第10話 忍者屋敷の夜
夕食を食べ終えた俺たちは母親が注いでくれたお茶を飲みながら、戸棚にしまってあったお菓子をつまみつつ食後の休憩に入る。
姉貴はまだ机に突っ伏して寝ていたし、父親と蔵之介はいつの間にかダイニングテーブルから少し離れたソファに座り、何やら盛り上がっていた。楽しそうだね。
「そうかぁ…。今の忍者は影分身したりしないんだぁ…」
令和の忍者の現実を知った天王寺さんはまだ落ち込んでいる。話を聞き進めると、どうやら彼女は日本に来る前、自身の父親から俺たち3人が護衛につくと聞かされた際、同時に俺たちが忍者であることを伝えられていたらしい。
自身が日本の忍者のマンガのファンだけあって、大変喜んだのそうだ。日本に向かう飛行機の中で忍者に対して様々なイメージを張り巡らせたのだが、実際にそんな忍者がいないことを聞いて大層落ち込んだらしい。
いや、昔の忍者も影分身できたかは疑わしいよ。少なくとも手から雷は出せなかっただろう。
普通に考えて影分身なんぞできないことは分かりそうなものだが、彼女が海外生活が長いこと、何より純粋な心の持ち主だからこそ為せる業なのかもしれない。
そして一つ合点がいった。普通であれば同級生の護衛がつくなんて聞いたら心配するものだろう。同級生に護衛されるなんて普通はありえない。
しかし彼女は今朝、初めて出会った時から特段何も疑問を呈することなく、俺たちの護衛を自然な感じで受け入れていた。
それはつまり、俺たちが忍者だとあらかじめ聞かされていたからに他ならない。さっきまで俺たちが影分身までできるだろうと本気で思っていたフシがある。見た目がかわいらしいのはもちろんのこと、その純粋な性格もまたかわいらしい。
「ねえ、葉太郎くんも普段、今回みたいに護衛の任務をやったりするの?」
ボケーっとしながら頭の中で天王寺さんのことを思い浮かべていた俺の耳にご本人の声が入り、俺は思わずビクっとした。それを見て彼女も驚いたか少し身じろいだが、その表情にはすぐに優しい微笑みが戻る。
「ごめん、考え事してた…。母さんも言ってたけど、護衛任務と浮気調査が一番多いんじゃないかな。…改めて考えると高校生の浮気調査っておかしいな」
「…浮気調査って何するの?」
「ん?いや、旦那さんを追跡して、奥さん以外の女の人とホテルに入る姿を写真で撮って…」
「ホ、ホテル!?」
ホテルという単語を聞いた途端、天王寺さんの耳が誰が見ても分かるくらい真っ赤に染まる。
2つ隣に座る香月が、「お前私の桜に何してくれとるんじゃ」と言わんばかりに俺を睨みつけた。いや、この単語だけでここまで真っ赤になるなんて誰も思わないって。
「よ、葉太郎くんはホテルなんかに行くんだね…」
「うわヨウ、サイテー」
「いや香月、お前も浮気調査の依頼受けてるだろ。人聞きが悪いこと言うな。俺は別に積極的に受けないし、姉貴の代わりにたまに浮気調査に行くくらいだよ」
「え、葉太郎くんが紅葉お姉さんの代わりに仕事することもあるの?」
話がホテルから離れたのが良かったのか、興味のある忍者の仕事の話になったからなのか、少しずつ顔色が戻り始めた天王寺さんは再度少しだけ体を浮かせ、俺のほうに身を乗り出すような恰好になった。
「…まあ、姉貴がこんなんだしさ、今日みたいに使い物にならない時は代わりにね。基本俺は護衛のほうが中心かな?」
「護衛!カッコいい!誰?誰を護衛するの!?」
「そ、そうだね…、政治家とか、会社の社長…?」
「キャー!マンガみたいでカッコいい!」
急にテンションの上がった天王寺さんは両手を胸の前で合わせると、何やらうっとりした表情を見せて少し天井のほうに顔を向ける。あまりの様子の変わりぶりに香月もちょっと引きつつあった。
「さ、桜、政治家っていってもこの近くに住んでる市議会議員とか県会議員だし、社長と言ってもそんな凄い人たち相手にしてないよ?」
「それでもよ香月ちゃん!香月ちゃんもそういう人たちを護衛するんでしょ!?」
「す、するけど…。まずは桜、落ち着いて…!」
天王寺さんは酔いつぶれて机に突っ伏し寝ている隣の姉の上から身を乗り出して、香月の両手を掴んで顔の前で合わせる。恥ずかしいのか香月の顔がほんのり赤みがかる。
「護衛の任務をやるってことは香月ちゃんも強いんでしょ?さっき部屋で腕だけで体を持ち上げて葉太郎くんのことを蹴っていたのもカッコ良かった!」
「俺は痛かっただけなんだけどなあ」
「ねえねえ、葉太郎くんも強いの?さっきの香月ちゃんみたいに体を持ち上げて蹴ったりできるの?それからそれから…」
興奮したのか天王寺さんが香月の両手を離し、俺のほうに身を乗り出し…たところで、解放された香月が若干呆れるように溜め息をついて立ち上がり、天王寺さんを後ろから抱きかかえるように捕まえると、座っていた椅子に彼女の体を戻す。
その瞬間天王寺さんは我に返ったのか、自分のここ10秒ほどの行いを思い出したのか耳まで真っ赤にすると、隣の酔い潰れて寝ている姉貴をマネするかのように机に突っ伏してしまった。突っ伏しつつ、「…ごめん、ちょっと興奮しちゃって」と、彼女のか細い声が聞こえる。
そして口元が隠れるくらい少しだけ顔を上げ、こちらを上目遣いするように見据えてきた。青い瞳は若干の潤みを帯びていて、その様子はまるで小動物。俺は自分の心臓の鼓動が少し早まるのを感じた。
「ごめんね葉太郎くん、香月ちゃん…。憧れの日本に来たら早速忍者の皆さんに出会えて、しかも好きなマンガで見るような回転扉や落とし穴がある忍者屋敷があって…。ちょっと興奮しちゃった、ごめん…」
そう言うと天王寺さんは再度顔を下げて机に突っ伏す。そんな彼女の頭を、後ろから香月は優しくなでる。
確かに、普段から海外暮らしをしている彼女にとっては相当貴重な体験なのかもしれない。俺の実家は一種のテーマパークのようなものだ。
初めて来る人は大体驚くし、子どもなんかはびっくりして何度も回転扉を回そうとする。初めて見る彼女が相当興奮するのも分かる。
「お風呂、沸いたから入っちゃいなさぁい!」
ちょうどその時、廊下の奥の風呂場のほうから母親の声が響いてきた。いつの間にか風呂を沸かしに行っていたらしい。
「…ねえ桜!一緒にお風呂入ろう!」
「…お風呂?」
「うん、この家のお風呂広いんだから!露天風呂まであるんだよ!」
「ろ、露天風呂…!?」
突っ伏していた天王寺さんがパっと顔を上げ、青い瞳に一気に輝きが戻ってきたのが俺から見ても分かる。一瞬でテンションが戻った天王寺さんは香月に手を取られ、そのまま風呂場へ行ってしまった。
そしてその場に取り残された酔っ払いは、「…あたしもいくぅ」なんて寝言を言っていた。そのまま行けよ、天国まで。
その後。香月と天王寺さんは1時間くらい風呂に入っていた。相当楽しかったらしい。キャッキャという声が2階の俺の部屋まで届いたほどだ。
スマホをいじりながら楽し気な声を聞いていた俺が、風呂場のシーンを一瞬想像したのは言うまでもない。健全な高校2年生だ、こればかりは仕方ないことだろう。
しかしそれ以上に俺の心を揺さぶったのは、彼女が自分の部屋に戻る前、一瞬こちらの部屋の扉を開けて"お休みの挨拶"をしにきたことだ。
普段使っているらしい白のレースをあしらったパジャマが少し火照った彼女の肌を包んでいる姿を見て、思わずびくっと震えてしまったほど。あの姿はまさに犯罪に近い。
夜も更けてきたこともあってか口元を抑え、小声で「お・や・す・み!」とつぶやく彼女の姿を、俺は声も出せず、力の入らなくなった右手をプラプラと振るしかなかった。この光景がこれから毎日続くかと思うと、ある種精神的な修行なのかと思えてくる。
とてつもなくかわいい。もちろん顔もかわいいのだが、仕草がイチイチかわいいのだ。そんな彼女と今日何度も目が合ったのだが、その度に自分の体が熱くなるのを自覚する。
そしてその都度、心の中で"自分は護衛である"ことを自らに言い聞かせる。相手は護衛対象者だ。余計な情は入れないようにと幼少期から父母に厳しく指導されてきた。
自室に敷いた布団の上で隣の彼女の部屋のほうを向いて正座し、早まる心臓の鼓動を何とか抑える。深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。体中に酸素を流すような、酸素が体を包み込むようなイメージを持って呼吸を整えていく。
そう、俺は彼女の護衛なのだ。彼女に無事、楽しい高校生活を送らせるのが俺の仕事だ。心の中で何度も念じ、ようやく自分の心臓の鼓動が正常に戻ったその時。
彼女が住まう部屋と俺の部屋の間を仕切る木製の壁がギシっと音を立てた。テレビの隣、ちょうど壁越しに彼女の布団が敷いてある部分がもう一度、ギシっと音を立てる。
次の瞬間、急に壁の下の部分、高さでいうと70cmくらい、幅でいうと50cmくらいの回転扉が急に動き、白い布を纏ったブロンドの女の子が「キャッ!」と声を上げ、俺の部屋に転がるように雪崩れ込んできた。
あまりに急な出来事に俺は声を出すことも忘れ、ただただその場の光景を眺めるしかない。
無言の俺と、俺の目の前で頭を抑えていた天王寺さんの目の前で、空きっぱなしの回転扉が小さく音を立てながら揺れている。え、こんなところに回転扉なんて存在したの?
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