第8話 一日目 七月一七日 一五時三一分(02:20:29)

「あー……いてぇ…………」


 オレは体育教員たいいくきょういん室の椅子に座り、痛む頬を撫でる。


「センパイくんがこんなにエッチだとは思わなかった! もう最低だよ!」


 綾が仁王立におうだちになって激昂している。


「尻が最高すぎてつい…………」

「ボ、ボクのお尻は普通だ!」


 綾が尻を押さえる。そんなわけあるか。


 体育教員室は二階。そこへの階段を登る綾の尻に見惚れていたら殴られたのだ。


 花を見れば心安らかになり、子猫を見れば顔が緩み、綾の尻を見ればその美に震える。これはもうこの世界の真理だ。なので綾の尻を凝視していたとしてもオレに罪はない。


「私の知る限り、最高の左フックであったな」

「当然だよ!」


 義円ぎえんが呆れながら言い、綾はまだプリプリしていた。右の頬がジンジンする。そんなことで過去最高を出さないで欲しかった。それにしてもあんな完璧に殴られるなんて、一体いつぶりだろうか。


「ダメよー、綾ちゃんも一応女の子なんだから」

「ボクは生まれたときから、完全完璧に女の子だ!」


 理乃りのの言葉に綾が頬を膨らませる。そして怒り混じりに椅子に座った。


 椅子よ、オレはお前になりたい。オレは綾の座る椅子に羨望の眼差しを向けた。


 理乃がおにぎりと味噌汁を持ってきてテーブルに並べる。オレは味噌汁を口に含み顔をしかめた。口の傷に染みた。味噌汁から血の味がした。


 ――【危険感知】


 スキルの警告に窓を見る。そこに張り付く何匹もの虐殺蜂ぎゃくさつばちに、思わず腰を浮かせる。


「案ずるな、入ってはこれん」


 オレと綾の正面に座る義円は、気にすることなく味噌汁をすする。


 運動場を一望できる体育教員室の窓は、鉄格子とフェンスによって防護されていた。虐殺蜂の大顎おおあごが鉄格子を挟み込んでいるが、切断できずにいた。


「あっそ」


 ならばと気にせず飯を食う。羽音がうるさいなと思っていたら、理乃がカーテンを閉めた。


「で、どーするの? 叔父さん?」

「校長と……まあいい」


 義円が箸を置く。


「備え付けの固定電話は生きておるが、警察、救急、あと自衛隊とも連絡がつかん。コレでもやったが結果は同じだ」


 【黒のスマホ】を義円が振る。【黒のスマホ】は通話もメールもできる。使用料は無料だ。


「九弦の本家には?」

「繋がらん。県外への連絡は、この『試験』とやらが終わるまで出来んそうだ」


 忌々しそうに義円がスマホを睨む。


「電気や水道などのインフラは保たれておるが、いつ使えなくなることやら。備蓄された食料も、避難者が増えればすぐに無うなるであろうな」

「避難者はいま何人?」

「三二六……お前たちが来たことで、ちょうど三三〇か」

「食べ物が……いるね」


 その人数を何日も賄えるほどの備蓄は無いだろう。警察との連絡がつかない以上、助けも期待できない。なので自分たちで食料を探しに行かなければならないが、外に出れば虐殺蜂に襲われる。だからどうするか? と二人は悩んでいるのだろうが、オレはといえば、おにぎりを完食してしまったのでおかわり出来ないものかと悩んでいた。


「それ」

「む?」

「食わないならくれないか?」


 義円の皿に残っているおにぎりをオレは指差す。ずっと気になっていた。


「…………良いぞ」

「どうもありがとう」


 義円が呆気にとられた目をしたが、皿を差し出してくれた。良い奴だ。


「使える人だよ……ちょっとアレだけど」


 綾の発言を疑わしそうにする義円を他所に、オレはおにぎりを食す。


「…………ッヤァァァーーーーッ!」


 悲鳴らしきものが体育教員室に届く。運動場とは逆側、体育館を見下ろす窓を覗くと、人々が黒いものから逃げ惑っていた。虐殺蜂だ。


 体育館の入口の扉が開き、そこに誰かが倒れていた。どうやらあそこから侵入したらしい。


「センパイくん!」


 綾が【黒のスマホ】から弓を取り出す。オレは口の中のものを味噌汁で流し込む。面倒だが対応しないわけにはいかなかった。次から次へと。食事くらいゆっくりと摂りたい。


 階段を下り体育館に出る。


退けっ!」


 邪魔な人間を掻き分け人混みを抜ける。侵入した虐殺蜂よりも、入口を塞ぐことの方が先だ。


「う…………」


 食ったばかりで走ると横腹が痛い。だが食べ物を残すなんてありえなかった。


「おい、大丈…………ああ」


 入口に着き、倒れている三十代くらいの男に声をかけるが、死んでいた。うつ伏せに倒れ、開かれたままの目に生気がない。これは死んだ者の目だ。見たことがあった。


 背中に衣服ごと貫いた穴が複数あった。これが致命傷となったのだろう。


 扉の開閉部のところに倒れているため、男を退かさなければ扉を閉められない。が、引っ張ろうとしても上手く引っ張れなかった。死んだ人間は想像以上に重い。


「手伝うぞ!」


 デカくて日焼けした短髪の男が、オレの掴んでいた腕と反対の腕と肩を掴む。制服だから九弦学園高校の生徒だろう。


「「せーのっ!」」


 力を合わせ男を引っ張り混む。そして左右から鉄の扉を閉める。


「げっ」

「うわっ!」


 扉の隙間に、新たな虐殺蜂が頭をねじ込んできた。脚を縁につけ、無理矢理に入り込もうとしている。


「クソッ! このまま押し潰すぞっ!」

「ひぃぃぃぃっ!」


 オレと二人で、ギロチンのように扉の縁で虐殺蜂の首に圧力をかける。虐殺蜂は藻掻もがくが、嫌な感触と共に扉が閉まる。床にゴロンと頭部が転がる。


「うわ、わわっ、ひぃっ」


 まだ顎を動かしている虐殺蜂の頭に、短髪デカ男が腰を抜かす。


 扉は閉めた。これ以上の侵入は無い。次は体育館内で暴れているのに対応しなければならない。


 館内にいる虐殺蜂は二体。綾が体育教員室から狙撃を試みているが、人を誤射することを躊躇しているようだ。


(オレがやるしかない……か)


 【黒のスマホ】から包丁を出し走る。と、短髪デカ男もついてきた。


「お、俺もやる!」


 短髪デカ男は金属バットを持っていた。


「チビるなよ、短髪デカ男!」


「誰だよそれ!? 司賀しが! 俺は司賀誠也しがまさやだっ!」


 誠也まさやと虐殺蜂の方へと向かうが、パニックを起こした人間のせいで上手く進めない。避けながら進んでいると、誠也がいなくなっていた。トロい奴。


(……発見)


 押し倒した人間に尻の針を突き刺そうとしている虐殺蜂が一体。こちらを警戒している様子はない。これなら一気に、


「ぬおららああああ――――っっっ!!!」


 咆哮ほうこうしながら飛び出してきた大男が、髪を振り乱しながらバットを振り抜く。メジャーリーガーさながらのフルスウィングは、虐殺蜂の頭部を天井にまで打ち飛ばしてしまう。


「ナイト!」「さすがナイトだ!」「そこに痺れる憧れるぅっ!」


「わははっ! やったっ! やったぞっ! ホームランだっ!」


 ナイト……内藤? とか呼ばれている大男が、周囲にはやし立てられえつに入っていた。


(よくやった……もう一体はどこだ?)


「センパイくん、そっち!」


 綾が指差すところを見てギョッとする。虐殺蜂が組み伏せられていた。理乃だ。


 上着を虐殺蜂の頸部けいぶに巻き付け、締め上げながら覆いかぶさっている。いや嘘だろう?


「見てないで手を貸して!」

「あ、ああ……」


 理乃は虐殺蜂の首を締め上げているが、そこが限界のようだ。オレは虐殺蜂に止めを刺すため、複眼ふくがんへ包丁を突き入れ掻き回す。刃が致命的な箇所を絶ったのか、虐殺蜂は痙攣し動かなくなった。


 意外と簡単に倒せたな、とオレは拍子抜けする。


「ありがと」


 技を解いた理乃には、まだまだ余裕がありそうだった。何者なんだこの教師は?


「すげえよな、理乃ちゃん先生。さすがメダリスト、まじカッケーわ」


 虐殺蜂をホームランにした大男が隣に立つ。オレも一応、一七五センチあるのだが、まるで体格が違う。一九〇センチはありそうだ。


「メダリスト?」

「オリンピックで柔道と空手の銀メダルとったらしいぜ? 知らねえの?」


 乱れた髪をまとめながら大男が言う。オリンピックの柔道と空手で銀メダル? 何でそんな人間がこんなところで教師なんてやってるんだ?


「ナイトくん、怪我人を運ぶのを手伝って」

「オッケー、理乃ちゃん先生」

「ちゃんはつけない。理乃先生、もしくは葉ヶ丘先生ね?」

「オッケ、オッケ、オッケッケー」


 ヘラヘラしながら理乃の元へと歩いていく大男。


(……ナイト? やっぱりナイトと呼ばれているなアイツ?)

「あー、ナイト先輩にいいとこ盗られちまったなー」


 誠也まさやが来る。威勢のいいこと言ってたのに、今の今まで、どこにいってたんだお前?


「何でアイツ、ナイトって呼ばれてんだ?」

「ん? 三年の戸叶騎士とがのないと。騎士って書いてナイト。野球部のキャプテン。ってかお前、見たことねーな? 一年?」

「二年の当真仁だ。編入してきた。騎士ないとってのは……」


 キラキラネーム? だが、戸叶騎士は「ナイト」と呼ばれることを嫌がってはいないようだ。


「ナイトってカッケーじゃん、って。だから皆に呼ばせてる。変わってるよな? でも良い人だぜ」

「…………」


 子供は親を選ぶことはできない。どんな名前を付けられるのかも。


 じん。オレの名前。本当はゴミという意味の『じん』をつけたかったが、役所で却下されたらしい。だから『仁』という画数の少ない名前になった。


 オレは自分の名前が大嫌いだ。だからか、キラキラネームをつけられてるのにそれを格好いいと言う騎士に、信じられないものを見た気になった。

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