第16話 Cheer up
担任である服部先生の授業は別に退屈なわけではない。話も面白い人で生徒にも人気があるし、途中話が脱線する日本史は支持も厚い。
しかし今日はゴールデンウィーク明け。次第に気温が上昇する中で眠くなるなというほうが難しく、朝5時半に起きて修行していたこともあって、だいぶ瞼が重くなってくる。
睡魔によってあくびの回数が増え、このまま目を閉じれば今度は俺に向けてチョークが飛んでくる恐怖感とも戦うハメになってしまう。
授業も半分が過ぎた頃合いだろうか。日本史の時間が始まって早くも5回目くらいのあくびをしてしまった時、急に隣の天王寺さんの右手に持つシャーペンが動き出した。
ゼロ距離の隣同士ということもあって、こちらから彼女の表情は伺い知ることはできないが、シャーペンは天王寺さんのノートの右上部分で忙しそうに動き回り、次第に何かのイラストのようなものが浮かび上がってくる。
ものの20秒ほどだろうか。ノートの右上を颯爽と駆けまわっていたシャーペンの動きが止まる。彼女の右手がノートから離れた瞬間、そこには可愛らしくデフォルメされたクマが、椅子に座ってのんきにあくびしている絵が描き込まれていた。
口元に手をやって、あくびをしているのだとすぐ分かるようになっていて、その奥には家の窓枠とデフォルメされた太陽まで描かれている。
わずか20秒ほどで、ノートの端にはお昼前、眠そうにしているクマの世界が浮かび上がった。
驚きのあまりつい、俺もノートの左端に"??"とクエスチョンマークを2つ並べたところ、彼女はまたノートの右端にペンを走らせ、20秒ほどで新作となる絵を完成させる。
今度の絵は眠そうにしていたクマが立ち上がり、手を上げながらまるで膝を動かしてスクワットしているような様子を表したもので、眠そうなクマが頑張って眠気を覚まそうとしているのが伝わってきた。
さすがにこれは自分の感想を伝えたいと、俺もまたノートの左端にメッセージを書き込んでいく。
『上手過ぎない?プロかと思った』
『そんなことないよ、全然手が込んでないし…。このくらいみんな描けるよ』
『描けないって。俺の描いたクマ、見る?』
『見たい!見たい!』
ノートの端を使ったメッセージ交換が2往復したところで、俺は左端の空いているスペースに小さなクマの顔を描いていく。
自分自身絵心はまったくないことくらい自覚しているが、あえて自分の下手な絵を見せて、彼女のかわいらしい絵を褒めたいという気持ちもあった。
そうして描き続けること30秒、俺のノートの左端には不審者のような顔をしているクマらしき生き物が姿を現す。
『タヌキ…?』
『クマ』
『個性的なクマさんね』
『日本にはまだこういうクマが生息してるんだよ』
『Really??』
最近までイギリスにいたせいか、驚いた拍子に書かれたメッセージが思わず英語になるのはちょっと面白い。
少し体勢を入れ換えて軽く彼女のほうに視線を向けると、彼女は左手で口を押さえ本当に驚いた表情を浮かべていた。
いや、こんなタヌキなんて言われるようなクマが実際日本に生息していたらまずいでしょ…と思ったものの、そういえばこの子は色々信じやすいんだった。失念していた。
再度ノートの左端に『ウソ。そんなクマいないよ』というメッセージを記すと、すぐに彼女の右手が動き、ノートの空いたスペースに今度は先ほどのデフォルメされたクマがプンスカ怒る絵が描かれる。
実に器用だし、何より描き上げるのが早い。まるで会話しているかのような手の早さには驚嘆してしまう。
そうこうしているうちに一瞬だけ彼女の右手が止まったものの、今度はクマがノートの右端を少しずつ下がっていくように何頭か描かれる。何やら走っている様子だ。腕を振ったり、息遣いの荒さがその絵からは伝わってきた。
そして彼女のノートの右端下にクマが到達すると、なんとクマがページをめくる様子が描かれ始める。
これには思わず驚いてしまった。あっというまにページをめくるクマが描き込まれると、彼女はノートを実際めくり、まだ何も書かれていない真っ白なページが姿を現す。
真っ白なページの左端に更にシャーペンを走らせ20秒ほど、そこには走るのに疲れたのか、クマがゴロリと横になって小さなテレビを見ている絵が登場した。
まるで隣のページから走ってきたように錯覚してしまうその画力、そして構成力に、俺は実際声を出さなかったものの、心の中で驚きの声を上げる。
『天王寺さん、本当に絵が上手い。プロみたい』
『ほめ過ぎ!でも、嬉しい』
『そういえば昨日、自己紹介の趣味のところでイラストがどうのって言ってたね』
『ちょっとだけね。趣味程度なの』
『ちょっとだけでこんなに描ける人いないって。プロだと思った』
俺がノートの左端にこのメッセージを書いた途端、また彼女の右手が止まる。そして再度動き始めたかと思ったら、今度はクマが溜め息をつく絵が描かれる。本当に表情豊かだなこのクマ。
すると彼女は溜め息をついたクマの口元にもペンを入れ、円を作るようにしてまるで吹き出しのような空間を描いていき、吹き出しの中に『…こんな絵を描けても将来何の役にも立たないから』と器用にメッセージを書き始めた。まるで自分がクマと会話している感触を受ける。
『そんなことないんじゃない?』
『ううん、将来私の家の会社を継いだ時、いくら絵が描けてもなんの役にも立たないの。こんなのを描けるようになる前に、経営学について学んだほうがよっぽどいいってパパも言うの』
そうして天王寺さんはここまでのメッセージを書き終わると、先ほど自身が描いたクマのように、少し溜め息をついてみせた。
彼女と出会ってまだ2日しか経っていないが、こうして溜め息をつくようなごく普通の女の子なのだなと、俺はちょっと認識を改めることとなった。
若干肩を落としつつ、何やら落ち込んでいる彼女を少しでも元気づけたい。心の中ではそう思っているのだが、授業を抜け出してジュースを買ってくるわけにもいかない。
仕方ないからもう一度、"タヌキ"と言われてしまった、自分ではクマと思っている絵を自分のノートの左上に描くと、そこから吹き出しのスペースを作っていく。
『元気、出して』
俺が描いた吹き出しのメッセージを見た瞬間、左隣の彼女の手がピタリと止まった。
10秒ほどだろうか。ようやく手が動いたかと思うと、彼女はまだ大きなスペースが空いているノートの右端に、またデフォルメされたクマを描く。そしてクマから伸びた吹き出しには、小さく、細い字が刻まれていく。
『Thank you』
隣から少しだけこぼれ笑いのようなものが聞こえたかと思うと、彼女は空いたスペースに続きのメッセージを書き始めた。
『さっき先生がくらのすけくんに投げたのって、チョーク?』
『たぶんね』
『黒板から、後ろのほうのくらのすけくんまで15mくらいあるよ?日本の先生はみんなチョークを投げられるの?』
『たぶん投げられるのはあの人くらいだね』
『私がイギリスで観た忍者のアニメで先生がチョークを投げていたけど、みんな投げられるわけじゃないんだ』
『教師ってチョークを投げる仕事じゃないからね』
『でもさっきの光景、面白かった!先生の投げたチョーク、くらのすけくんの口の中に入るんだもん!』
『???』
蔵之介の真後ろの席のため知らなかったとんでもない新情報が隣の美少女からもたらされ、俺は思わず立ち上がり、前の席の蔵之介の様子をのぞこうとしてしまった。
「おう葉太郎、自分から志願して問題を答えようとはいい心がけだな。じゃあここの問題は葉太郎に答えてもらおうか。鎌倉幕府が成立したのは昔1192年とされていたが、今は違う説が支持されて新しい年号になった。いつか分かるか?」
「え、あ…、良い国作ろう鎌倉幕府で4192年?」
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