第44話 Bouldering

 思っていた以上に秋葉原を満喫してしまった俺たちが、秋葉原から数駅先にあるボルダリングジムに到着したのは15時を少し回ったところだった。


 駅から歩いて10分ほどのところにあるボルダリングジムは思っていたより大きい規模で、入口からはすでに何人かが壁を登っている姿が見える。


 お互い初めてのボルダリングということで、天王寺さんは最寄り駅に着くまで少し緊張した面持ちだったものの、入口から見える壁を見て若干興奮したような様子だった。


 一旦、先ほどゲーセンで入手したぺんぺんを入れた大きな袋を一度ギュっと抱きしめた後に発せられた、「行こっか!」という彼女の言葉を合図に、俺たち2人はボルダリングジムの扉を開ける。


 荷物を置いてレンタルシューズを履き準備運動を行うと、インストラクターの女性が俺たちにボルダリングのやり方を簡単に説明してくれた。


 20代前半といったところだろうか。茶髪の長い髪をポニーテールでまとめ、いかにも体を動かすことが好きといった雰囲気を漂わせている女性だ。


 一見スラっとしているが肩回りの筋肉は服を着ていても若干盛り上がっているのが分かる。相当"やり込んでいる"のが伝わってきた。


 「まずは傾斜が緩いところから一緒に登ってみましょう!」


 インストラクターさんの誘導により、まずは白いTシャツをデニムの中に入れた天王寺さんが登ってみる。


 「まずはあの青いホールドを目指して登りましょうね!」

 「ホールド?」

 「ええ、あそこに青い突起があります。あれがホールドです」


 インストラクターさんが指をさした方向を天王寺さんが見上げる。地面から3mほど上だろうか。いくつかのホールドの右斜め上あたりに、少し大きめの青い突起物があった。なるほど、あそこまで行けばいいのか。


 「よ、葉太郎くん、思ったより目標高くない?」

 「天王寺さん、目標は高ければ高いほどいいんだよ」

 「よ、葉太郎くんの意識がいつもより高いよぉ…」


 まるで俺の意識がいつも低いように聞こえるじゃないか。いや、その通りなんだけどさ。


 天王寺さんが最初にチャレンジしたのは、"8級"、つまり一番初心者向けのコース。桃色の目印がついたホールドを順番に登っていったものの、5つ目、大体目標まであと半分というところで落下してしまった。


 敷き詰められたマットに尻もちをつくようにして落ちてしまったことから一瞬心配したが、彼女の表情には"思っていたより全然楽しい!"と書いてあるようで、すぐに立ち上がるともう一回やる!と宣言し、ホールドに向かっていく。


 普段体育の授業を見ていても、この人の運動神経は悪くない。むしろいいほうだろう。この前の体力検査でも女子では香月に次いで2番目という好成績だ。もちろん香月がセーブしているため、実際にはかなりの開きがあるが。


 それでも一般的な女子生徒より体力があるのは間違いなく、プルプルと腕を振るわせながらも一つ一つホールドを掴んでいき、2度目の挑戦では目標の青いホールドまであと2つというところまで到達した。これなら初級はすぐにクリアできるだろう。


 「彼氏さんもやりませんか?」


 そんなことを考えていたら、女性インストラクターの方から思わぬ声をかけられてしまって一瞬驚いてしまう。彼氏と勘違いされ顔が熱くなってしまい、「は、はい…」と噛み気味に応えてしまった。


 幸いなことにマットから立ち上がろうとしていた天王寺さんには聞かれていなかったようで安堵する。


 「ねえ葉太郎くん楽しいよ!やってみて!」


 満面の笑みを浮かべた彼女を見て、周りのお客さんたちがちょっとざわめく。ジムに入って時点ですでに目立っていたが、反則級の笑顔は見知らぬお客さんたちをざわつかせたばかりか、少し近いところで登っていた男性客が笑顔を見て思わず落下するほどだった。よそ見は危ないよ。


 正直なところ、このくらいの壁は"なんてことない"。これまで修行のため登らされた壁はマジの崖だった。それに比べればこの程度は月とすっぽんで、指一本で登れると思う。


 しかし実際指一本で登ってしまうと周りは引くだろうし、やる気になっている彼女に悪い。俺は初心者向けのコースを一つ一つ、丁寧に上っていった。


 実際の崖と違って、ホールドが取れることはない。崖の土は脆いからなあ…なんて考えていたら、いつのまにか目標の青いホールドに到達してしまい、下ではインストラクターの女性と天王寺さんが何度も拍手していた。


 「凄い!凄いよ葉太郎くん!まるで忍…あっ」


 俺がすぐに気づいて人差し指を立て口元にあてると、彼女はすぐに気づいて両手で口を押さえた。こんなところで自分が忍者の末裔なんて知られたらまずい。一般社会ではなるべく隠しておきたい素性である。


 一瞬女性インストラクターがこの人たちは何をしているんだ?という表情を浮かべたが、特に気にすることをやめたのか次のレベルのホールドについて説明し始めた。




 ボルダリングは初めてだったものの、やってみると楽しいものだ。レベルは上がっても普段の修行の崖登りに比べたらまるで楽なもので、何より落ちたら死という崖に比べれば、落ちてもマットが敷いてあるという安心感がある。気楽なものだ。


 天王寺さんもさすがに運動神経で、レベルが上がると少し苦労するものの、慣れてくれば体の使い方も上手くなっていき、目標のホールドに到達していく。到達した瞬間する小さなVサインがまたとんでもなく可愛い。


 さすがに何度か登ると体力を消費したようで、彼女はジムの脇で疲れたように足を伸ばすと、持ってきたペットボトルの水に口をつけていた。


 「あー、ボルダリング楽しい!楽しいけど明日は筋肉痛だろうなぁ…」

 「普段は使わない筋肉を使ってるからね。これは仕方ないよ」

 「仕方ないなんて言いながら、葉太郎くんは全然疲れた様子がないんだもん。さっきから明らかに手を抜いてるのに、楽に目標のホールドまで届いちゃうんだからなぁ…。いいなぁ」

 「いいか…?まあ確かに普段登ってた崖に比べりゃだいぶ楽だけど…」

 「が、崖…?」


 天王寺さんは持っていた水の入ったペットボトルを落としかける。顔が明らかに引きつっている。まあ、一般的な反応はそうなるよね。


 「もちろん命綱はつけてるんだよね…?」

 「技術は追い込まれて身に着くというありがたいバカ親父の方針により、中学の時からナシです」

 「香月ちゃんも蔵之介くんも、命綱なしで崖登らされてたの?」

 「オフコース。だからだと思うよ、香月がボルダリングのチケット譲ってくれたのは。普段が普段だからゴーカートに乗っているようなものかな」


 あはは…と乾いた笑みを浮かべる天王寺さんを見て、なんだか申し訳なくなってきた。こういう時に一般家庭に生まれていれば…と心の中で悔いてしまう。


 なんだか申し訳なくなったところで尿意を催してしまったこともあり、ちょっとお手洗いに避難する。今のところ初級から4つ目のレベルまでをこなしてきたが、これ以上楽に登ると天王寺さんの心を折りかねない。


 今日はもうこのくらいにしておこうと思いながらお手洗いから戻ると、天王寺さんは先ほどいた場所で大学生くらいの男に絡まれていた。


 一応護衛任務中ではあるが、さすがに人の目が行き届いているであろうボルダリングジムは大丈夫だろう、と思ってお手洗いに行ったのにな。俺は若干嘆息すると、絡まれている天王寺さんと男の間に割って入る。


 「あ、この子が君の言ってたお友達?ねえねえお友達くん、俺たちと一緒に登ろうよ」

 「ご、ごめんね葉太郎くん、この人が強引に誘ってきて…」

 「全然強引じゃないよぉ、一緒にやろうよ、ほら、俺結構アドバイスできると思うし」


 茶髪で少し日に焼けた、いかにも遊んでいそうな風体。肩回りからすると人にアドバイスできそうなくらいにはやっていそうな気配があったが、俺たちは2人で楽しんでいるところだ。余計なお世話である。


 「今、この子と2人で楽しんでいるところでして。アドバイスも結構ですので」

 「そんなつれないこと言わないでさあ。ねえ、一緒にやろ?」

 「だから結構ですって言ってるじゃないすか」

 「…お前、随分生意気な態度取るじゃん。見たところ高校生くらいだけど、年上に向かってそんな態度でいいわけ?」


 茶髪の態度が豹変した。ああ面倒な。自分から絡んできてそれはないだろう。


 正直近くのインストラクターを呼んでなんとかしてもらおうとも思ったが、インストラクターはそこまで多くなく、いずれも新規のお客さんに説明を行ったりしていて手が空いていなさそうだ。


 俺は周囲を見て再度溜め息をつくと、仕方ないと心を切り換える。心を折ればまた俺たち2人の時間が戻ってくるだろう。隣でハラハラしている天王寺さんを横目に俺は静かに言い放った。


 「一番難しいレベルでの勝負で良ければ、一度だけなら一緒にやってやる」

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