京都行

柑橘

京都行


「何故京都の街が碁盤の目状になっているか、知っているかね。

 中国の模倣。それはもちろん。長方形の区画を直行する複数本の街路で区分けする方法は、元はと言えば長安に由来するものだからね。

 しかし、君。どうして大昔の区画をそのままに保存する必要があったのかね。崩れた建物を建て直し、あるいは建物を崩して新しいものを建て直し、そうしているうちに建物間の位置関係なぞ消え去ってしまうと思わないか。梅田を見るといい。盛んに開発を繰り返して5年前の面影すらないだろう。私はこの前映画館に行こうと思ったら地下通路で3時間以上迷ってね。あれはどうにかした方がいい。

 さておき、京都に話を戻そう。便利な区画整理の方法だから残っているのだ、と君は反論するかもしれない。しかし便利さだけで1000年以上残るものってあるか。便利な百均の収納グッズだって1年も経てば流行り廃れて、新商品が棚を埋め尽くしているだろう。1000年以上残っているものとしては、奈良県民としては五重塔とか大仏とかを想起しないわけにはいかないが、そういう神性というか特別なものなしにうつろわずにいられるにはこの世の流れは速すぎるし1000年という時間は長すぎる。

 そもそも京都には何か特別な雰囲気が流れていると思わないかね。いや確かに近鉄京都駅の改札を出るとお香みたいな上品な香りがすーっと漂ってくるけど、そういう即物的な話ではなくて。人の所作から建物の質感、そよぐ柳の葉の先に至るまで、それら全部を貫徹している何かがあるような、そんな気がしないかね。

 街に何かが漂っているなら、当然街の方はその何かしらを発生させ維持する機構ということになるだろう。街の何が発生・維持に寄与しているか特定するのは難しいだろうが、さしずめ他の街との差分を取る操作などが穏当に思える。他の街になくて、京都にあるものとは何かね。

 しからば君、京都の碁盤の目の区画はあの風雅な雰囲気を発生させるための装置だと思わないか。神聖なる教えの護持のために五重塔が一度も倒れることなく1000年もの間建ち続けているのと同じく、京都の都市構造は土地特有の雰囲気を保存するために残り続けていると考えると得心いくものがないか。

 装置があったとて、装置上を動くものがなければ意味がないだろう。ではここで言う動力とは何か。当然人間だ、と私は答える。京都の人間が洛内と洛外の際をやたらと強調するのは何故かね。あれは単なる自慢しいというわけではなくて、洛内への更なる入植を促しているのだと私は睨んでいる。人数が多い方が装置の駆動は当然強力になる。京都がオーバーツーリズムに何の対策も取らずに、ただ無為に道路を渋滞させているのは何故かね。入植を促しているからだ。人は多ければ多いほど良い。

 では装置上の演算素子ひとびとはどのような演算規則に従って動いているのか。演算規則と聞くと何やら巨大なルールブックのようなものを想像してしまうが、要するに演算規則とはコードであり、コードとは文章と文法であって、言葉による制約のことを指す。となれば当然、京言葉こそが演算規則であるという明瞭な結論が浮かび上がってくるはずだ。

 言霊なんて胡散臭い概念を持ち出す気はないが、事実として人の行動はその人の言葉や語彙と密接に結びついている。私たちは世界を言葉で腑分けしていて、切り出し方が変われば見え方もまた当然変わり、ある人に見えているものが違う人には見えないなんてことはざらにある。言葉は人の行動を変え、京都に入植して滑らかに京言葉を操れるようになった人は、いつの間にかとある演算規則に従って垂直に直行する幾本もの街路を通っては引き返し、また通っては引き返すようになる。

 言葉によって内面を作り替えられた人々は、まるで操り人形のごとく街という装置の中を彷徨い、人々を使役せし矩形の古代都市は次々に風雅という名の毒霧を生成してはそれをばら撒き続けている。毒霧はまるで誘蛾灯のように人々をおびき寄せ、入植者を次から次へとその裡へと蓄えた洛内は際限なく駆動し続ける。

 際限なく人を取り入れるとは言えども、土地には収納できる人数の限りがある。人を取り込みつくした都市の、次の目標は何になると思う。そんなものはとりもなおさず侵略だと古代から決まっている。

 今に京都はその毒霧を洛外だけでなく他県にまで吹き付けるようになるだろう。そして毒霧に酔った人々はいつの間にか京言葉を操るようになり、仕草も何やらはんなりとしだして、やがて自分たちの都市を碁盤の目状に整理し直しはじめるのだろう。街路樹はあらかた切り倒されて代わりに柳が植えられ、鳩は皆駆除されて鴨に置換されるようになるだろう。そして街路は互いに接続されて、平安京に相似拡大を施した巨大な矩形都市が地平を覆ってしまうのだ。

 私は出来うる限りの抵抗として奈良に籠ることにした。この土地は四方を山に囲まれているから、多少は京都からの毒霧を防いでくれるだろう。

 君は大阪に住んでいるのだったか。京都と大阪の間にはJRも阪急も京阪も直通していることだろうから、君の街はもう洛内になっているかもしれない。しかし、君と君の街がもしまだ正気を保っているのならば。その時は一緒に手を取って闘わないか」

 という手紙が大学の友人から届いた。恐るべきことに、このご時世に直筆である。迫力がすごい。

 とりあえず「来週火曜の実習は出ないと単位なくなっちゃうよ」とLINEを送っておいた。既読は付かなかった。



 彼女はいつも狸を磨いている。

 彼女の下宿に入ると、玄関に入った時点で狸と目が合う。玄関から続く廊下と廊下に面した台所の流し台の上には所狭しと焼き物の狸が並べられていて、どれも皆ふくふくつやつやと輝いている。廊下を通ってリビングに行くためには敷き詰められた狸たちの隙間を縫うようにしてつま先歩きするしかないが、ここら辺に置いてあるのはどれも比較的小柄なものばかりなので、頑張ればどうにかなる。

 リビングに入ると、窓際に置いてある一際大きい狸が目に入る。大きさとしては工事現場に置いてある三角コーンよりもちょっと背が高いくらい。どうやって持ち込んだのか、そもそもお値段はどれくらいしたのか、どちらも怖くて聞けていない。

 結構広いはずの部屋の中で、彼女の生活スペースは驚くほどに狭い。具体的には布団一枚分。それ以外の床は全て狸の焼き物に占有されている。くるくると愛くるしいようなふてぶてしいような目をしている狸たちの中から彼女はひょいと一つを取り上げ、手元の布できゅっきゅと磨く。芥子色の大きな布で、無表情に、けれども真剣な面持ちで。彼女の休日はほぼ丸々一日、この作業に充てられる。

 「あっ」と飲み会の帰り道に彼女が古物屋さんの入り口に置いてある信楽焼の狸を指さして、彼女をはっきりと認識したのはそのときからだった。元々は大人しそうな同級生の一人としか思っていなかったし、少人数講座の受講生みんなで行ったその飲み会のときも特段私たちの間に会話らしい会話はなかったと思う。だけれど、狸を見てわずかに顔をほころばせた彼女を見て、びりっと来たって言うか。なんだろう、とにかく良いなと直感で感じたのを覚えている。

 それからだんだん話すようになって、お昼はほぼ毎回一緒に食べに行くようになって、そのうち映画を見に行ったり私の下宿で遊んだりするほどまでに私たちは仲良くなった。仲良くなれたのはいいのだけど少し気にかかることもあって、具体的に言うとほぼどんなシチュエーションでも彼女は常に片手に小さな狸の焼き物を携えていた。しかもよくよく観察すると日によって持っている狸の種類は異なっている。そのミニ狸たちを、彼女は暇さえあれば眼鏡拭きくらいのサイズの桜色の布で磨くのだ。可愛くていいと思うけど、それはそうと磨かれた狸たちはなんだかお店のよりも艶めいているし、帰り道に古物屋さんがあったらほぼ確実に寄ってるし。なんだか、色々大丈夫だろうか。特に生活とか。彼女の下宿先に招待されたのはそんな不安が膨らんできたころで、玄関を開けた瞬間に無数の狸と目が合った私は喉の奥で蛙が潰れたような声を出してしまった。

 「な、なんで、こんな」とうろたえまくって私に彼女が話してくれたことに曰く、京都といえば狸である。いや京都は狐のイメージではとか狸はむしろ滋賀のものなんじゃないかとか色々突っ込みどころはあるのだけど、彼女の中ではそうなっているらしい。だから集めているの、と彼女ははにかむように笑い、そ、そっか、と私も笑顔を返した。大分ひきつった表情になっていたかもしれない。

 狸を磨いている理由については「ただ鑑賞するだけなのは悪いと思って」とのことらしい。別に見られているだけでも狸にとっては幸せだろうと思うのだけど、とにかく彼女が毎日丁寧に磨くものだから、どの狸もつやっとしていて満足気に見える。特に古参の狸たちなどはもはや長年大切に使われてきた急須のようなえも言われぬ円熟した照りを放っていて、ちょっとした威厳すら感じられる。私も彼女にもらった猫の小物を一時期躍起になって磨いてみたのだけど、結局私の手では威厳のいの字も出てこなかった。ここまで来ると一種の職人技のようなものではないかと思う。

 狸一色の殺風景な彼女の家だけど、作業をするにはなかなか快適だ。布団1枚分のスペースは2人が横並びで座るのにちょうど良くて、私はひょいっと飛んで彼女の横に着地する。彼女は私の手提げを一瞥して「フェルト?」と聞いてきた。

「そう、この前買ったやつ。羊ができるんだって」

「前やってた編みぐるみは?」

「猫と雪だるま作ったら満足した」

「せめて狸までは作ってよ」

 むくれる彼女が可愛くて、指で頬をつつくと余計にむっとした表情をされ、やっぱり可愛い。

 同じことをし続けるという行為にはどこか純朴なところがあるように思えて、彼女の純朴ですれてない感じが好きなのかなと思う。その点で言うと飽き性の私はすれまくりとなって、まぁ実際すれてんなという自覚もある。

 昔からずっと飽き性だ。お絵描きが好きな子供だったらしいけど、クレパスに飽きて色鉛筆にハマり、色鉛筆にも飽きて鉛筆だけでデッサンの真似事みたいなのをし始めて、朱筆で画用紙にでかでかと紅葉を描いたあたりで絵そのものに丸っきり飽きた。リコーダーが好きで一時期は家の中でも外でも吹き鳴らしまくっていたのがいつの間にか飽きて、中学で吹奏楽部に入ってクラリネットをやり出したらこれまたハマって、周りの口ぶり的にも筋が悪い方ではなかったみたいなんだけど、中2の終わりごろにはもう飽きて、というか部活自体に若干飽きた。最近になって思い出したようにアイルランドの笛(ティンホイッスルと言うらしい)を買ってみたら存外楽しかったのだけど、どうせまたすぐ飽きるような気もしている。

 中高とも友達は多くて特段嫌なこともなく楽しい学校生活だったけど、それでも高2の頃には地元という環境自体に飽きて、それで全然縁もゆかりもない京都を進学先に決めた。結構派手に変わる気候とか自転車に乗った学生の大群とかは今のところ楽しいけど、卒業した後はここにはもういないだろうなという漠然とした確信もある。

 興味を持っては失って、得たものを順に投げ捨てて。車窓に映る風景を流し見するような人生は悪くはないと思うけど、寄る辺なさがないと言えば嘘になる。

 だから彼女の不変性が私にとってはとても有難くて、将来全てに飽き果てて自分の所在地が分からなくなっても、この真っ茶色の小部屋と彼女を基準点にすれば何とかなるんじゃないかと思うのだ。

 窓から午後の光が差し込んで、狸たちのつるりとした表面に反射して部屋をまろやかに照らす。陶器の表面を布が撫でる音と羊毛を針で刺す音だけがそれぞればらばらのリズムで聞こえる。

 どうってことのない、とっても良い日だ。


 いっけなーい、遅刻遅刻!

 と本当に叫んだわけではないが、事実として遅刻寸前ではあった。走ってバス停へ向かっていると、曲がり角から誰かが突然出てきて、僕たちは派手に衝突する。いったぁ、と膝をさすりながら相手の方を見ると、大きなキャリーバッグを片手に、残り4本くらいの触腕らしきものをカラフルに点灯させながらやたらと慌てふためいている。僕は携帯の自動翻訳ソフトオートトランスレイタを立ち上げ、相手に「お怪我ありませんか」と話しかける。僕の声はソフトによって宇宙標準語へと変換され、それを聞いた相手はいえいえこちらこそ的なジェスチャーを返してくれた。じゃあ急いでいるので、ということで僕は再び走り出す。空には京都タワーから宇宙へと伸びる軌道エレベーターの架線が見える。

 2124年現在、京都は連日外星からの観光客で賑わっている。

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京都行 柑橘 @sudachi_1106

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