第9話 意外な効用
「だが、日本を覆っている水が、氷結する前に海へと流れ出るのは願ってもないことではないのか。教授自身もその方策を考慮していたのではなかったのか」
大澤の考えを、流田は即座に打ち消した。
「それは流出水量を計画的にコントロールできる場合のみです。九州の半分以上と中国地方を覆っている巨大なダムが一気に決壊するのです。その運動エネルギーは想像を絶します。海へと到達する土石流は莫大な量になり、東シナ海を中心に我々人類がかつて経験したことのないレベルの津波が発生するでしょう」
会議室は一瞬、深い沈黙に包まれた。
「しかし、そのプールの縁とやらが決壊するのは確定的ではないのだろう」
大澤首相の口調は何かにすがりつくようでもあった。
「もちろん確定的ではありませんが、直径100メートルの小惑星の核が最終的に爆発するエネルギーが地表から1000メートル以内で放出されたら、九州プールの縁は崩壊します。その可能性は9割以上であると断言できます」
「それが3日後にやってくるというのだな」
大澤は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。
「避けられない事態ならばやむを得ん。一刻も早く、世界各国にこのことを報告し、津波への警戒を呼び掛けるのだ。我々もすぐに避難を開始しなければならない」
日本政府は関係国政府の協力を得て、インドネシア諸島の島陰に船団を分散退避させることにした。巨大で足の遅い化学機械船やタンカーが3日で辿り着けるのはその海域までが限界と判断されたのだった。多くの人間が乗り込んでいる居住船は、やや速度が速いので、より安全策を取って、さらに遠方へと全速力で向かうこととし、即時実行に移された。
「津波はどのくらいの大きさになる」
大澤首相は流田遥教授に訊いた。最大船速に上げた司令船上では、対策会議が続いていた。
「それは何とも言えません。どのくらいの水量がどのくらいの時間をかけて海へと流出するかで決まります。時間当たりに流出する土石流の量が増えれば増えるほど、津波は大きくなります」
「最悪の場合を知りたい」
流田教授は瞑目してしばらく考え込んだが、やがて眼を見開いた。
「今、量子コンピュータで計算中ですが、東シナ海では場所によっては100メートルに達する可能性もあります。しかも…」
大澤首相は唾を飲み込んだ。
「インパクトエリアに溜まった水の流出が終わるまでに最低でも数カ月はかかるはずです」
「ということは…」
「その間、絶え間なく大量の水が海に注ぎ続けるということです。つまり、最悪の場合、その巨大津波は何カ月も繰り返されることになります」
「八重山はどうなる」
大澤首相が声を絞り出した。八重山諸島にはまだ氷雪域に飲み込まれていない島がいくつかある。日本にとってはわずかに残された貴重な陸地の領土だった。
「八重山は流出地点に近い。最大限の被害を受けることになるでしょう」
会議室は静まり返った。
「それでは…」
司令船の山口博行艦長が口をはさんだ。
「インドネシアなどに避難しても無意味ではないのか。もっともっと遠くに逃げなくては」
流田教授は山口艦長を見え据えて言った。
「幸い津波の発生地点は分かっています。島を防波堤として、その陰に隠れれば第1波は確実にかわせます。ただ、第2波、第3波となると…。インパクトがもたらす爆発の規模が不透明な上、反射波の計算が余りに複雑で、正直、分かりません。無意味と仰いましたが、それを言ってしまえば、地球の海に安全な逃げ場所はありません」
「地球上に?」
「そうです。この津波は最悪のケースだと全世界に伝播するだけの威力を有していると推定できます。津波の波高は太平洋を挟んだ対岸にある南米でも数十メートルは超えるでしょう。インドネシアに避難するのが無意味なら、世界中のどこの海に逃げても無意味なのかもしれません」
「運を天に任せるしかないのか…」
大澤がつぶやいた。
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