第40話 お嬢様に算数は難しい
マンガやアニメに疎い俺でも、"YAMATO"は名前だけは知っていた。世界的にヒットした忍者マンガ…という本当に断片的な情報しか知らないが。
天王寺さんが大好きな忍者マンガである、ということは知っている。だいぶ影響されているらしく、俺が忍者の末裔ではあるものの影分身ができないことに対して、少しガッカリしていたのは記憶に新しい。
いや、影分身なんかできる人間はたぶんいないからね、この世に。"瞳が万華鏡みたいになる"人もたぶんいない。滋賀の山奥、忍者の末裔が多く住む隠れ里にもそんな人はいないはずだ。たぶん。
そんな天王寺さんに強い影響を与えたYAMATOのコミックスが目の前に大量に積まれている。感動のあまり彼女は声を失っていた。
一旦こちらを振り向いた彼女は、口を半開きにして、これまで見たことのない表情を浮かべている。目の前の衝撃に理解が追い付いていないようだった。そして俺のTシャツの裾を軽く掴むと、クイックイッと引っ張ってくる。
「これが天王寺さんが好きな、忍者マンガのYAMATO?」
「う、うん…。え…こんなにYAMATOが…?目の前に…?」
まるで本当に宝の山を見つけて言葉を失っている海賊のような感じになっている。これはこれで可愛い。
一歩ずつ慎重に近づくと、彼女はコミックスを手に取り、まるで聖杯を掲げるかのような体勢をとる。インディ・ジョーンズで似たようなシーン見たことあるな。あなたはハリソン・フォード?
「よ、葉太郎くん!見て!YAMATOがこんなに!」
「これが天王寺さんが好きだって言ってたあの…?」
「そう!1巻から70巻まで全部ある!私まだ50巻までしか見てないのに…」
「残りの20巻、まだ読んでなかったんだ…」
「そうなの…。イギリスにももう売ってはいるんだけど、なかなか本屋さんに行けないし、読む機会がなかったんだ。あー…幸せぇ…」
恍惚の表情を浮かべた天王寺さんは、まるで天国に旅立つ5秒前みたいな感じになっている。その幸せそうな表情に、周りの客たちも何事かと驚いたような表情でこちらを見ていた。
「日本は天国だったわ…」
「おーい天王寺さーん…、戻ってこーい」
「うん、決めた。葉太郎くん、私、買う」
「買うって…。YAMATOの51巻?」
「ううん、1巻から70巻まで全部」
目の前のブロンドの美少女がとんでもないことを言い出した。1巻から70巻まるごと全部買うはさすがに強い。冗談のような話だが、彼女の目、声色は本気だ。
「で、でもさ、これ1つ570円って書いてあるよ。70巻全部買ったら4万円くらいしない?」
「え、12万円だよ?」
天王寺さんが何を言っているの?みたいな感じで首をかしげているが、かしげたくなるのは俺のほうだよ。
成績じゃ天王寺さんにだいぶ劣るのは自覚している俺だが、1つ570円のコミックスを70冊買っても4万円に届くかどうかというのは計算力が弱い俺でも分かる。
イギリスは通貨単位が違うし…なんて一瞬思ったが、彼女は確かに12万"円"だと言っていた。いや、イギリスとは計算方法が違うのかもしれない。彼女の次回の数学のテストは大丈夫だろうか。
「12万円ってどういうことだってばよ…?」
「どういうって…。だって1巻あたり3冊買うでしょ?」
「3冊」
「読む用でしょ、保管用でしょ、あと布教用も買えば1巻あたり3冊でしょ?」
でしょ?と言われてもああそうですねとはなかなか言い難い。そして彼女はふざけて言っているわけでもないから厄介だ。目が真剣そのもの。これがジョークではないことくらい俺にも分かる。
「でもさ、12万円は高くない?」
「私、ちゃんと貯金してるし、お金ってこういう時に使うんだよ葉太郎くん」
天王寺さんはなんの躊躇もなく言い切った。かっけぇ。男だよ天王寺さん。
冷静に考えると、今俺の目の前に座っているのは世界的大企業の令嬢だった。いくら貯金しているのかは定かではないが、少なくとも10万、20万なんてそんなレベルではないだろう。
ただ70巻を3セット買うとなると210冊か、さすがに210冊を袋に入れて、それを持って秋葉原を徘徊するのはいくら俺でもしんどい。蔵之介でもいれば話は変わったかもしれないが、今210冊手元に来るのはどう考えても厳しい。
すでに目の前の彼女は買う買わないの検討ではなく、目の前のコミックスの山から210冊、どうやって持って帰ろうか思案しているようだった。
やがて近くにいた店員さんに声を掛け、尋ね始めたあたり彼女は本気だ。いきなりブロンドの美少女に声を掛けられたことに店員さんも口を開けて驚いている。
「あの、ちょっといいですか?ここにあるYAMATO、1巻から70巻まで3セットずつくださいな」
「は、はあ…。3セットずつ、でお間違いないでしょうか…?本当に3セットでよろしいのでしょうか?」
「え、5セットずつじゃないと売ってくださらないんですか…?」
「天王寺さん、たぶんそういう意味じゃない」
見かねた俺は話に割り込んで、すでに買う気マンマンの天王寺さんを止めた。これは普段の政治家の護衛任務より大変な仕事だ。
「天王寺さん、せめて1巻ずつ、70冊じゃダメなの?」
「ダメだよ!だって読めば読むほど本は傷むんだよ?だから保管用は必要でしょう?そしてYAMATOがこんなに面白いんだってみんなに知ってもらわなきゃいけないから、もう1セット必要だし、私が読む分も1セット必要だし…」
「本は読むためにあるのでは…」
「もしお水こぼしちゃったらもう私生きていけないよ…」
「その時また新しく買えばいいのでは…」
興奮しテンションが上がった天王寺さんを説得するのに、なかなかタフな交渉を要した。置く場所がないと言って新しい棚を買うと言ったり、それこそ新しい部屋を作るプランまで出てきたのは驚きだ。
「他に隠し部屋ないかな、本置ける部屋…」と言い始めたあたりでこれはまずいと思ったが、最後は俺の熱心な説得により彼女は折れ、1巻から70巻まで1冊ずつ、計70冊買うことでまとまった。
さすがに70冊を持って帰るのはしんどいため、お店に頼んで自宅に送ってもらえるよう手配する。実家に急にコミックス70巻セットが届いたら、父親と母親は相当驚くんだろうな。
幸せそうな顔でレジの前に並べられた1巻から70巻を見つめる天王寺さんと、彼女が最初本気で210冊買いかけて以降ずっと引いた表情の店員さんのコントラストが凄い。
レジに"39900円"という数字が並ぶ。彼女は笑みを浮かべたまま、手元にある小さな水色のバッグから薄いピンクのサイフを取り出すと、中から何やら黒いカードをつまみ出し差し出した。
「ブ、ブラックカード…!」
受け取った店員さんの手が震えている。まるで生まれたての仔鹿のようだ。
「天王寺さん、クレジットカード持ってたの…?」
「パパから『大事な時に使いなさい』って言われてるから、めったに使わないんだ。久々にカード使っちゃった!」
満面の笑みを浮かべながら、何も罪悪感のない表情で話す、これが天王寺家の人間なのかもしれない。
カードの使用履歴を見られたらマンガを70冊買ったのがお父さんにバレるんじゃないか?と思ったが、これだけのお金持ちとなると、いちいち細かくカードの使用履歴を見ることはないのかもしれないな。
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