第16話 送別の贈り物、新たな旅
夜明け前の屋敷は、まだ灰色の靄に包まれていた。しかしレインはすでに目覚めており、胸の高鳴りが彼の眠りを妨げていた。
昨夜の荷造りで気づいたのは、意外なほど必要な荷物が少ないということだった。
魔法の勉強用の本を除けば、特に必須なものはない。ただ、一振りの使い慣れた武器だけは欠かせないものだった。
(父上の地下室には魔法武器がたくさんあるし、一つくらいなら...)
レインはそう考えながら、丁寧に服を整えた。
扉を開けた瞬間、サラの丁重な声が聞こえてきた。
「おはようございます、レイン様」
「ああ...おはよう、サラ」
廊下ですでに忙しそうに動き回る使用人たちを見て、レインは思わずため息をつく。
「みんな、早いんだね...」
「私どもの務めでございます」
サラは軽く会釈をして、「失礼いたします」と言い残して去っていった。
「そうか...」
食堂では、チャールズがすでにテーブルについており、片手に手紙を、もう片手に優雅に紅茶を持っていた。
カロリンは女中たちと楽しげに話をしており、上機嫌そうだった。
「おはよう...」
チャールズは顔も上げず、目は手紙から離れることなく挨拶を返した。
夫の素っ気ない態度とは対照的に、カロリンはレインを見るなり、目を輝かせた。彼女は息子の元へ駆け寄り、両腕で強く抱きしめた。
「レイン、今日も早起きね!」
「今日は、みんな早いみたいだね...」
レインは母親の温かな腕の中で、苦笑いを浮かべた。
朝日がついに雲を突き抜け、大きな窗から食堂に差し込み、この温かな光景を金色に染め上げた。
いつもの朝が、別れを前にして、一層愛おしく感じられた。
「だってレインが旅立つ日だもの」
カロリンは眉を寄せ、寂しさと誇らしさの入り混じった声で続けた。
「ママは寂しいけど...レインの決意を誇りに思うわ...」
彼女は優しくレインの髪を撫でた。
「二人とも、お互いのことをちゃんと気にかけてあげてね。そうでないと心配で仕方ないわ」
「ご心配なく、母上」
レインは力強く答えた。
「僕が自分とリリアの面倒を見ます。リリアだって自分のことはちゃんとできますから」
「そう言ってくれると安心するわ...」
カロリンの目が輝いた。
「そうそう!ママがたくさん準備したものがあるのよ!」
レインは母親が指さす方向を見て、思わず固まってしまった。
衣服や薬水、書物、素材など、まるで小山のような荷物が食堂の一角を占めていた。
「これは...多すぎませんか? 持ち運びが大変になりそうです...」
「何が大変なのよ?」
カロリンは軽く笑うと、スカートのポケットから深紅の指輪を取り出した。
彼女の仕草に合わせ、山積みの荷物が幻のように消え、瞬く間に指輪に吸い込まれていった。
「はい、この空間指輪をレインにあげるよ」
息子に指輪を渡しながら。
「中の空間はあなたの部屋くらいの広さがあるの。ママがマルス王国の金貨3枚も出して買ったのよ」
(金貨3枚!?15万リラにもなる...)
レインは心の中で驚きを隠せなかった。
領主の家に生まれ、シルフィードという名門の姓を持っていても、金貨で値段の付く品物を見ることは稀だった。
普段使うのは専らリラや銅貨ばかり。これもチャールズの家庭教育の賜物だった——他の貴族と比べ、シルフィード家の生活は質素なものだったのだ。
レインは手の中で深紅の輝きを放つ指輪を見つめ、その中に宿る魔力の波動を感じ取った。
レインは手の中の指輪を見つめながら、この世界の通貨体系を頭の中で整理していた。
アンデルソンでは、金貨4、5枚あれば街の住宅街に小さな家を買うことができる。
マルスの金属通貨制度では、金貨1枚は銀貨100枚に、銀貨1枚は銅貨50枚に換算され、銅貨1枚はおよそ10リラの価値がある。
金貨と銀貨は各国が独自に発行する金属通貨だが、リラは異なる。
リラはマルス、オースティン、フレッド三国が共同で発行する紙幣で、市場で最も広く流通している通貨だった。
それでも、金属通貨とリラは比較的独立した二つの制度であり、両者の為替レートは政情によって変動する。
例えば、最近のオースティン王国の内戦は、明らかな影響を及ぼしていた。
カロリンはレインの手のひらに優しく指輪を押し込むと、付け加えた。
「それと、ママは金貨5枚と銀貨500枚も用意したわ」
彼女は息子の頬を優しく撫で、目には深い愛情が満ちていた。
「旅先でお金がないのは大変よ。ちゃんと食べて、ちゃんと休んでね」
レインの鼓動が一瞬止まった。これほどの大金に触れるのは人生で初めてだった。かつて感じたことのない緊張が胸に広がる。
(こんなにたくさんのお金を持ち歩くのは、確かに不安だな...)
彼は掌の中の価値の計り知れない指輪を見つめ、母の温かい手のぬくもりを感じながら、様々な思いが胸を巡った。
「コホン...」
チャールズの咳払いが、温かな空気を切った。
レインとカロリンが同時に振り返ると、チャールズは手紙とティーカップを置き、ゆっくりとレインの方へ歩み寄っていた。
彼は背後から銀色の長剑を取り出した。刀身は透き通るように美しく、朝の光を柔らかく反射していた。
(地下室の中央にあった剣じゃないか...父上がこれをくれるの?)
レインは驚きの目で美しい剣を見つめた。
息子の驚いた表情に気づき、チャールズは軽く笑った。
「これは模造品にすぎないよ」
「そうですか...」
レインの表情が一瞬で曇り、水を掛けられたように肩を落とした。
チャールズは剣をレインに手渡すと、力強く彼の肩を叩いた。
「いつかお前はあの剣を手にする。だが、今はまだその時ではない。自分がその剣に相応しいと証明しなければならない」
「そうだ、あの剣の名前をまだ教えていなかったな。あの剣の名は『天使の涙』という」
「そしてこの剣は、歴代の模造品の中でも最高級のものだ」
「天使の涙...」
レインは静かに頷いた。少し落胆したものの、父の意図は理解できた。
...
「さあ、朝食の用意ができているわ」
カロリンが二人を呼んだ。
「次にこうして家族揃って朝食を取れる日がいつになるか分からない。だから、この朝食を大切にしましょう」
チャールズは黙って頷き、レインも「うん...」と小さく返事をした。
朝の光が差し込む食堂で、家族三人が長テーブルを囲んでいた。
テーブルには丁寧に作られたパンや目玉焼き、ベーコン、香り高い紅茶が並び、メイドたちが静かに控えていた。
カロリンは心を込めてレインのパンを切り分け、チャールズも珍しく公務から目を離し、朝食に集中していた。
時折、妻と息子を見やる彼の目は柔らかな光を湛えていた。
レインは一口ずつ食事を味わい、この瞬間の味を心に刻もうとしていた。
特製ジャムを塗った温かいパン、半熟の黄身がとろける目玉焼き、外はカリッと中はジューシーに焼き上げられたベーコン...
会話は多くなかったが、温かな空気が漂っていた。
カロリンは時折レインの皿に食べ物を取り分けては、旅先でもちゃんと食事をするように言い聞かせ、チャールズも時々旅の注意点を話していた。
陽光が次第に強くなり、ステンドグラスを通して食卓を照らしていた。
いつも大人びた態度を取っているレインでさえ、この時ばかりは感傷的になっていた。
この温かな家族の朝食が、これから長い間、大切な思い出になることを、彼は知っていた。
朝の微風が吹く中、シルフィード邸の前には質素な馬車が停まっていた。褐色の馬が時折尾を振り、御者は最後の点検に余念がなかった。
この簡素な旅立ちの様子は、シルフィード家の地位とは対照的だったが、それこそがこの家族らしい在り方でもあった。
レインは玄関の階段に立ち、背後には荘厳な邸宅、目の前には出発を待つ馬車があった。
母から贈られた貯蔵指輪のおかげで、身軽な旅立ちが可能となった。
指輪は彼の指で微かな赤い光を放ち、まるで母の言付けを思い出させるかのようだった。
カロリンは息子の後ろ姿を見つめ、涙を堪えながら微笑んでいた。
「ちゃんと自分の事を大切にするのよ。
リリヤに会ったら、お兄ちゃんとしての責任も忘れずにね」
チャールズは妻の傍らに立ち、厳格ながらも優しい表情で言った。
「気を付けて行くんだ。何事も慎重に考えて、軽はずみな行動は慎むように」
後ろに控えていたサラたち侍女たちも、目を潤ませながら「お気を付けて、レイン様」と声をかけた。
レインは家族の方に向き直り、深々と一礼した。
「父上、母上、そして皆様.....」
顔を上げた時、母の名残惜しそうな眼差し、父の期待に満ちた表情、そしてサラたちの心配そうな眼差しが目に入った。
この瞬間、彼は気付いた。自分が去り行くのは、この邸宅だけではなく、十数年もの間、自分を守り育ててくれた安らぎの港なのだと。
御者が時機を見計らったように告げた。
「レイン様、そろそろ出発の時間でございます」
レインは頷き、馬車に乗り込んだ。馬車がゆっくりと動き出し、砂利道が軽い音を立てた。
彼は窓越しに、徐々に遠ざかっていく邸宅と、まだ手を振り続ける家族の姿を、見えなくなるまで見つめ続けた。
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