第9話 ど・う・し・よ・うのサイン

 「彼氏がねぇ…!浮気してたのよぉぉ!」


 姉貴の泣き叫ぶ声がリビングに響く。もういい加減にしてほしい。母さんは注意する気も失せたのかもうキッチンで自分の食べた後の皿を洗い始めたし、香月は聞き慣れている分、顔色一つ変えずにサラダのミニトマトをつまんでいた。


 蔵之介はいつのまにか父親にビールを注ぎ始め、2人で勝手に盛り上がっている。この家、自由か。


 グラスを片手に顔を左腕に埋めて泣き始めた姉貴を見て、隣の天王寺さんは非常に困ったような表情を浮かべていた。


 原因を作ってしまった後悔と、何か聞かなければいけないんじゃないかという責任感が彼女のこの表情を作っているのだろう。


 いつもの光景だから俺も特に反応せずに目の前の煮物に手を伸ばしていたが、正面に座っていた天王寺さんが声も出さず、何やらこちらを向いて口を開いていた。


 俺は読唇術などできないが、じっくり彼女の表情と唇の動きを見ると『ど・う・し・よ・う』と言っているようだ。


 唇の動きをじっくり見ていた俺も口を開こうとしたところ、なぜか彼女の顔が急激に赤くなっていく。どういう原理だこれ。


 「…桜ちゃん、今のもう一度、声に出さないで口だけで言ってぇ」


 腕に埋めていた顔をいつの間にか上げた姉貴が、左隣の天王寺さんにもう一度口を開くよう催促し始めた。


 真っ赤な顔の天王寺さんは、恥ずかしそうにしながらも姉貴のほうを向いてもう一度口を開き、無言で『ど・う・し・よ・う』と言っていた。2度目で見てもやはり『どうしよう』だと思う。


 「ア…イ…シ…テ…ルのサイン…?メット5回ぶつけたりぃぃぃ!ブレーキランプ踏んだりぃぃぃ!私も花火振り回しながらハートを5つ書きたいよぅぅ!」

 「紅葉!バカ言ってないで終了しなさい、ほら!解散!」


 完全に壊れてしまった姉貴は、ついに怒った母親にビールを取り上げられてしまった。「ビ、ビィル!私の恋人ぉ…!」なんて言いながら没収されたビールに手を伸ばした姉貴は、そこで充電が切れたのかそのまま机に突っ伏して寝てしまった。


 今日初対面のお客さんがいる前でここまで酔っ払えるのはむしろ尊敬に値する。ミリ単位も見習うところはないが。現代の忍者がこんなんでご先祖様に申し訳ない。


 「ねえ葉太郎くん…お姉さん大丈夫?」


 姉貴を心配したのか天王寺さんが少し下から、俺のことをのぞき込むように見てくる。その表情があまりにも可愛いものだからついドキっとしてしまった。


 「大丈夫大丈夫…いつもこんな感じだから」

 「桜、大丈夫。紅葉姉さんは365日中360日こんな感じだから。先週彼氏の浮気が判明して別れてからずーっとこれ。朝になったらまた起きるでしょ」

 「残りの5日がどんな感じなのか気になるけど…。紅葉お姉さん、浮気されるなんてかわいそう…」

 「でも変装術使って化けて彼氏尾行した結果浮気が判明したんだから、一種の自爆だよなぁ」

 「え、葉太郎くん、忍者って変装術なんてできるの!?」


 先ほどまで心配そうに姉貴を眺めていた天王寺さんの目が急に見開き、青い瞳が輝き出す。そのあまりの勢いに俺も香月も驚いてしまい、2人ともテーブルの脚に膝をぶつけてしまった。


 天王寺さんは少し体を浮かせ、俺のほうに向かってテーブルから身を乗り出すようにしている。そんなに変装術が珍しいのか。珍しいか。


 「あ、ああ…。全員できるわけじゃないけれど、姉貴は変装術が得意なんだよ。普段から化粧でよく化けてい…痛っ!」


 姉貴が寝ていることをいいことに悪口を言った俺の足を、テーブルの下から姉貴が思い切り蹴った。蹴られたのが先ほどテーブルの脚にぶつけたところだったものだから、痛みはまるで倍近くに感じられた。


 見た感じ寝ている。もしかすると悪口を言われたことに対して無意識に足が動いたのかもしれない。凶器みたいな女がいたものだ。


 天王寺さんは痛がる俺を心配そうに眺めていたが、香月は何事もなかったように味噌汁を啜っていた。お前は少し心配しろよな。


 「紅葉お姉さん、浮気されてかわいそう…」

 「かわいそうって天王寺さん、こんな酔っ払いが彼女なんて、普通に嫌でしょ」

 「…ちなみに葉太郎くんは変装術できるの?」

 「まあ…、ちょっとは仕込まれたけど、姉貴ほどじゃないね。コイツは本当に人が変わったように化けるから。だから尾行しても全然バレない。前に老婆の姿に化けた時なんてシワの数以外まるで一緒…痛てーよ!」


 再度無意識のまま、自分の悪口を言われたと思ったのか姉貴がテーブルの下から俺の膝を蹴る。天王寺さんは痛がる俺を心配はしていたものの、すぐに何やら色々聞きたいことがあるのかウズウズしだした。


 「ねえねえ、葉太郎くんは影分身とかできないの?」

 「できません」

 「むー…。なら水の上を歩いたりは?」

 「歩けません」

 「手裏剣は投げたり…」

 「投げません」

 「えー…」

 「なんだかすごくガッカリさせたようで申し訳ないんだけど、戦国時代ならともかく、仮にバイクで逃げたりした敵に手裏剣なんか投げても意味ないでしょ…」

 「…確かにそうなんだけどさあ」


 目の前の美少女はそう言って肩を落とした。海外暮らしが長かったからだろうか、この子は現代の忍者に対して何か違うイメージを持っているのかもしれない。


 彼女のそんなガッカリした様子は、2つ隣の椅子に座っていた香月も気になったらしい。


 「ねえ桜、何でそんな忍者のイメージなの?」

 「…私ね、イギリスに住んでいる時から日本のマンガも好きでよく読んでたんだけど、主人公は手裏剣を投げて影分身もできてさ、ライバルは瞳が万華鏡みたいになって…」

 「瞳術はたぶん戦国時代の私たちのご先祖様たちもできなかったんじゃないかな…」


 香月のもっともな意見に天王寺さんは更に肩を落とした。明らかに気落ちした姿を見ると、なんだかこちらが申し訳なくなる。


 しかし意外だったのは天王寺さんがマンガを好きで読んでいたことだろう。先ほど荷物整理を手伝った時、彼女のダンボール箱から出てきたのは英語で書かれた小説や、難しそうな文庫本ばかりでマンガの類いは見当たらなかった。


 そんなことが若干頭に引っかかりつつ、俺は手元に残っていた白飯を、漬物と一緒に掻き込んでいく。そしてそこに皿を洗っていた母親がやってきて、俺たちの空いたコップにお茶を注いでいった。


 「あ、ありがとうございます桔梗お母さん!」

 「ごめんなさいね、なんだか忍者のイメージを崩しちゃったみたいで」

 「そ、そんなことないです!私が勝手にイメージしていただけなんで…」

 「それこそ大昔の忍者は暗殺やスパイ工作なんかをやっていたみたいだけれどねぇ。この時代にそんなことできないでしょう?今の忍者の仕事と言ったらもっぱら要人警護、浮気調査とそうねぇ…、ボディーガードと探偵の真ん中みたいなところかしら」

 「え、じゃあ今の忍者の皆さんは偉い人を暗殺したり…」

 「「しません」」


 俺と香月の声がハモった。

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