第4話 メル・レイヴ.....誰?

 その声には、深い敬意と、かすかな動揺どうようが混ざっていた。


 その場に居合わせた者たちは、もはや驚きをどう表現すればいいのかも分からないほどだった。


 司教に「先生」と呼ばれる存在――それは少なくとも大司教以上の位にある者。


 老人が一歩、また一歩と歩みを進める。

 その一歩一歩が、まるで皆の鼓動こどう共鳴きょうめいするかのように響いていた。


 枯れた指先が一振りされ、騒がしかった聖堂は一瞬にして死のような静寂しじまに包まれた。


 貴族たちでさえ、凍てついたせみのように口を閉ざし、息をする音さえ恐れているかのようだった。


 レインは、リリアの姿が震えるのを感じた。

 妹を守りたい――その想いは強く、しかし足は地面に根を生やしたかのように動かない。


 老人の視線がリリアへと向けられる。

 底知れぬ瞳に、捉えどころのない光が宿った。


「今日の儀式は、ここまでだ」


 予想に反して穏やかな声音。しかしその言葉には、絶対的な威厳が込められていた。


 誰一人として異を唱える者はない。

 顔を上げて老人を直視する勇気すら持てない。


 先ほどまで熱く言い争っていた高位者たちも、今は恭しく頭を垂れ、脇に控えていた。


 聖堂内の空気が重く澱み、息苦しいほどの緊張が漂う。


 全員が老人の次の言葉を待ちわびながら、同時にその言葉を恐れていた。


 矛盾した感情が、この場を支配している。


 老人がリリアの前に立つ。

 その存在感の前では、彼女の小さな姿がより一層弱く見えた。


 しかし、驚くべきことに、リリアの澄んだ瞳は真っ直ぐに老人の目を見つめていた。


 裾を密かに捩じる指先と、胸の中で暴れる鼓動が、彼女の緊張を物語っているというのに。


「お前の名は?」

 老人の声から、先ほどまでの威圧感が消え、優しい温もりが滲んでいた。


「リリア・シルフィードです」

 細いながらも、清らかな水のように透明な声が返った。


 老人の皺だらけの顔に、稀少な笑みが浮かぶ。


「自己紹介させてもらおう。私の名は、メル・レイヴン」


「あの方が...あの方が...」

 ヴィクトル教授の震える唇が何度か開いては閉じる。


 それとは対照的に、クロード騎士は驚くほど冷静な様子で、まるでこの状況に慣れてきた。


「一百年前...勇者と共に歩んだ、大魔導士その人」


 その場でソフィア司教だけは、厳かに跪いた姿勢を保ち続けていた。

 表情には何も浮かばず、ただその瞳の中に畏敬の光だけが揺らめいていた。


 異世界に転生した自分の「妹」が主人公だなんて――。

 レインはただそう感慨するしかなかった。

 それ以上の何かを考える余裕すらない状況だった。


 メルの優しい眼差しがリリアに注がれ、二人の間に目に見えない魔力の波動が流れる。


 リリアの表情が変化していく――最初は驚きに目を見開き、瞳が喜びに輝いて、自然と微笑みがこぼれる。


 だがその喜びは、溶ける雪のようにすぐさま消え去り、隠しきれない寂しさがその代わりに浮かぶ。


「ソフィア、今日の儀式はここまでにしよう」

 メルが静かに告げる。


 ソフィア司教は即座そくざに意を汲み取り、跪いた姿勢から立ち上がると、長衣の皺を正した。


「かしこまりました。本日の魔力適性検査はこれにて終了とさせていただきます。皆様は各学院の基準に従い、選考させていただきます」


「よく聞け」


 メルの視線が、その場の全員を見渡す、小さな声ながら、絶対的な威厳を帯びたその言葉が響く。


「今日この場で起きたことは、一切外に漏らしてはならん」


 誰もその命令に逆らえなかった。

 ヴィクトル教授たちは一斉に頷き、貴族たちも寒気に震えるように黙り込んでいた。


 メルは最後にリリアへと視線を向けたが、何も語らない。

 そして彼の姿は、朝霧が晴れるように、徐々に透明になっていき、やがて消えていった。


 メルの姿が消えると共に、あの息苦しいまでの重圧も消え去った。

 その時になってようやく、皆は自分の衣服が冷や汗で濡れていることに気付く。


 大聖堂の空気は未だ重いままだったが、それでも小さな話し声が、少しずつ漏れ始めていた。


「大丈夫?」


 レインはリリアの傍へと歩み寄り、その手を優しく握った。

 妹の手が冷たく震えているのが分かる。


 一瞬の戸惑いの後、リリアは突然レインの首に腕を回し、その胸に顔を埋めた。


 言葉にしたい想いが溢れているのに、どう表現していいのか分からないようだった。


 状況は飲み込めていなかったが、レインは本能的にリリアを抱き返した。

 妹の頭を優しく撫でながら、柔らかな声で囁く。


「何があってもリリアの傍にいるよ」


 リリアは黙ったまま、さらに強く兄を抱きしめた。


 ソフィア司教は速やかに普段の威厳ある姿に戻り、淀みなく後続の手続きを進め始めた。


 各学院からの代表者たちも、徐々に我に返り、名簿を整理し、入学の詳細について話し合い始めた。


 大聖堂の中は、少しずつ日常の秩序を取り戻しつつあった。

 しかしこの一日は、歴史に消えない一線を刻むことになる。


 レインの腕の中で、リリアは何かを深く考え込んでいる。

 誰にも知ることはできない。


「リリア、今日はあの伝説の大魔法師メル様に会ったそうだね?」


 チャールズ父が食器を置き、その目には隠しきれない誇りが煌めいていた。


「本当に信じられないことだ」


 教会は魔力覚醒の出来事を厳重に封鎖していたが、領主チャールズ·シルフィード にとって、そんな情報を入手するのは容易なことだった。


「そうよ、私たちの可愛いリリアが、百年に一人の天才だなんて」


 カロリン母の顔には、幸せに満ちた笑みが溢れていた。


 レインは妹を見つめていた。

 リリアは俯いたまま、フォークで皿の上の食べ物を、ただ漫然と突っついている。


「リリア?」


 母が娘の様子の違和感に気付き、心配そうに声をかけた。


「どうしたの?嬉しくないの?」


「大丈夫、ちょっと疲れただけ」


 リリアは顔を上げ、無理に笑みを作った。


 レインには、妹の目が赤く潤んでいるのが見てとれた。

 何かを必死に押し殺しているのは明らかだった。


 大聖堂でのあの時、メル大魔導士との言葉なき対話の後から、妹の表情が曇っていたことを、レインは覚えていた。


「リリア...」


 レインが声をかけようとした矢先。


「部屋に戻ります」


 突然リリアが立ち上がる。

 椅子が床を擦る不快な音を立てた。


「でもでも殆ど口をつけてないわよ」


 母は手つかずの皿を見つめた。


「本当にお腹すいてないの」


 リリアは足早に階段へと向かい、その背中には何とも言えない寂しさが漂っていた。


 カロリンは困惑の表情を浮かべ、娘の意外な反応に戸惑いを隠せなかった。


 一方、チャールズは何かを悟ったかのように、静かに溜息をついた。


 レインは階段の角を曲がって消えていく妹の後ろ姿を見つめていた。

 胸の奥に、何とも言えない不安が広がっていく。

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