序章三 右目と左目

 骨で作られた巨大な龍。それがカグヤが怪物に抱いた第一印象だった。


 昔話に出てくる細長い龍に近い。今自分たちの乗っているミドリさんを三十匹繋げても足りないほど長く、高さは十階建てのビルほどもあった。

 尻尾の部分が空中から海に垂れており、これを海面に叩きつけて先の大波を起こしたのだと推察できる。


 その骸の龍の頭部分に、赤鬼の仮面と黒いドレスを身につけた銀髪の女が横向きに座っていた。


『——きゃは。境域を出たな? 役目を放棄するつもりか、忌まわしき魔女め!』


 怨嗟と笑みで歪んだ女の声が、テレパシーのように直接脳を劈く。経験したことのない痛みがカグヤの頭に走った。


「なんっ、だこの声!?」


『許されぬ許されぬ許されぬ! キサマに自由たる資格なし! きゃははっ! 契約を破り禁忌を犯すなら、その血で贖え簒奪者がァ……!!』


 怒りながら笑う鬼面の女は、魔女という呼称からどうやら少女を狙っているらしい。

 龍の尾が再び振り上げられる。カグヤは咄嗟に少女の前に出て抱え、背で波を耐えた。

 大質量の水は降りかかるだけで重く、その身体を叩く。気力で踏ん張らなければ流されていただろう。


「ぐ、うううっ」


「カグヤくん! ……守ってくれようとしていますか? ありがとうございます、でもわたしは大丈夫ですから!」


「んなこと言ったって!」


「わたしでも初めて見るマナ量の赤魔せきまです。彼女が何を言っているのかわかりませんが、とっても危険ですのでわたしがなんとかします。サファ、力を貸して!」


「ピィッ!」


 少女はカグヤの腕をくぐり抜けて前に躍り出る。彼女は——なんと水の上に立ち、龍に向かって手を翳した。

 「おい待て」危ないだろ、とカグヤが言い切る前に、彼女の唇に聞きなれない言葉が紡がれる。


「この血に満ちよ——以下省略!【激流よ】ギメル・ルクシア!」


 リン、と銀鈴が揺れた。

 少女の周囲の海水が捩れ、五本の鋭い槍となって螺旋状に発射されていく。胴と尾に一本ずつ命中するも、鬼面の女を狙った三発は女の放った荊のようなもので弾かれ霧散する。


 カグヤにはどれも突然のことすぎて、何が起きているのか理解できなかった。


『魔女め、穢れの水で我が龍の玉体に傷をつけるなァ!』


「お帰りください!! ——【激流よ】ギメル・ルクシア!」


『きゃは。息吹で干上がらせてくれる!』


 再び現れた五本槍を、少女は一本の槍に束ね、投擲する。

 対して女は龍を操り、ブレス——口から炎を吐き出して対抗した。

 両者の攻撃は相殺に終わったが、どちらもまた息すら上がっていなかった。


「どうなってんだ……」


 水の上を走り、なるべくカグヤを龍の射線上から庇いつつ、龍へ接近していく少女。それに向かって、鬼面の女は両手を荊の鞭に変えて迎え撃つ。


 カグヤの目の前で突如、凄まじい魔法合戦が始まってしまった。こうなるともう、一般人は邪魔にならないよう下がって見ているしかできない。

 なるべくミドリさんから落ちないよう体勢を低くした。歯がゆいが、カグヤはここで考えなしに二人の間に割って入るような愚か者でもない。

 実際、肺腑を抉り出さんとする恐怖がしっかりとカグヤの両足を震わせていた。


「情けねえ、俺。でも多分喧嘩とは訳が違うもんな……って、あれは」


 魔法同士が激しい音を立ててぶつかり合う。弾き返されてこちらまで戻ってきた少女。

 しかし揺れる波の下、具体的には彼女の背後の水面に黒い影が見える。


 あれは、まずい。


 彼女は前方に完全に意識が向いている。声をかける暇さえ無い。そう直感した。

 ——先ほどの言葉を訂正しよう。カグヤは間違いなく愚か者である。

 昔から、怖くて怖くてしかたなくても、目の前の人に危機が迫れば、本気で身体が動いてしまう質なのだ。


「動け足……ッ!」


 声で震える身体を発起させ、全速力で影と少女の間に身体を投げ込む。

 刹那、ぞぶりと脇腹を荊のようなものが貫いた。


「う、ぐ、あああああああ!!!」


「カグヤくん!?」


『……アナタ』


 肉を容赦なく貫通する耐え難い激痛。

 絶叫。視界が赤と白に明滅した。

 水上に投げ出された身体は、重力で沈むことなく空中で荊に貫かれて固定される。


 背後から少女の悲痛な声。前方の影から飛び出してきた鬼面の女の声……先ほどの影はやはりこの女の魔法の前兆だったらしい。移動か分身でもしたのだろうか。

 痛みで悶えるしかないこの状況では、もう背後を確認することも叶わない。


「庇ったんですか!? そんな、わたしの不注意で」


「俺こそ、もっと早く、気づけてれば……げほっ」


 血がごぼ、とカグヤ口から溢れ出す。

 目の前の鬼面の女は絶句した様子でじっと彼を眺め、『ああ嘘、』口元を歪めたかと思えば——突如、哄笑した。


『きゃははははははははは!!!!』


「!?」


『信じられない、こんな奇跡があるなんて! ああアナタなのね!? こんな場所にいるなんて……気づけなくてごめんなさい。見つけてあげられなくてごめんなさい。アナタのあたたかい臓腑まで味わってしまってごめんなさいね? でも許してくれるわよね? きゃはは。ワタクシ、肝心のアナタをずっとずう〜っと探してたのよ……』


「げほ、誰だよ、おまえ、……っ」


 鬼面の女は先ほどとは打って変わって上機嫌で言葉をまくし立てる。

 カグヤの記憶の中にこんな意味不明な喋り方をするイかれた知り合いはいない。誰と勘違いしているのか。人の腹を貫いておいて平然と愛の言葉を並べられる気味の悪さに気が遠くなりそうだった。

 ともあれ、女の興味は完全にカグヤに向いたと見ていいだろう。


『忘れてしまったの? なんてつれない人。でも大丈夫、ワタクシは慈悲深いの。許してあげる。やっとまたワタクシと夢を見られるわね! あの汚らしい女はもう放っておきましょう。離さないわアナタ。もうワタクシをおいていかないで。アナタのための庭へ二人で帰りましょう』


「ぎ、あ、あ、」


 腹の中で蠢く荊。それは身体を貫いて生き物のように手足に巻きつき始める。身体の自由を奪われたカグヤは既に痛みと失血で意識が飛びそうだった。


「カグヤくん!」


『寄るな羽虫!』


「きゃあっ!」


 鬼面の女の右腕が荊へ変わり、それをしならせて少女を遠くへ弾き飛ばした。


『さあ、この再会を喜びましょう? よくよく顔を見せて、愛しい人』


 呪詛のような愛の言葉でカグヤの脳内をかき回しながら、鬼面の女はヒヤリとした手をカグヤの頬に添える。

 遠くまで吹き飛ばされた少女は、龍に足止めされながら何事かこちらへ叫んでいるが、カグヤには反応する力も、反抗する力すら出せない。血が足りないのだ。

 せめて、とカグヤは目の前の相手を睨む。


「ぐ、ううっ」


『この血と痛みを味わってさえ、反抗的で燃えるようなその瞳。なんて愛しいの。そして憎いわ。これを奪えば……ワタクシ以外を見ないでくれる?』


 ねっとりと左目を舐られる。気持ち悪い。そして嫌悪感はすぐに嫌な予感に変わる。


 ——


 出血も痛みもないが、何かが抜け落ちた感覚がする。

 目の前の女はその答えを——つまり赤い瞳の眼球を舌に乗せて嗤い。

 見せつけるようにゆっくりと嚥下した。


「!?!?」


『ああ、甘美だわ……』


 喉から声のない悲鳴が飛び出す。

 怖い。理解できない。意味がわからない。

 なんだ、なんなんだこの女は!!

 目前の化け物がもたらす理不尽にカグヤは心から恐怖した。生存本能が狂奔し、この女が常識外の存在だと判ってしまう。

 次は右目に舌が伸びて……。


『ワタクシ以外の光を見るなんて許さない。いっそその命ごと閉じ込め、』




「——【極流刃磔刑】ルクシアンレーシュ!!!!」




 リン、と鈴の音がした。


 背後が光ったと思えば、水でできた無数の刃が一秒も待たず鬼面の女を切り刻む。血飛沫や臓物が舞うことはなく、綿のないスカスカの人形のようにその身体はバラバラに分解された。

 女の鬼面が軽い音を立てて割れ——斜めに斬れてズレた、人形のように生気のない整った顔、鱗に縁取られた正気のない白の瞳と目が合う。


『また愛してね、アナタ』


 あっさりとした声と共に、恋する乙女のような笑顔で。

 女と龍、招かれざる怪物たちは煙のように消えた。




◆◆◆




「ごめんなさい! 龍の対処に時間がかかってしまいました!」


 カグヤを貫いていた荊も骸の龍も消滅したようで、海に投げ出される身体を全速力で走ってくる少女が受け止める。彼女はカグヤの重傷度合いを見て悲痛な声をもらした。

 薄れる意識の中、自分を横たえてくれた少女の綺麗なワンピースをだくだくと溢れる自分の血で汚してしまうことを申し訳なく思う。


「ご、め」


「だめです、喋らないで! ミドリさん、街まで全速力でお願い!」


 ぐんとスピードを上げた大亀の上で、彼女は腕を捲り穴の空いたカグヤの腹部に魔法をかけ始めた。ほのかに温かい。


「せめて止血と麻酔魔法だけでもっ、ああ、水魔法以外もしっかり勉強しておけば……」


「ピュイ!」


「ううん、わたしのマナくらいいくらでも注ぎ込む!」


「ピュイイ!」


「え? ……うそ、カグヤくん、右目が」


 右目?カグヤは疑問に思った。奪われたのは左目だったはずだ。

 じわりと麻酔と止血が効いてきて、カグヤはかろうじて動かせるようになった口で答える。


「どう、なってる? 俺の右目」


「ピュイ、ピュ」


「呪詛、のようです。中途半端にかけられていますが、それでも数分も経たないうちに命を失う強力な……」


 サファの鳴き声を翻訳するように、少女は悲痛な声を震わせる。

 確かに鬼面の女は右目にも何かを施そうとしていた。少女の魔法によって中断されたかに見えたが、それは希望的観測に過ぎないようだった。


「ごめんなさい、守りきれなくて」


「謝るなよ。げほ。お前が落ちてくる俺を受け止めてくれなきゃ、とっくに、死んでたんだぜ」


 そうたどたどしく伝えれば、くしゃり、と少女は涙で顔を歪め唇を引き結んだ。


「確かにカグヤくんが先程庇ってくれなければ、わたしも無事ではなかったはずです。ありがとうございます。でも!」


「……」


「決めました。カグヤくん、動かないで」


「え」


 もちろんカグヤは腕一本、指一本動かせないほどの重体なのだが、少女が言ったそれは、有無を言わせぬ響きを持っていた。


「ピュイ! ピュイ!」


「サファ、ごめんね止めないで。これは守れなかったわたしの責任だから」


「なんだ、どういう」


 少女は大きく息を吸い、困惑しているカグヤの頬に手を当てた。


「古き龍と精霊ルクシア、尊きマナの祝福よ、此処に賢者が——【その呪、もらい受ける】」


「!?」


 少女はカグヤの右目に、やさしく口付けを落とした。何かが彼女へと流れていく感覚がして、カグヤは目を見開く。


 口を離した少女の右目は、青色を失い白く濁って変質していた。

 呪詛が少女へ流れたのだと、カグヤは理解してしまう。


「そんな、なんで」


「お互い様です。あなたはわたしの代わりに大怪我をして、左目まで失った。だからわたしはあなたの右目の呪詛を肩代わりしたんです」


「それは俺が勝手にしたことで、お前のせいじゃ……ぐっ!」


「動かないでください! 最低限の止血はできても血は失われたままなんですから」


 励ますようにカグヤの手を握って微笑む少女。とっさの行動だったとはいえ、彼女を守りたかったはずなのに、どうしてそんな悲痛な表情にさせてしまったのか。強い悲しみでカグヤの心は軋んだ。


「俺は、俺こそ、お前を守れなかった」


「あなたは本当に、勇敢な人です。それが例え塔の魔女わたしを知らないからだとしても。咄嗟に身体が動いただけだとしても。——目の前の人に、施さずにはいられない。優しい人です」


「お、俺はそんな大層なこと考えてない。いつだって本気なだけだ。それが唯一の取り柄だから。それだけなんだ」


 彼女はカグヤの言葉に目を瞬かせ、自らの胸に手を当てて気丈に微笑む。


「わたしは問題ありません。普通の人よりちょっと強いので、これくらいでは死にません。わたしもただ——苦しむあなたのために、施さずにはいられなかっただけ、なんですから」


「そん……。……?」


 ここでついに、カグヤの視界が暗く、瞼が重くなってくる。身体は限界をとうに超えていた。


「もうすぐ目的地です。わたしは街までは行けませんけど、大丈夫! きっとあなたは助かります」


 ここで意識を手放せば次目覚めた時、そこに彼女はもう居ないだろう。


 これで終わり。

 これが別れ。

 このままの彼女を置いて?

 本当に?


(そんな、嫌だ。待ってくれ!)


 叫び出したくてもそれは掠れた吐息になって叶わない。その様子を察したのか、少女は儚げに笑う。




「最後にひとつだけ。わたしの名前はマリーン。またきっと会えるといいですね——勇敢なあなた」




 なんて綺麗に笑うんだ。そう思いながら。

 カグヤの視界は暗転した。




◆◆◆




 これは、後の龍神大戦において英雄と語られる—— 運命に抗い続けた二人の物語である。


 はじまり、はじまり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る