第6話 なのに、なぜこんなに悲しい?

 その後の数日間は、穏やかな日常が続いた。


 まるで何も起きていないかのように。

 この平穏な時間が永遠えいえんに続くかのように。


 朝焼けがほんのり差し込み、レインはいつものように優しい朝の光に目を覚ました。


 いつも通りの手順で身支度を整え、階段を降り、いつものように食堂のドアを開けた。


 けれど、食卓を目にした瞬間、彼の動きが止まった。


 テーブルの上の朝食は、いつもの二人分ではなく、一人分だけ。


 リリアが大好きな青い花模様のカップはそこになく、彼女がいつも座っていた場所には、ただ静けさだけが残されていた。


「サラ、リリアはまだ起きてないの?」

 レインは食器を並べているメイドに声をかけた。


 サラの表情が、一瞬だけ曇った。


「レイン様...リリア様は今朝、随分早くに起きられまして。チャールズ様と少しお話をされた後、出発されました...」


「ご両親様がお見送りをされましたわ。リリア様は、とても幸せそうな笑顔で旅立たれましたから、どうかご心配なさらないで...」


 そう言いながら、サラはエプロンのポケットから一通の手紙を取り出した。


「リリア様からお預かりしました」


 あまりにも突然の別れだった。


 昨夜まではレインの部屋に居座って、無理やり物語を聞かせろと駄々をこねていたのに。


 今朝は、一言の別れも告げずに...

 一瞬の茫然から、すぐに寂しさと孤独が押し寄せてきた。


 レインは差し出された手紙を受け取った。

 その指先は、かすかに震えていた。


『バカお兄ちゃんへ


 私、行っちゃうね。


 えーっと、ずっとレインって呼び捨てにしてたけど、今回は特別だから、しょうがなく「お兄ちゃん」って呼んであげる。


 怒ってるでしょ?どうして見送りさせてくれなかったのかって。


 でも、ダメだったの。


 お兄ちゃんの優しい笑顔を見たら、「気を付けて行っておいで」って声を聞いたら、私、きっと大泣きしちゃって、行けなくなっちゃうから。


 だから、このわがまま...許してくれる?


 そうそう、覚えてる?


 おばあちゃんにもらったハンカチをなくした時、部屋で一人で泣いてたの、私、見てたんだからね!


 それでね、内緒でミランダ先生に刺繍ししゅうを習って、サプライズでハンカチを作ったの。


 下手くそすぎて恥ずかしくて渡せなかったの。えへへ。


 でも、もう渡すチャンスがなくなっちゃうから...私の部屋の化粧台の上の小箱に入れておいたから。


 絶対になくさないでよ!なくしたら、魔法で思いっきり懲らしめちゃうからね!』


 その辺りから、整っていた文字が少しずつ歪み始めていた。インクの跡には、涙の染みが点々と残されている。


『私たちって、十三年間一度も離れたことなかったね。


 死に別れるわけじゃないって分かってる。

 でも、長い間会えないと思うと...


 ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ寂しいの!


 あ、そうだ。

 一年以内に会いに来るって約束したでしょ?指切りげんまんしたんだからね!


 それに...なんで一年なんかにしたのよ。

 まぁ、確かに道のりは遠いし、色々あるかもしれないから...しょうがなく一年のゆうよをあげる。


 絶対に忘れちゃダメ!!


 それから...本当はまだまだ伝えたいことがあるの。


 でも、書こうとすると、涙が勝手に落ちてきちゃって...


 手紙が濡れちゃったら、また「泣き虫」って笑われそうだから...ここまでにするね。』


 手紙の本文はそこで終わっていた。

 文字は歪んでいて、もう書き続ける力が残っていなかったかのようだ。


 最後に残されていたのは、『リリア・シルフィード』という署名だけ。


 その上には、既に乾ききった涙の跡が、いくつも残されていた。


 手紙を丁寧に折り、上着のポケットに納める。

 その瞬間、食堂の静けさが、突如として耐え難いものとなった。


「んー...おいしい...」を言ったり、「ねぇねぇ、昨日の本でね...!」と目を輝かせながら昨夜読んだ物語を話したりする妹の声が響いているはずだった。


 今は、ただ食器の触れ合う音だけが、がらんとした食堂に虚しく響いている。


 フライドエッグをナイフで機械的に切り分けながら、まったく食欲がないことを、レインは気付いた。


 窓から差し込む朝日が、リリアがいつも座っていた席を優しく照らしている。


 そこには、誰もいない。ただ光だけが、空っぽの椅子を温めていた。


「レイン様、お食事が冷めてしまいますよ」


 サラの静かな声に、レインは我に返った。


「あ...ああ」


 無理に数口口に運ぶ。でも、どんな味がするのかも分からない。


 昨夜まで、『リリア、一人で寂しくないかな』そんなことばかり考えていたのに。

 今、先に寂しさを味わっているのは、自分の方だった。


 食堂に響く時計の音が、その一つ一つが、レインの心を刻むように鳴り響く。


 誰かがそばにいることに慣れてしまうと、その存在が突然消えた時、こんなにも辛いのだと。


 不意に、前世の妹の面影が脳裏をよぎった。


 レインは首を振り、自嘲するように微笑んで。


「本当に、僕はだめな兄だな」


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