだが…
「…天王寺さん、困ったことになった」
「ん?傘見つかっ…え、1本しかないの…?」
目の前の傘の販売スペースには少し大きめのビニール傘が1本、釣り下がっているだけだった。傘の黒い柄が、まるで残り1本となった寂寥感を増幅させているような気がする。
店員さんに確認したところ、傘はもうこの1本を除けば売り切れてしまっているらしい。やはり俺と同じように朝の天気予報を見て、たぶん雨は降らないと考えた人間は多いと思われる。突然の雨でコンビニで急な出費を迫られたのだろう。
外の雨の降り方を見る限り当分止むことはないだろう。駅までちょっと距離がある。この雨の中、天王寺さんを傘もなしに歩かせるわけにはいかなかった。
とりあえず俺は天王寺さんの分として傘を購入して、入口でカバーを外して傘を開き、右隣りにいた天王寺さんが濡れないよう右手を伸ばす。
「あ、ありがと葉太郎くん。って、それじゃあ葉太郎くんが濡れちゃうじゃん…」
「俺は別にいいから。汗もかいてるから今更多少濡れても関係ないし」
「そういうわけにはいかないよ!汗かいた後に雨で体が濡れたら体も冷えるし、風邪引いちゃうって!」
「天王寺さんに風邪ひかれるより全然マシ。俺のことはいいから、さあ駅まで行こう、そろそろ帰らないと夕食もなくな…え?」
右腕に柔らかい感触を受けて、俺の脳の回転が止まった。一体自分の右腕に何が起きたのかゆっくりと顔を右に向け視線を落とすと、天王寺さんが俺の傘を持っていた右腕を自分の左腕で包み込むよう抱きしめている。
簡単に言えば腕を組まれている。あまりの衝撃に俺は思わず口を半開きにしてしまい、10秒ほど何も言葉を発せなかった。
「あ、あの…。お嬢様、これは何を…」
「いいから…。早く帰らないと私たちのごはん、なくなっちゃうよ…」
そう言って天王寺さんは俺の右腕を引っ張るようにして、雨が降り続ける店の外へ歩みを進めていく。俺はなすすべもなく、ただただ彼女に腕を組まれながら、付き従うように隣を歩いた。
右腕に当たる柔らかい感触に俺の意識が飛びそうになる。たぶん今意識を保って、念のため周りを警戒できているのは幼い頃からの修行の成果だろう。
隣の彼女は耳まで真っ赤にしている。こちらを見ずに俯きながら、足元を見つつ歩を進めていた。
よく見ると逆サイド、彼女が右脇に抱えているバッグが傘の保護下を抜け、少し濡れているのに気づく。
彼女がせっかく勇気を出してくれたのに、俺は一体何をやっているのか。護衛任務のはずが、ある意味完全に足を引っ張っていた。
一旦息を整えた俺は優しく彼女の左腕をほどくと、傘の持ち手を替えながら、驚く彼女の後ろから手を伸ばして右脇に抱えたバッグを持つ。
ぺんぺんを入れた袋もナチュラルな感じで受け取り濡れないようにして左腕で抱え、態勢を整え、右手で傘の柄とバッグを持った。
「え…?いいのに、バッグなんて持たなくて…」
「そーいうわけにはいかないの。天王寺さんの大切なものも護衛するのが俺の仕事なの」
「…あはは、優しいね、葉太郎くんは。ほんと、誰にでも優しい…」
「そんなことはないって。俺がここまで…、その、気を遣いたいと思える人は他にいないから…」
思わず傘の柄を力いっぱい握ってしまった。とっさに、とんでもなく恥ずかしいことを言った気がする。耳から湯気でも出るんじゃないかと思った。
ほら、彼女ビックリしちゃってるじゃん。俺のほう見てるじゃん。意味ありげなことを言ってしまった後悔の念が一気にやってくる。
「…葉太郎くんは、私だから特別に、更に優しくしてくれるの?」
「あ…、うん。そうなるね…」
「…特別に優しくする相手なのに、名字で呼ぶの?」
「は?え?」
思わず右隣の天王寺さんのほうを見ると、彼女は耳まで真っ赤にして、俺とは逆のほうを向いてプルプル震えていた。
「そ、その…。ごめん」
「あ、謝ることじゃないんだよ。でも香月ちゃんのことは名前呼びで、私のことは2カ月経ってもまだ名字…。この前連れ去られた時、私のことを一度だけ名前で呼んでくれたじゃない?あれ、めちゃくちゃ嬉しかったんだから…」
たぶん無意識に、彼女のことを名字ではなく名前で呼んでしまったのだろう。残念ながらまったく記憶にない。
無意識だからって彼女の名前を呼んだあの時の俺、凄いな。アドレナリンでも出ていたのかもしれないな。
俺の右腕を再度掴んだ彼女の左腕はまだ少し、震えていた。護衛対象者を震わせるなんて護衛失格だろう。今俺の腕を掴んでいる女の子は間違いなく、俺にとって今一番大切な女の子だ。
「…さ、桜」
口から出たのはわずか4文字。あれだけ勇気をもって口を開いて、喉元に力を込めたのに、出てきたのは弱弱しい声で、たった4文字。己の修行不足を嘆く。
しかしそんな力のない4文字は、彼女の耳にしっかり届いたらしい。彼女は一瞬驚いたような表情を見せた後、すぐに満面の笑みを浮かべる。俺の右腕を掴む力が強くなる。
傘の花の下に、大切な人の笑顔の花が咲いた。
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