出会い

 彼の家は、町の中でも随分と裕福な部類だったのだろう。

 彼はいつも、美しい身なりをしていた。月明かりのように淡い色の髪は艶やかで、風の悪戯で木の枝に絡まっても、ほとんどはすぐに解けて彼を煩わせることはない。それでも意地悪く絡む枝から髪を外す指先はほっそりとしていて優しく、これに触れられたならきっと天にも昇る心地になれるだろう、と思えた。

 町や森の入り口で駆け回って遊ぶ子供たちとはなにもかもが雲泥の差で、頭のてっぺんから足の先まできらきらと輝いているように見える。

 だからきっと彼は、大切な宝物のように扱われているのだろう。

 僕は時々、彼の住む塔を見上げた。彼は月が生まれ、太ってそれからまた痩せて見えなくなるまでの間に二度しか姿を見せない。塔はとても高く、僕では到底その最上の窓には届かない。

 だから彼に会えるのは、彼が塔から降りてくる機会だけ。そして、彼は必ずそのたびに森へと足を踏み入れる。

 彼は何をするでもなく、森の中を彷徨い歩く。夢に浮かされているわけでもない、確とした足取りで、けれど目的もなく森を見て回る。

 清らな泉の前で足を止め、老いて倒れた大木に腰を下ろして日暮れまでぼうっとしていることもあった。その姿は人間というより、どこか妖精や精霊じみて、とても遠い生き物に見えた。そうでないことは、彼を目にするたび徐々に成長していく姿を見れば明らかで、時々森に迷い込む子供の成長と比べてもおかしいところは何もなかった。特別早くもなく、特別遅くもない。

 僕は最初彼のことを不思議に感じた。大抵、人は一人で森に入ったりはしない。

 それは魔獣の存在であったり、肉ならなんでも食う獣の存在だったり、あとは、単に薄暗い森を恐れて近寄らないのだ。闇には魔物が棲む。それは人間もよく知っているので、不必要に近づこうとはしない。森の入り口で遊びまわる子供たちだって、度胸試しに訪れているだけだ。

 だけれど彼には恐れの気持ちもないようで、まるでそうすることが彼にとっての当然であるとでもいうように、森に棲む生き物と同じように何食わぬ顔で森に足を踏み入れる。

 たまに。ごく偶に、そういう心が欠けて生まれてくる人間もいるらしい。

 闇への恐れや、知らないものへの違和感。だれでも持っているそんな感覚。

 もしかすると彼は、そういうものなのかもしれなかった。人間と、魔物と、そのほかのどんなものとも相容れる可能性を持ったいきもの。

 僕のようなものは神聖なるものと呼んでいる。

 けれどそういうものを人間は魔女とか魔法使いとか、魔術師だとか呼んで、殺してしまうことがあるらしい。

 あるいはもしかすると彼は、そのために塔にこもりっきりなのかもしれない。守るためか、守られるためか、そのどちらなのかは分からなかったけれど。

 彼の姿を見かけるたび、僕はいろいろと推測をしてみた。

 答えはなかなか出なかったし、出るものでもなかったけれど、僕はそんな時間が好きだった。

 それだけで物足りなくなってきたのは彼を初めて見かけてから、五度目の芽吹きの季節。

 彼と直接話をしてみたい、と思った。

 彼は年を重ねて、町によくいる大人と変わらない背丈にまで育っていた。美しい髪は視界の邪魔にならない程度に切られていたけれど、腰まで長くのびていた。顔やかたちは幼い丸みを帯びたものから、ほっそりとしたものになっていた。

 彼が纏う神秘性は、彼が幼かったころより更に増していて、それだけに僕は僕がとてもみすぼらしく思えて、彼の前に現れてよいものか迷った。

 木の陰から彼を覗き見る。

 彼はいつかのように、水面に時々跳ねる魚や、それを捕まえて飛び去る鳥をぼうっと眺めていた。驚きも、落胆もなく、ただ。

 僕はそれに見とれていた。直接話はできなくても、もうこの時間があるだけで僕はしあわせだと――そう思った瞬間だ。

 その、澄んだ泉を思わせる瞳が、ふいに僕をとらえる。

 彼は、僕を確かに見て、ふわりと花が綻ぶように笑った。

 初めて、笑った。

「やあ」

 淡い色の唇がうごいて、言葉を紡ぐ。

 初めて聞いた彼の声は、不思議な音をしていた。涼やかで、気持ちのいい音だった。

 そして僕は初めて、僕を見つけて僕に言葉を掛けるものに出会ったのだ。

「こんにちは。君は……だれだい?」

 それは確かに、僕に向けられた言葉だった。

 ばくばくと体の真ん中で激しく動くものがある。それは僕の核であり、いのちの源だった。ああ。やはりこの彼は、神聖なるものなのだ。僕というちっぽけな生き物は、こういう、彼のようなものに逆らえないようにできている。

 僕の核が激しく脈打つ。彼の前に跪いて、頭を垂れろと本能が言っている。

 僕は恐る恐る、木の陰から体を離して草を踏み分け、彼のところへと歩み出た。

 僕は変なかたちをしていないだろうか。彼を不快にさせないだろうか。

 なにしろ僕は僕のかたちをしらない。

 彼を美しいものだとわかるこころは持っているけれど、僕は僕を見ることが叶わない。泉に姿を映そうとしても、よく分からないものがじっとこちらを見つめ返すばかりだった。

 彼の前に進み出て、僕は途方に暮れて立ち尽くす。彼をまっすぐ見ることができない。

 彼が落胆していないか、恐怖に慄いていないか、知るのが怖かった。

 足元の草ばかりを見ている。彼は裸足だった。足の爪の形まで、きれいに整っている。

「触ってもいいかい?」

 僕は驚いて、思わず顔を上げていた。彼は落胆しても、恐れてもいない。ただただ、僕という生き物に興味を持って、自惚れでなければ、喜んでくれているようだった。

 うっすらと彼の頬が色づいている。凍えの季節に降る雪のような肌に、ほんのりと熱がともっていた。僕は一も二もなく頷く。彼に対して否ということなんて僕にはできない。

 彼が望むなら、僕はもうきっとこのいのちだって捨ててしまえる。

「ありがとう。……綺麗なたてがみだね。角も、聞いてたよりずっと立派だ。僕、ユニコーンなんて初めて見たよ」

 ずっと会ってみたかった。小さな囁きと共に、柔らかな指先が優しく僕に触れる。首の後ろの毛を撫ぜられ、どこか落ち着かない気持ちになったけれど、決して嫌ではない。

 僕はじっと、身動きせず立っていた。彼の動きを邪魔したくはなかったし、この時が永遠に続けばいいと思ったからだ。

 しばらく彼と僕はそうしていた。彼は僕のことを珍しい生き物だと判断したようだった。

 何を見ても感情の浮かばなかった瞳が、僕を見るときだけは熱を帯びる。それがたまらなく嬉しくて、僕はもうなんだってできる気がした。

 それでも僕にそんな力はなくて、望みとは裏腹に、ゆっくりと日が落ちていく。

 辺りが夕暮れの色に染まって、彼は名残惜しそうに僕から手を離した。

 僕も名残惜しくて、彼の手のひらを追いかけた。頬が彼の手に触れる。ひんやりとして冷たい、けれど命ある温かさが確かに伝わって、僕は少しほっとした。やはり彼もいきものなのだと、改めて確認できた気がした。そんな僕を見て、彼は少し、寂しそうに笑う。

「君とずっとこうしていられたらいいのにね。……でも帰らなきゃ」

 じゃあまたね、と言って彼は僕に手を振った。そして歩き出す。彼の行く先は知っている。町を守る壁の、さらにその中にある壁の中の高い塔。たぶん、彼はそこでひとりっきりだ。

 僕はずっと彼を見てきた。彼はいつだって一人でこの森にやってきて、そして一人で帰っていく。この森の中で、彼が誰かといたところを僕は一度も見ていない。一度か二度、こっそり見に行った壁の中でも、彼が自由に歩く姿を見たこともなければ、森の入り口で遊ぶ子供たちのように楽しげに、誰かと話す姿も見たことがなかった。

 僕は彼の後を追う。今までよりもずっと早く僕は駆けた。まるで別の生き物になったみたいだ。

「わ、驚いた……どうしたんだい」

 追いついて、彼の着ている服の袖を口で掴む。汚してしまうのは悪いけれど、僕の体はやはり以前とは違っていて、手がうまく使えない。

「いけないよ。一緒に来たら君、きっと捕まってしまう」

 ユニコーンの角は希少だって聞くよ。困ったように、諭すように、彼は僕に言った。僕のかたちは彼とはかけ離れているのに、言葉が通じると思ってくれているのだ。

 それでも僕は彼をひとりにしたくなかった。許されるなら、せめて彼を無事に送り届けたかった。夜は魔物の時間だ。闇は魔物の棲みかだ。それを知っているから僕は、彼のことが心底心配だった。

 袖を咥えたまま僕は彼をじっと見た。彼も僕を、困ったように見ていた。

「……町の明かりが見えたら、本当にさよならだよ」

 彼は諦めたように、呆れたようにそう呟いた。それでも、表情はどこか明るい。そのことが僕は嬉しくて、どうにかなりそうで、やっとのことで僕は彼を傷つけないよう頬ずりをするだけで耐えた。彼は嬉しそうに笑ってくれた。

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