ファジーネーブル

ぬーん

ファジーネーブル

箕輪沙月は高校を卒業後、就職をして仕事をしていた。

「お疲れ様でした。」

「はいはい、お疲れ様〜。」

会釈をすると職場を急ぎ足で出た沙月は、実家の家業を継いで忙しくしている高校時代の先輩である阿部奏太と今日、久しぶりに会える事になっている。

沙月が浮き足立つ理由は、学生時代密かに奏太に思いを寄せていたからだった。

スマホの画面が光り、届いた通知には「先に店に入ってる」という奏太からの連絡だった。

「わかりました。お待たせしてすみません…っと。」

沙月はすぐに返信をして歩き出した。

初めてのお酒は、成人を迎えてから両親と一緒に飲んだ。

あの頃憧れていた大人の味は、私には苦くて一口飲んでやめてしまったんだっけ。

そんな事を思い出してぼんやり空を見上げると、夕暮れからいつの間にか暗くなっていた沙月の頭上には、南の空に秋の一番星が煌めいていた。

小さく息を吐き出して目線を下げると、少し汚れてしまった自分のハイヒールが目に映り込んできた。

「せっかく可愛い靴を選んだのに…。」

一気に落ち込んだ沙月だったが、首を横に振り、「今日は奏太先輩に会えるんだから」と、再び歩き始めた。

オフィス街を抜けて待ち合わせをしていた酒場まで来ると、仕事終わりの人間が空腹と喉の乾きを満たしに来て、話に花を咲かせているのを横目に見て通り過ぎた。

目的のお店の中に沙月が入ると、カウンターの端に座った奏太が左手を軽くあげて、そのまま左側の椅子を引いて迎えてくれた。

「お疲れ、沙月。」

「奏太先輩、お疲れ様です。…遅くなりました。」

席に着く沙月が申し訳なさそうに下を向く。

「そんな事気にしなくていいよ。それに、幾つかつまめるものを頼んでおいたから。」

「…はいっ!」

いつもの様に優しく笑う奏太を見て、安心した沙月は小さく頷いた。

「…そうだ、沙月は何かお酒は飲むか?」

奏太が、お酒の書いてあるメニュー表を沙月に見せてくれた。

自然とお互いの肩が触れるくらいの距離になり、奏太の落ち着きのある声をより近くで感じた沙月は、メニュー表と睨めっこをしたが文字や写真からは何も情報が入ってこない。

「奏太先輩、私お酒の事はよく分からなくて…。何かおすすめはありますか?」

沙月がメニュー表から奏太に視線を移すと、こちらを見ていた奏太と至近距離で目が合う。

時間にしてわずか数秒の間だったが、先に目を逸らした奏太がメニュー表の文字を右手の人差し指でなぞる。

「そうだな…。この辺りのお酒は甘いから、かなり飲みやすいと思う。」

「はいっ…。」

沙月は声が裏返りそうになりながら、奏太の大きくて綺麗な指を目で追うと、そこには少し大きな文字でカクテルと書いてある。

「カクテルは飲んだことがないです。」

「…そうだったのか。今日試しに飲んでみたらいいんじゃないか?」

「はい、そうします!」

優しく笑う奏太を見て、沙月は笑顔で頷いた。

それを確認した奏太が、ドリンクの注文をウェイターに伝えた。

「彼女と同じものを下さい。」

その言葉を聞いた沙月が、キョトンとした顔で奏太を見つめる。

視線に気付いた奏太は吹き出して笑い、「同じものが飲みたくなったんだ。」と言い終えると、沙月が来る前に頼んでいた自分のグラスを空にした。

暫くしてウェイターが運んで来たドリンクはオレンジ色で、一見するとオレンジジュースの様だった。

沙月が両手でグラスを持つと、奏太は右手で持ったグラスを目線の高さにする。

「乾杯、沙月。」

「か、乾杯…。」

沙月と目を合わせてから、奏太はグラスに口を付けた。

続いて沙月も恐る恐る一口飲んでみると、オレンジのフレッシュな酸味とピーチの優しい香りがミックスされていて、フルーティーで甘い口当たりが堪らないお酒だった。

「…美味しい…。甘くて、とても飲みやすいです!」

「そうか、口に合うなら良かった。」

沙月のリアクションを見て、奏太はふっと笑う。

カクテルの美味しさに感動した沙月は、かなりのハイペースであっという間にグラスを空にしてしまった。

「…新しいお酒頼むか?」

「はい…!」

メニュー表を見せてもらった沙月が、再び睨めっこを始めると奏太から声を掛けられる。

「そうだ、沙月。甘いお酒を勧める男には気をつけるんだぞ。」

「どうしてですか…?」

不思議そうに尋ねる沙月に、奏太は口の端をニヤリと上げて悪い顔をして言った。

「カクテルは甘くて美味しいが、意外と度数の高いお酒が多いからな。…何杯も飲ませて酔わせたりする様な悪い男に捕まるぞ。」

その言葉を聞いた沙月は、キョトンとすると数秒後にハッとする。

「じゃあ、奏太先輩は悪いヒトですね!」

沙月がメニュー表から目を移して、ニコニコしながら見上げると真顔の奏太と目が合う。

「ああ、そうだよ。」

「え?」

「…俺は、悪い男だよ」

そう言うと奏太は、テーブルの上に置いていた沙月の右手をするりと掴み、指を絡めて握るといたずらっぽく笑う。

熱を帯びた瞳の奏太に見つめられて、沙月はそれ以上声が出せなかった。

今にも口から飛び出しそうなほど高鳴って煩い心臓は、きっとお酒の酔いが回り始めたせいだと必死に言い聞かせて、顔に熱が集まるのを感じた沙月は誤魔化すように笑って奏太から目を逸らした。

触れられている部分から自分の気持ちが全て筒抜けてしまう様な気がして、いつまでも直視出来ずにいた沙月に吹き出して笑う奏太。

「わ、笑わないでください…!」

「沙月が可愛くて、ついついからかいたくなる。」

「もう、奏太先輩からかわないでくださいっ!」

ぷいっとそっぽを向いた沙月だったが、奏太から何も返答が無い事を不思議に思った。

「そ、奏太先輩…?」

振り返ってから心配そうに声を掛けると、奏太は握っていた手の力を強める。

「…せっかく掴んだ手を離すのが惜しいな。」

「へ?」

「いや、このまま帰したくないと思ったんだ。」

「そ、それは…どういう意味でしょうか?」

「ん?さあ、どういう意味だろうな。」

「そんな曖昧な…。」

沙月の言葉を遮るように奏太は、繋いだ右手の指先にそっと口付けを落とす。

驚いて固まる沙月を見て目を細めて楽しそうに笑うと、次は手首に口付けをする。

「…だから、悪い男には気をつけろって言っただろ?」

「っ、…は、はい……。」

「あははっ、本当にわかってるのか?」

悪い顔をする奏太に、何度も大きく首を縦に振る事しか沙月には出来なかった。

夜はまだ始まったばかりだというのに、いつもより酔いが早く回ってしまいそうだとくらくらする頭で考える。

悪いヒトの甘い罠にかかり、私は抜け出せそうにない。

翌朝、カーテンの隙間からもれた朝日の眩しさに沙月は目を覚まし、奏太の腕からそっと抜け出すと、寝ぼけ眼のまま床に落ちていた下着を身に付けて、適当にシャツを掴むと袖を通した。

「…ん……ぶかぶか……?」

沙月の首筋から鎖骨にかけて丸見えな首元と、シャツの袖が明らかに余っているが、ぼんやりとした頭でこのシャツが奏太のものだと気が付くのに数秒かかった。

ハッとして、シャツを脱ごうとした沙月の後ろから逞しい腕が伸びてきて、優しく抱き寄せる。

「…朝から随分と可愛い事をしてくれるな。」

お腹の辺りをガッチリホールドされて、身動きが取れない沙月。

腕枕をされているからなのか、朝の少し掠れた奏太の低音の声が耳元で聞こえてきて、身体中の熱が顔に集まる。

「っ、奏太先輩…これは、その…」

「…んー……?」

沙月の着ている洋服の中に左手を入れて、肌の上に指を滑らせる一輝。

慌てて両手で奏太の左手を止めて、恥ずかしそうに涙目になって奏太を見上げる。

「ダメです…!奏太先輩っ…!」

「……煽っているようにしか見えないんだが…」

「…あっ…んっ……」

沙月のシャツから腕を抜き、顎に手を添えると顔を自分の方に向かせて、舌を絡めた深いキスをする奏太。

沙月が苦しそうに奏太に腕枕されていた方の右腕を叩くと、奏太はゆっくり唇を離す。

名残惜しそうにお互いの唾液が糸を垂らし、肩で息をしている沙月のその唾液を舐めとるように顎に舌を這わし、奏太はそのまま唇に軽くキスをする。

沙月は体を回転させて奏太に向き合うと、暫くじっと見つめ合う二人。

奏太を見て少し恥ずかしそうに沙月は微笑むと、そっと抱きついてから目を閉じる。

奏太も優しく抱きしめ返すと、沙月のおでこにキスをする。

「…愛してるよ、沙月。おやすみ。」

二人は朝の微睡みの中へと、また落ちていった。



「ファジーネーブル」



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