第8話 酔っ払いの大失恋
4人揃って1階に降り、落とし穴がある廊下を左に曲がったところにあるリビングにたどり着くと、部屋中に煮物のいい香りが漂っていた。
後から増築したこのリビングは築100年近いこの忍者屋敷の中では新しく、何よりご先祖様が作ったわけではないからトラップがない。ある種気が楽な部屋と言える。
テレビの前に鎮座するソファの奥、大きなダイニングテーブルではすでにTシャツ姿の女性が瓶ビールを片手に一人で一杯やっていた。入ってきた俺たちに気づくと、少し赤らめた顔で手をヒラヒラと振ってくる。
忍者として腕はあるのだが、夕方から一人でベロンベロンになっているように、人間的に優秀かというとそうでもない。
「紅葉姉さんもうできあがってるんですか?」
「おっす香月ぃ。お酌してぇ」
「紅葉あんた、今日からお客様来ているってのにいいかげんにしておきなさいよ」
「お客様って母さん…ああ、この子が話題のイギリスから来た桜ちゃぁん?こっちであたしと飲もー」
「飲もー、じゃないんだよ姉貴。天王寺さんはまだ未成年だぞ。あ、天王寺さん、これ、姉の紅葉。酔っ払い」
俺の雑な紹介に、姉貴は左手に持っていたグラスを掲げる。元々良くないであろう隠岐家のイメージを、この酔っ払いが更に悪くしているのは間違いない。
お嬢様育ちの天王寺さんもこういう生き物は初めて見たのだろう。苦笑いしながら、なにやら不思議そうな生き物を見るような視線を向けていた。
「桜ちゃぁん、あたし紅葉ぃ。よろしくねぇ」
「あはは…初めまして、天王寺桜と申します、17歳です、今日からよろしくお願いします!」
「イギリスって15歳からお酒飲んでいいんでしょぉ…?17歳ってことはお酒飲んでもいいんだぁ。一緒に飲もうよぉ」
「あ、紅葉お姉さん、イギリスはお酒飲めるの18歳からなんですよ…」
「へぇ、またひとつ賢くなったなぁ。ということは桜ちゃんもうお酒飲めるんだぁ」
「おい姉貴、今話聞いてたか?脳みそビールの樽に漬けてバグってんのか?天王寺さん17歳って言ってたぞ」
「これは失敬ぃ~。ほらほら、こっちで飲もうよぅ」
俺の話を真面目に聞こうとせず、酔っ払いは天王寺さんを手招きすると、右手側に香月、左手側に天王寺さんを座らせて早速お酌をさせていた。芸者遊びみたいな飲み方するんじゃないよ。
母親はその光景を見て溜め息をつき、蔵之介はもう見慣れた光景だから苦笑い。ちょうどリビングにやってきた父親は怒るどころか、食器棚からグラスを取り出して、自分も飲もうとしていた。
天王寺さんはというとそんな父親に優しく微笑みながらビールを注いでいく。その気遣いが嬉しかったのか、父親は「できた娘さんだなぁ、朧、見習えよ」と香月に話を振ったが、目が逆三角形になっていた香月は父親を一睨みし、箸を取って目の前のサラダを小皿に取り分けていく。
「…あ、隠岐さん、一つ伺ってもいいですか?」
「なんだい桜ちゃん。私のことはお父さんでいい」
何がお父さんでいいよだハゲ。天王寺さん、ハゲでいいよ、ハゲで。少し恥ずかしそうな表情を浮かべた天王寺さんは、少し右手を挙げ、おずおずと「じゃ、じゃあ葉一お父さん?"朧"ってどなたのことなのでしょうか…?」と尋ねる。
「ああ、言い忘れていた。朧はそこにいる朧だ」
「答えになってねえよ親父。あ、天王寺さん、朧っていうのは香月の忍者としての名前ね。龍宮香月の龍と月をとって、朧」
「あぁ、なるほど!香月ちゃんが朧さんなんですね!」
頭の中で朧という漢字を想像したのだろう、天王寺さんは納得した表情を見せる。ずっとイギリスなどで海外暮らしだったのに朧なんて難しい漢字がすぐに想像できるあたり、彼女は相当勉強ができるのかもしれないな。
朧さんなんて普段呼ばれないからか、少し気恥しそうにした香月が小皿に取り分けたサラダを姉の頭越しに天王寺さんに渡す。
そんな気遣いする姿はあまり見ない光景だと思いながら眺めていたら、キッと睨まれてしまった。顔にシワ増えるよ朧さん。
「あ、香月ちゃんありがとうございます!香月ちゃんが朧さん…。他の皆さんにも忍者としてのお名前があるのでしょうか?」
「俺は、才木蔵之介って名前から、さいそうって呼はれてる」
「さいそうさん!かっこいいお名前です!」
蔵之介が白飯を掻き込んで口に入れながら、なんとか美少女の質問に答え右手でサムズアップした。お前サムズアップする前に、口の中にモノ入れてしゃべるなよ。
「葉太郎くんはなんというお名前なんですか?」
「落ち葉」
「朧さんウソ教えない。眉間のシワ取れなくなるよ」
「うっさいヨウ、あんたの飲んでるお茶に私がこの前調合した薬混ぜるよ」
朧さんがなんだか物騒なことを言ってきた。この女は本当に入れそうだから怖いんだよな。
ウソを教えられたままだと天王寺さんもかわいそうだから正しい名前を教えようとするが、どっこい、自分から名前を言うのはなかなか恥ずかしいものがある。
「桜ちゃぁん、うちのバカな弟はね、隠岐葉太郎って名前からとってぇ、落ち葉って呼ばれてるのよぅ」
「へぇぇ、それで落ち葉さんですか」
「天王寺さん、この酔っ払いの言うことは無視していいからね。…隠岐葉太郎から葉隠って呼ばれてる」
「自分で名前言うとか、ダサいよ落ち葉」
「なかなか言いますね朧さん、さぁて今から道場で体を使って話し合いますか?」
「望むところ。ヨウ、今すぐ道場行くよ」
そうして香月と口ゲンカになりかけたところで、リビングに"パァン!"という小気味の良い音がなる。
音の鳴ったほうに目をやると、テーブルの一番キッチン側に座っていた母さんが両手を合わせ、笑みを浮かべながらこちらを見ていた。しかし目が一切笑っていない。
「2人とも、今日から桜ちゃんが来ているのはもちろんよーく…、分かってるわよね?」
圧の強い口調で、圧の強い視線を送られた俺と香月はすぐに押し黙る。蔵之介も天王寺さんもこの光景を苦笑いしながら眺めるしかなかった。
そんなやり取りを肴に飲んでいた酔っ払いは、夜ごはんの最中もずっと飲んでいた。香月に瓶ビールの補充を頼み、香月は嫌そうにしながらも姉貴の頼みは断れないため、冷蔵庫から新しいビールの瓶を持ってくる。
そのうちご機嫌になったのか、酔っ払いは歌まで歌い始めて、何かツボに入ったのか隣の天王寺さんはずっと笑っていた。
「…ねえ天王寺さん、ごめんねこんなしょうもない姉貴で」
「しょうもないってなんですかぁ、しょうもない…、そう、しょうもないんだよぉ私はぁぁぁ」
今度は突然泣き始めるんだから、酔っ払いの感情の起伏は激しい。心配したのか天王寺さんが隣りの席から姉貴の背中をさすっていた。本当にこの子は優しいな。こんな酔っ払い、放っておいていいのに。
「ぐすん…。桜ちゃんは本当にいい子だねぇ…。桜ちゃんだけよ、こんなに私をなぐさめてくれるのは…」
「いいえ紅葉お姉さん、今日からこの家にお世話になるんですから、このくらいはさせてください?」
フフっと優しく微笑む天王寺さんがまるで天使に見える。いや、この子本当に天使なんだと思う。
「桜、紅葉姉さんは酔っ払うと面倒だから、ある程度のライン越えたら放置していていいよ」
「え、でも香月ちゃん、紅葉お姉さんも大変そうだし…」
「そーなのぉ!大変なのぉ!ねぇ桜ちゃん、聞いてくれるぅ…?」
「はい!紅葉お姉さんのお話、聞きますよ!」
笑顔でそう答えた天王寺さんと、俺と蔵之介、香月の「「あ…!」」という声が被った。天王寺さんは優し過ぎる。それゆえに踏み込み過ぎた。
「ほんっっとにいい子ねぇ…!それでは聞いてください、心を込めて歌います、隠岐紅葉で"大失恋"」
そう言うと姉貴は立ち上がり、本当に存在するのか分からない歌を歌い始めた。大都会みたいな雰囲気で言うな、お前はクリスタルキングか。
酔っ払うとこの女は止まらなくなる。スイッチを踏んだことを自覚したのか、天王寺さんの顔が引きつっていた。
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