第38話 忍者をデートに誘うのは難しい
庭のほうからアジサイの匂いがする。ふと空を見上げると広がる曇天が梅雨の訪れを予感させる。
私がイギリスから日本にやってきたのがゴールデンウィーク明けだから、まもなく1カ月半近くが経とうとしていた。
来日して2週間でさらわれるなんていう、とても令和とは思えない出来事に巻き込まれはしたけれど、護衛役である同級生3人、あと1匹の勇敢なワンちゃんのおかげで私は窮地を脱していた。あれからもう1カ月が経つのだから、時の流れは早い。
1カ月半でだいぶ学校にも慣れ、友達も増えてきた。最初は興味本位もあったのだろう、廊下から教室内にいる私をスマホのカメラで撮影しようとしてくる人たちが後を絶たなかったけれど、担任の服部先生が取り締まってくれたこと、護衛役の3人が動いてくれたことでもう撮影してくるような人はほぼいない。
ブロンドに青い瞳なんてどう考えても目立つことは自覚しているし、帰り道に周りの人達にチラチラ見られてはしまうけれど、護衛役の3人がしっかり脇を固めてくれているからなんの恐怖感もない。
最初の頃は私と香月ちゃんが一緒に歩いて帰って、少し離れたところから葉太郎くんと蔵之介くんがついてくる形だった。
それが今では私たちが一緒にいることに周囲が慣れたこともあって、私たちは4人揃って登下校をしていた。もちろん一緒に住んでいることがバレない程度に、だけれど。
梅雨入り間近の日曜日。私は忍者屋敷の2階、一番階段側の香月ちゃんの部屋で、彼女と一緒に勉強会を開いていた。
いつもなら葉太郎くんも蔵之介くんもいるところだけれど、今日は2人が組んで任務があるらしい。家にいるのは私と香月ちゃん、そして香月ちゃんの隣で寝てる影丸ちゃんだけ。
畳が敷き詰められた部屋の真ん中に置かれた少し大きめのちゃぶ台に、向き合って座る私たちが走らせる2本のペンの音だけがする。たまに影丸ちゃんが"フゴフゴ"言いながら寝相を変える声がした。どんな夢を見てるのかな。
葉太郎くんも蔵之介くんもいないということで2人屋敷に残った私たちは、香月ちゃんの提案で来たる期末テストに向けて参考書を開く。
学年でもトップクラスの成績を誇る香月ちゃんがすぐそこにいるから、ちょっと分からないところがあってもすぐ聞けるのがいい。逆に私も英語の細かいニュアンスなんかを教えてあげたりする。
「はぁ、なるほどね、そういうこと。さすが桜、イギリスからの帰国子女だわ」
「そんなことないよぉ、むしろこの説明ですぐに理解できちゃう香月ちゃん、本当に頭いい!」
「そんなことないってば。…まああのポンコツ忍者たちに比べれば成績いいけど」
「葉太郎くんも蔵之介くんも、テスト大丈夫なのかなぁ。任務だから仕方ないんだけどさ」
「今日あの2人浮気調査なんだって。人の浮気調べる前に自分の成績調べろって話だよね」
あははと香月ちゃんは笑って、手元にあったアイスティーのストローに口をつけた。護衛役ということで転校初日から仲良くなった彼女だけれど、あれから1カ月半で私たちは更に絆が深まった気がする。
もう何年も一緒にいるような親友のような感じ。彼女が私のことを同じように思ってくれていたらいいな、なんてつい思ってしまう。
「…ところで桜。ヨウとはその後どうなの?」
香月ちゃんからの突然の質問に、私の手がピタリと止まった。来た。その質問、来ると思ってたよ香月ちゃん。でもごめんね、答えられないんだ…。だって、何にもないんだもん。
「…なんにもありません」
「ヨウからのアプローチも?」
「ありましぇん…」
はぁ…と溜め息をついた香月ちゃんが、自身の背後に綺麗に畳まれていた布団に体を預ける。ボフっと音がすると、彼女の体が少し布団に沈んだ。
整理整頓された勉強机、そして綺麗に参考書や小説が並べられている本棚と比べると、今布団に沈み込んだ香月ちゃんの姿はだいぶ雑な体勢。そんな姿を見せるということはつまり、それだけ私に気を許している証。なんとなく嬉しくなる。
「おかしいなあ、桜を助けたあたりでもっと進展しそうな気がしたんだけど。ヨウもチキンだから仕方ないか」
「…実は私のこと、特に意識してないってことはない?」
「それはないでしょ。桜のこと見るたびにちょっと赤くなってるんだよあの男。17年も一緒に住んでたらさすがに意識しているかどうかなんて分かるよ」
「でもさぁ…、特に何もないんだよ?」
「そもそも2人きりになることがないからじゃない?」
言えない、毎晩のようにお互いの部屋の真ん中にある回転扉を開けて、2人でおしゃべりしてるなんて。毎晩2人きりになっているなんて、とてもじゃないけど言えない。
「桜はヨウのこと、気になってるんでしょ?」
「…うん。気になってる」
「だったら薬でも飲ませて無理やり進展させる?」
「だ、駄目だよそんなの!」
私の視界の端に、なんだか怪しげな色をした液体、草花が飾られている棚が目に入る。あんな色の液体を葉太郎くんに飲ませるなんて、さすがにそれはまずい。
「あはは!ウソだよ桜。惚れ薬なんて飲ませるわけないじゃん!」
「え?惚れ薬あるの?」
「あるって言ったらどうする…?」
「か、買う…。あ、間違えた」
一瞬惚れ薬を買いかけた私の反応を見て相当面白かったのか、香月ちゃんが大笑いして布団を叩いている。むー、そんなに笑わなくたっていいじゃん…。
「はぁ、はぁ、あー笑った。…ごめんて桜、そんな顔しないで!ね?頬を膨らませた姿も可愛いけど」
香月ちゃんは頬を膨らませた私をなだめつつ謝ってきた。もう!これなら惚れ薬タダでくれないと割に合わないんだから!
「そうかぁ、進展まだないかぁ…」
「香月ちゃん、惚れ薬ってないんだよね?」
「そんな薬はないよ、落とすだけだったら嗅いだだけでその場で寝ちゃう薬とか、自白を強要させる薬はあるけど」
香月ちゃんが物騒なことを言い始めた。それ、違う意味の落とすじゃないの?この子すごく可愛いし見た目は真面目なのに、定期的に物騒なこと言うんだよね。
そうして彼女は近くに置いてあった少し大きめのペンギンの人気キャラクター"ぺんぺん"のぬいぐるみを抱っこするように持つと、何事かを考え始める。何やら思いついたような表情に変わったのは、それから30秒ほど後のことだった。
脇に"ぺんぺん"のぬいぐるみを置くと急に立ち上がって、自身の机の引き出しに入ってあった紙の束を取り、中身を1枚ずつめくっていく。
しばらくして「あった!」とお目当てのものを見つけると2枚ほど抜き取り、ちゃぶ台の前、先ほどまで自分が座っていたところに戻ってくると、抜き取った2枚の紙を私に差し出した。
「はいこれ。プレゼント」
「なぁにこれ?」
渡されたのは紙のチケットのようなものだった。薄緑色のチケットには"ボルダリング体験チケット"と書いてある。
「ボルダリングってあの…?」
「そうそう、壁の突起を掴んで登っていくアレ」
「どうしたのこのチケット?」
「4月にさ、会社の社長の護衛任務についた時にもらったんだよね、このペアチケット。でも2枚しかないし、ヨウや蔵之介と行くのもなぁ…なんて思ってたんだ。これ、桜がヨウと2人で行ってきなよ」
「…いいの?香月ちゃんがもらったのに」
「いいのいいの!私今更ボルダリングなんていいからさ。あとそのボルダリングのジム、秋葉原の近くなんだよね。桜、日本に来てからまだ秋葉原行ってないよね?」
「アキバ!?行ってない!」
「桜好きでしょ、そういう系の。忍者のマンガとか。私はよく分かってないんだけどさ、せっかく日本に来たんなら行っておいでよ。ヨウなら腕が立つから1人で護衛できるし。"秋葉原見物に行きたい、ついでにボルダリングのチケットもあるから行こう"って誘えば、ヨウは来てくれるよ?」
「香月ちゃん…!」
もはや親友に近い存在となった目の前の女の子に、私は何度もお辞儀して精いっぱいの謝意を伝えた。これなら何も不自然な感じもなく、彼を誘えるだろう。
「ありがとう!私、誘ってみるよ!」
「頑張れ桜!もし断られたら言ってね、そこにあるこの前作った新作の薬、ヨウの飲み物に盛るから」
戸棚の薬を指さしてフフっと怪しげに笑う香月ちゃんに、それなんの薬?とは聞けなかった。色は紫。間違いなく危ない薬なのは私でも分かる。
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