第56話 九日目 八月七日 一二時〇〇分(――:――:――)
そこは心地良い場所だった。
床や壁には弾力があり、湿度は適度で、何より夏だというのに暑くなかった。どこからか差し込む光が内部を柔らかに照らしているので体をぶつけることもない。洞窟のような真っ暗でジメジメしている場所を想像していたが、ここはどこか懐かしさすら感じた。
ここは
「いたぞ」
おそらくアレが標的だろう。最深部の広い空間で下僕どもに傅かれながらそいつは安らかに横たわっていた。
オレが目配せをすると綾と誠也が頷く。
下僕を全て倒した。残るは討伐対象だけだ。
「よう」
オレが手をヒラヒラさせながら気軽に声をかけると、標的は耳をつんざく奇声を放った。
虐殺蜂・クイーン。この最終試験で
クイーンはとにかく長い、というのが第一印象だった。駅のホームの端に立って、反対の端を眺めているような感覚だ。一〇〇メートルは無いにしろ、五〇メートル以上はあった。
体色は真っ白で、頭胸部に比べ、腹部は数倍の長さがあった。逆に脚と羽は退化したのか短かい。異常に発達した腹部の末端からは今もポコポコと糸を引き卵が湧いて出ていたが、その世話をしていた虐殺蜂は一匹残らず倒してしまったので山となるばかりだ。
クイーンはなおも奇声を上げ続ける。
「呼んでも無駄だ。他の虐殺蜂は全て倒した」
この巣の外は自衛隊と警察が囲んでいるし、中はオレたち五人で
クイーンの奇声が止まる。声を上げるのを止めたクイーンの体がブルブルと震えだす。
「
「センパイくん?」
オレは痛みに膝をつく。鼻血が流れるが、他の四人はオレに驚くだけでダメージを受けている様子はない。クイーンからの攻撃ではなさそうだ。
『【レンの呪い】が発動しました』
【レンの呪い】――子どもや母親の涙や悲しみを感じると激しい頭痛と鼻血が出てしまう、オレ特有の症状。だが子どもも母親もいない状況で、なぜ発動した?
鼻血を押さえていると、クイーンが体を揺さぶり甲高い音で鳴く。
クイーンの鳴き声に、頭痛が酷くなった。
(ああ、そうか……お前も『母親』だったか……)
どうして私の子を殺したのか? 返せ、私の子供達を返せ――子を失った母が泣き叫ぶような悲しみをその鳴き声から感じた。
「ボクが、」
クイーンに弓を向ける綾をオレは制止する。
ここはオレがやるべきだろう。この五人のうちクイーンの子供らを最も殺害したのはオレなのだから。
鼻血を拭い走る。【黒のスマホ】から刀を抜き出し跳躍。クイーンの体を駆け登る。
巨体の割に短い脚がオレを傷つけようとするが遅い。脚と脚の間を駆け抜け、頭部まで到達する。
靴底の感触から、クイーンの外皮の強度はさほどではないことが分かる。小さな顎による噛みつきを躱すと、クイーンの頭を土台にして高く跳んだ。
オレを見上げるクイーンの複眼と視線が絡む。憤怒、悲哀、憎悪、殺意、それらが混じり合った激情が虫であるクイーンの表情から確かに感じられた。
(全く……この世界は本当にクソだ)
突然『試験』を行うと言われ、オレたちと虐殺蜂は殺し合うことを強要された。
戦う以外の選択肢はなかった。だが、わざわざオレが戦いの最前線に出る必要はなかった。
死にたくない。こんなこと他人に任せればいい。何度もそう思った。しかし同時に別の思いがオレを突き動かした。
(負けたくない)
子供の頃からずっと思っていた。この世界はクソだ。優しくない。誰も助けてくれない。大切なものを無慈悲に奪っていく。それでも負けたくない。屈したくない。この世界がどんなに不条理を押し付けてきてもオレは敗北を認めたりはしない。
「オレは生きる……どんなに汚く醜く間違ったことをし、この手を汚そうともッ!」
二つに分かれたクイーンから血の雨が振り注ぎ、嘆きの声が止む。沈黙が訪れ、頭が割れるほどの頭痛が消える。
『虐殺蜂・クイーンの死亡を確認。最終試験・『
【黒のスマホ】から奏でられる陳腐なファンファーレを、オレは冷めた心で聞く。
(ゼノン……この『試験』の監視役らしいが、このまま高みの見物を決め込めると思うなよ?)
未知の存在だが、こんなことに巻き込んだ落とし前は必ずつける。しかし今は何も言うまい。
「お疲れ、センパイくん」
綾に背中を叩かれ振り返る。
「お疲れ」
「お疲れーいっ!」
四人それぞれとハイタッチする。
「帰りましょうか」
「ああ、帰ろう」
帰る、という言葉がすんなり口から出たことにオレは驚く。一ヶ月も過ごしていないのにオレは九弦学園高校に、『居場所』という認識が生まれていたらしい。
「……ははっ」
「どうしたの?」
「何でもない」
綾に答えると、「そんな顔するなんて珍しいね」と目を丸くされる。
オレは自分自身の変化に戸惑いながらも、高校への帰途につく。
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