第15話 ミジンコ忍者と優等生
俺は天王寺桜という女性をどこか侮っていたのかもしれない。
ロンドンからの帰国子女なんだから当然英語はできて当たり前だとは思っていたが、忍者のマンガに影響され、今も日本では忍者が活躍していると勘違いしていた様子も見られたことから、正直どこか天然の入ったお嬢様だと思っていた。
しかし俺のそんな勝手な想像は、彼女の転校2日目で早速覆されることになる。
2日目、最初の授業となった古文で教師からあてられた彼女は、いきなり問われた問題について完璧な現代語訳を見せたのだ。
半信半疑で聞いたらしい古文の女教師はあまりの驚きから目が飛び出るんじゃないかと思うほどの表情を見せ、クラスメイトたちもまさかブロンドヘアの帰国子女がここまで完璧に訳をこなすとは思ってもいなかったらしく、一様に表情に驚きの色を浮かべる。
ウチの高校は蔵之介や俺が入れるくらいだから決して超進学校というわけではないが、レベルが低すぎるわけでもない。この市内の高校じゃそれなりのレベルにある学校ということもあって、授業のレベルは決して低くない。
そんな中、ブロンドの美少女は2限目の数学では黒板に書かれた数式の穴埋めを見事にこなし、再度クラスメイトと教師を驚かせる。斜め前に座る香月もこちらから見て分かるくらい少し口を開けていたあたり、一発回答に驚いていたのかもしれないな。
3限目の化学となる頃には天王寺桜の学力に疑いを持つクラスメイトは完全にいなくなり、天王寺さんが教師に問題を問われ当たり前のように化学式を答える姿を見て驚く人間は、教室の中には化学教師以外いなかった。
授業が終わるたびにクラスメイトたちは俺と天王寺さんの机の周りに集まり、なぜそんなに頭がいいのか、古文までカバーしているのかと矢継ぎ早に質問していく。
その度に香月がマネージャーのようにクラスメイトたちを引きはがし、天王寺さんも苦笑いを浮かべていた。
「しかし桜は何でもできるわねぇ…」
4限、担任の服部先生が担当する日本史の時間を前に、香月が後ろの俺たちのほうを振り向く。見返り美人という日本画があるが、こいつも顔だけはいいんだよなあと一瞬思うも、心の中を読まれたのかキッと睨まれてしまう。
「全然そんなにできるわけじゃないよぅ、ちょっと予習もしていただけだから…」
「あれで全然できないって言うんなら、ヨウや蔵之介の成績なんてミジンコみたいなものよ?」
「ミジンコとはなんだ、ミジンコとは」
「これは失敬、ミジンコに失礼だったわ」
香月はそう言って、少々申し訳なさそうな顔を浮かべる。残念ながら確かに俺と蔵之介は毎回補習ギリギリの成績を低空飛行するかのようにキープしているため、何一つ反論できないのが実際のところだった。
1つ前の席の蔵之介に至っては3限目の化学の終盤のあたりから完全に寝落ちて、一人夢の国へ旅立っていた。たまに小さなイビキのような音が漏れ出し、その度に隣の席の香月が迷惑そうな表情を浮かべる。
「あはは…、蔵之介くんも疲れてるんだね…」
「もう毎回こうなんだから。さっき2限目にも起こしてあげたのにもうこれ。いいんだ、もう起こしてやんない」
「朝から修行して疲れてるんじゃないの?すごいなあ、朝からみんな修行して学校に行くんだから。香月ちゃんなんか、さっき数学の時間で先生からの質問完璧に答えてたし。朝も20km走ってるんでしょ?尊敬するなぁ」
「あの朝のランニングは別に…。日課なだけだし…」
「あーあ、普段褒められてねえからって照れてやんの」
「うっさいヨウ、今度夕食にトリカブト混ぜてやるんだから…」
ちょっとからかっただけなのに、香月はプリプリと怒り出し物騒なことを言い始める。え、お前部屋にトリカブトなんて保管してるの?警察に捕まったりしない?
俺たちが小声でしゃべっているせいか、周りのクラスメイトたちから見れば香月が何か怒っているようにしか見えないらしく、俺の通路を挟んで隣の男子なんかは「怒った顔もかわいいなぁ…」なんてポケーっとしながらつぶやいていた。
いやお前、今この女は俺の夕食にトリカブトを混ぜるとか物騒なことを言ってるんだよ。猫を被った香月しか知らないクラスメイトたちに、いかにこの女が凶暴で危険な存在かを拡声器で周知してやりたくなる。
そんな周りの男どもだが、授業が始まると雰囲気は一変する。こちらをちょっと振り向いては、その度に俺に怒りの視線を浴びせてくるのだ。
理由は簡単。天王寺さんがまだ転校して2日目のため、持っているのがノートと文房具くらいだから。
そのため持ち合わせている教科書など存在せず、一式が届くまでは隣の俺の席と自分の席をくっつけて、俺に教科書を見せてもらいながら授業を受けるスタイルを取っていた。
隣同士席をくっつけるとメリットもある。例えば3限目の化学でよく分からない化学式について問われた俺だが、隣の天使、いや救世主が小声でそっと答えを教えてくれたことで難を逃れることに成功している。
これがもし隣が香月であれば、たぶんウソの化学式を教えられて、変な数字を答えて教師にそのまま立たされているところだろう。そう思えば思うほど、隣の美少女が天使に見えてきた。もうずっとこの授業の時間が続けばいいと本気で思う。
しかし問題もある。席をくっつけたことによって天使との距離がほぼゼロになることで、時々彼女の右肩が、俺の左肩にそっと触れるのだ。
彼女は特段気にした様子を見せず何事もなかったかのように授業を聞き続けているものの、俺のほうはというと肩が少しでも触れ合うたびに心が熱くなり、授業で聞いていた内容がその度に飛んで頭が真っ白になっていく。
そんな俺の様子を見て周りのクラスメイトの男どもは、まるでこれから俺のことを暗殺希望するかのような視線を浴びせてくる。当然香月もその視線には気づいているが、いい報いだと思っているのだろう、周りの男どもの視線をそのまま放置し、止める気がない。
蔵之介に至っては、3限目の化学の終了間際からずっと爆睡したまま。最初は腕を組みながらウトウトしていたのが、次第に体が起きてきて今や木でできた、蔵之介の体のサイズには若干小さめのイスの背もたれにもたれかかるようにして寝ている。
どうせ口元も緩んで今にもヨダレが垂れそうな状況になっているんだろう。目の前の席だから表情までは伺い知ることはできないものの、付き合いの長さから蔵之介の寝顔は容易に想像できた。
そんな感じで蔵之介の寝顔を想像していると、何かが『シュッ』と風を切る音がした。
天王寺さんの護衛である俺と香月は音が鳴るか鳴らないかのところでパっと顔を上げると、正面の黒板のほうから何やら白い細長い物体が、まっすぐ俺のほうに飛んでくるのが見える。
しかしその白い物体の狙いは俺ではなく、手前で爆睡していた大柄な男のほうだった。白い物体が蔵之介に当たったと思いきや、すぐに蔵之介はなぜか知らないがゲホッゲホッとむせ始める。なあ、お前本当に天王寺さんの護衛してる自覚ある?
むせていた蔵之介の机の右脇のほうから、白く細長いチョークがこぼれ落ちる。チョークが飛んできた方向に目を向けると、日本史担当の担任・服部先生が室町幕府の成立について何とも気の抜けた声で説明していた。
服部先生が腰に当てた左手の人差し指と中指の間が遠めに白く見えるあたり、つまりそういうことなのだろうが、今まで寝ていて急にチョークが飛んできた蔵之介と、俺の隣の席で今何があったかまだよく理解できていない天王寺さんは、まるで頭の上に?マークが浮かんだかのように頭を少し左右に振っている。
天王寺さんは蔵之介の右脇から零れ落ちたものが何か気になる様子で、右側の席の俺のほうに少し身を乗り出そうとした。元々ゼロ距離だった俺たち2人の距離は更に密着するものとなり、彼女の膨らんだ右胸が、俺の左肩に触れていく。
季節は5月。温かくなりだして今週から薄着となった俺の左肩に、めちゃくちゃ柔らかい何かがまるで肩を包み込むかのように触れた。
俺は人生17年目にして、衣替えの素晴らしさに気づいた。薄着、最高。
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