なまえ
山鷲霊衣
なまえ
雨の日の昼過ぎだからだろうか、いつもの喫茶店はめずらしく混雑していた。
待合の椅子にはちょうど僕らが座れる分だけの空きがあった。
彼女が待機者の名簿に名前を書き込み、僕らはその椅子に腰を下ろした。
いつもなら、名簿に名前を書くのは僕の役目で、彼女が先に座るのが常だった。
だから、僕が先に椅子に腰かけたのはこれが初めてだった。
数分待っていると、やがて店員が現れた。
店員は名簿に目を通すと、待合席に並ぶ客たちに向かって声を上げた。
「2名でお待ちのタムラ様〜」
その名前は僕が知っている彼女の名前ではなかった。
名簿に偽名を書いたのか? それとも、僕に名乗っていた名前が偽名で、ついうっかり本当の名前を書いてしまったのか?
彼女の意図を測りかねるうちに、僕の心には妙な違和感が広がり始めた。
もとより、彼女の素性について深く知っていたわけではない。
――それは確かだ。
僕と彼女の出会いは数か月前にさかのぼる。
ネットで見つけた読書会で知り合い、好きな小説家が被っていること、読書の趣味が似ていることから、すぐに仲良くなった。それ以来、週に1回、こうして喫茶店で集まりお互いの本を貸し借りし、その感想を語り合うのが習慣になっていた。
彼女の事はそこそこ知っているつもりだった。
趣味も出身も、学生時代、君が演劇部に所属していて、どんな学生生活を送っていたかも。
彼女が語るそれらを信じて、断片的ながらも彼女の像を頭の中で組み立てていた。
でもそのわずかな事実でさえ、本当に正しいのか確信が持てない。
言いようのない恐ろしさとやるせなさが、全身を駆け巡った。
彼女はすぐに立ち上がり、固まったままの僕を不思議そうに見つめながら、
「行こ」
と小さく手招きをした。
その声はいつも通りで、何も隠していないように聞こえた。
僕も彼女のあとに続いて立ち上がったが、胸の奥に沈んだ違和感が、重りのように僕の足を引っ張っているようだった。
店内に案内され、席に着くと、彼女は何事もなかったかのようにメニューを手に取った。
「何にする?私はカフェラテ。」
彼女がそう問いかけてきた。
僕はとっさに、
「ホットコーヒー。」
とだけ返し、その間も彼女の表情を伺っていた。
彼女がなぜ「タムラ」と名乗ったのか。その理由を聞くタイミングを、いやむしろ、それを聞くべきなのかどうかさえ迷っていた。
けれど、口を開きかけるたびに、彼女の顔に浮かぶやわらかい微笑みが、その言葉を喉の奥に押し戻してしまう。
その微笑みは穏やかで、いつもと変わらないように見える。だけど、どこか掴みどころのない、触れれば壊れそうな脆さが滲んでいるように感じられた。
「偽名を書くなんて、意外だね。」
結局、僕がそれを口にしたのは、彼女がカップを手に取り、カフェラテをひとくち飲み込んだあとだった。
彼女は一瞬動きを止めた。その仕草はほんのわずかで、普通なら気づかないほど短いものだった。
けれど僕にとって、その一瞬は重い意味を持っていた。
彼女が反応するまでの短い間に、僕の中でいくつもの思考が交錯していった。
この問いが彼女の何を引き出すのか、そしてその答えに僕が何を感じるのか――その一瞬の中ででそんなことが頭を駆け巡った。
「偽名って……?」
彼女は首をかしげ、笑った。その笑顔は、少しの戸惑いを伴いながらも、どこか上機嫌な雰囲気があった。まるで僕の問いかけをただの冗談だと思っているかのようだった。
でも、その笑顔の奥に、どこか取り繕っているような影が見えた気がした。
「待合名簿に書いた名前のことだよ。」
僕はできるだけ軽い調子で続けたが、声の奥にひそむ声の奥にひそむ緊張までは隠しきれなかった。
「ああ、それね。」
彼女は笑顔を崩さずに応じた。
「いつも適当に書いちゃうの。誰かに名前を呼ばれるの、少し苦手だから。」
彼女の答えは一見自然で、それ以上突っ込む余地を与えないものだった。けれど、その言葉と笑顔の奥にはほんのわずかに違和感が見え隠れしていた。
その違和感が何なのか、確かめる術もなければ、問い詰める勇気もなかった。
「そっか。」
僕はただ、彼女に微笑返すことしかできなかった。
彼女はカフェラテをまた一口飲み、ふと窓のそとに目を向ける。
灰色の空は薄い雨を降らせ、その雨はガラスに無数の小さな滴が線を描きながら流れていく。それをじっと彼女の横顔は、どこか遠い場所にある何かを思い出そうとしていた。
「ねえ。」
彼女が窓のそとから目を離さずに言った。
「あなたは、自分が本当に誰かを知っているって思ったことある?」
なまえ 山鷲霊衣 @yamawashi
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