サキュバスの生態
サキュバスと呼ばれる存在は、なんであるのか。
この問いに対し、現代においてもこのような答えをする人々は少なくありません。「六十年前まで空想上だとされていたが、実在が証明された魔物である」。ですがこの認識は大きな間違いであると指摘すべきでしょう。
現代認知されているサキュバスとは、空想から飛び出してきたモンスターでも、ましてや密かに隠れていた魔物でもありません。人間と同じく地球に誕生した生物種の一つです。
「この事実は、サキュバスについての最初の科学的報告である、アダム・ブラウンの論文を読めば明白です」
このように話すのは、サキュバス研究者であるジェニー・ヘルナンデス氏。彼女はサキュバスという呼び名を、不当なものと考えています。
「アダムの発表自体は否定すべきではありませんが、論文には誤りが数多くあります。現代ではほぼ否定されている誤りです。そしてアダムはその誤り……偏見と言うべきでしょう。それに基づき、彼女達をサキュバスと名付けました」
空想と思われた存在が実在したのではなく、実在する存在にサキュバスという呼び名を与えた。この事実関係は、非常に重要です。我々の傍にいるサキュバスには、神話や物語で語られたサキュバス像が全く当てにならない事を示しています。
「現在ヨーロッパの多くの国々ではサキュバスという呼び名を止め、隣人という意味のヴィチノスという言葉を使うべきとの意見もありますが……私はこの意見にも反対です。
呼び名を変える事は、偏見に対する根本的解決策ではありません。むしろ解決した気になって、本質を無視する事もあり得ます。サキュバスという呼び名は不当ですが、それを理解し、自らの認識を改める事が重要なのです。
勿論サキュバス達が改名を望むのであれば、話は別ですけどね」
不当な呼び名が偏見を生むのは事実でも、根本的な問題は別にあるという事です。
サキュバスは魔物ではありません。
現在、サキュバスはこのような分類がされています。真核生物ドメイン脊索動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属サキュバス……ヒト科とは我々人間を含む分類であり、つまりサキュバスはヒトに近い動物であると言えます。
この分類について更に詳しく教えてくれるのが、生物分類学者である深山光一博士です。
「サキュバスと我々は非常に近い生き物です。分類学的には、兄弟と言って良い」
深山氏を含めた多くの研究者は、サキュバスと人間の進化上の関係をこう考えています。
今から凡そ七百万年から八百万年前。人間の祖先は、チンパンジーとの共通祖先から分かれました。
共通祖先というのは、いわば種にとっての親のようなもの。人間は猿から進化した、という言い方をする事がありますが、これは正しくありません。共通祖先は今いる猿ではなく、これから猿や人間になる動物なのです。
種の関係を人間の家族に当て嵌めると、比較的理解しやすいでしょう。
仮に人間を双子の兄、チンパンジーを双子の弟とすれば、共通祖先はこの兄弟の親です。チンパンジーは何時人間になるの? という問いは、弟は何時お父さんになるの? という質問と同じになります。そして共通祖先とチンパンジーを同一視するのは、親と弟が同じだと主張するのに等しくなります。
何が誤っているかは、一目瞭然でしょう。共通祖先が既に絶滅しているのも、兄弟の親が既に死んでいると考えれば、なんらおかしな事ではありません。
これもまた正確な表現でない事は留意すべきですが、進化と種の理解の一助にはなる筈です。
話をサキュバスに戻しましょう。
サキュバスもチンパンジーと同じく、人間との共通祖先から分岐しました。こちらは凡そ五十万年前の出来事と考えられています。これは古代の人類であるネアンデルタール人と人類が分岐したのと、ほぼ同時期の事です。
そして以降五十万年以上もの間、サキュバスは人間と共に繁栄してきました。
サキュバスと人間の生息域が離れた事は、一時もありません。現代に至るまで常にサキュバスと人間は共に暮らしています。
「分類学の観点で言えば、サキュバスと人間は共に生きてきた種と言えます。その関係は現代まで続いており、少なくとも、破綻した事はありません。我々は現在に至るまで、どちらも絶滅していませんから」
五十万年も前に分かれた種なら、何か一目で分かる違いがあるのではないか。そのような考えが生じるのは仕方ない事かも知れません。
事実巷では、サキュバスと人間を瞬時に見分ける方法の噂が多く飛び交っています。サキュバスは人間よりも薬指が長い、胸がFカップ以上ある、骨盤が大きくて安産型をしている、体重が四十キロ台で安定している……
いずれも根拠のない俗説です。
現代の学説では、サキュバスと人間には外見上の差異はないとされています。骨格や内臓には違いがありますが、骨盤の形や子宮の形であり、これは外から判別する事は出来ません。また特徴には個人差があるため、これもまた絶対的な指標と言えないのが正確なところです。現時点で確実に見分ける方法は、遺伝子検査を行う事だけでしょう。
その前提の下ではありますが、ある程度の傾向はあるとされています。
まず美人である事。美的感覚は人によって違いますから、この時点で全く当てにならない指標ではありますが……多くの人に好まれる見た目です。男女どちらにも好まれる事が多いとされています。多いだけで、人間達からのいじめに遭うサキュバスも存在しており、必ずしも好かれるとは限りません。
身長は人間の女性の平均よりもやや高いと言われています。これは大人の数値であり、十歳までの幼少期では、サキュバスの方が平均十センチ程度高くなります。勿論個体差がありますから、人間の平均身長より低いサキュバスはいますし、サキュバスより高身長の女性も当然います。これも完璧に見分ける指標とはなりません。
筋肉量はやや多めで、運動神経に優れるなど、スポーツへの適性があります。特に小学生ぐらいまでなら、男子にも負けません。現代の多くのスポーツ界で、サキュバスを人間と同じグループで参加させて良いのか、サキュバス部門を設けるべきではないかと議論されているのは、そのような事情があります。
ですがこれも、スポーツが上手い程度のものであり、全てのサキュバスがプロの世界で活躍出来る訳ではありません。むしろプロレベルまで行くと、人間と優位な差はないと言われています。成人になる事でも差は縮まり、十八歳を過ぎた頃には人間の男子よりも劣る水準となります。当然、運動音痴のサキュバスもいます。
性への関心は比較的強く、積極的です。この部分は他の特徴よりも顕著とされています。とはいえやはり個人差は存在し、異性への恐怖症や嫌悪症を持つサキュバスもいます。何よりあくまでも積極的なだけで、誰とでも性交をする訳ではなく、好まない相手との性的接触は不快に感じます。「サキュバスだから大丈夫だと思った」という言い訳をする性犯罪者が時折いますが、偏見を都合よく解釈した愚か者と言わざるを得ません。
そしてサキュバスもまた生物であり、その形質は遺伝子により左右されます。特定の遺伝子が選別される環境では、これらの特徴から逸脱する事は珍しくありません。
例えばキリスト教の影響が強い国の幾つかでは、アダム氏の発表を受け、サキュバスへの弾圧……虐殺が行われました。
この時サキュバスと人間の区別方法は国によって違い、中には『男を惑わす美貌』という国もあったのですが、結果人間とほぼ変わりない風貌のサキュバスが生き残る事となりました。現在でもその国のサキュバスは、他国のサキュバスよりも容姿の面では人間と大差ないと言われています。
唯一確実に言える特徴は、女性である
事。
サキュバスは全て女性であり、男性は現時点で一人として確認されていません。
サキュバスは女性だけの種である。
このように聞くと、ではどのように繁殖をするのか、と疑問を抱くでしょう。実際六十年前にもこの謎は存在しており、サキュバスの報告者であるアダム氏も分からないと論文に記しています。ですが近年の生物学の発展により、この謎は解けつつあります。
まず前提として、サキュバスは単為生殖を行いません。
繁殖の方法は、近縁種である我々人間と大きな違いはありません。異性を必要とし、
大きな違いがあるとすれば、性交相手が異種である人間の雄という点でしょう。
よくある偏見として、サキュバスとのセックスでは精を吸われる、寿命が縮むというものがあります。これは全く根拠のない迷信です。ここまで述べてきたように、サキュバスは人間にごく近い生物であり、超常的な能力は持ち合わせていません。そもそも精子というのは既に分裂した後の細胞であり、それを誰かに吸われたところで生命活動には影響しません。
性交により膣内に放たれた精子は、膣液など粘液内を泳ぎながら子宮内へと到達。その先にある卵管まで進み、卵子と結合する事で受精卵となりす。
卵子は必ずしもあるとは限りません。サキュバスの排卵周期は人間よりも短い二週間前後。生理周期は一月前後に一回程度ですが、人間の女性と同じく体調に大きく依存します。基礎体温などの変化はあまり現れない事が多く、月経時の体調も人間より良好な傾向がありますが、やはり個体差が大きいため一概には言えません。
卵子の寿命は人間と同じく、排卵後二十四時間。この間に精子と出会えなければ卵子は死んでしまいます。高齢化による卵細胞の劣化は人間より軽度とされていますが、それでも三十代後半から妊娠の成功率は著しく低くなります。ダウン症など障害児の発生率も高くなるため、高齢妊娠のリスクは人間と同じく存在します。
そして子宮の中で子供を育て、ある程度大きくなったところで出産に至ります。
さて。ここまで話を聞いて、一つ疑問に思ったかも知れません。
人間の精子と受精する部分で、そのままだと混血児が生まれるのではないかと。確かにこのままであれば、その通りになります。何百世代も重ねれば、遺伝子は混ざり合って人間と区別が付かなくなるでしょう。ですが人間とサキュバスは別種であり、遺伝子検査をすれば見分けられる程度の違いが今もあります。
この謎の答えは染色体にあります。
染色体とは複数の遺伝子が詰め込まれたものです。本で例えると、塩基と呼ばれるものが一つ一つの文字、この文字が集まって作られた単語がコドン、単語を複数繋げて出来た文章がコード、そして文章の纏まりである本が所謂DNAであり、染色体はこのDNAを格納する小さな本棚となります。
人間の染色体は二十三対四十六本ありますが、サキュバスでは二十四対四十八本と僅かに多いのが特徴です。この僅かに多い一対の中に、サキュバスと人間の違いとなる遺伝情報が全て含まれています。
この本数の違いが、サキュバスと人間が混ざりきらなかった理由です。
まず、人間の精子や卵子に含まれる染色体は二十三本です。減数分裂と言い、卵子などが作られる際、染色体の数が半減するようになっています。卵子と精子が共に半減しているので、結合すれば再び合計四十六本へと戻ります。このため人間同士の繁殖であれば、基本的には染色体が増減する事はありません。
対してサキュバスの卵子にある染色体は二十四本。こちらも減数分裂により半分に減っています。本来染色体に余りが生じるような組み合わせは、受精すら上手くいかないものです。ですがサキュバスの卵子は受精すると、余った一本の染色体のコピーが作られます。これにより不足分を補い、余りのないサキュバスの遺伝子として完成するのです。
この方法であれば、サキュバスにとって重要な遺伝子が人間の遺伝子で『汚染』される事はありません。人間と交雑しながら、種の遺伝子を守っていけるのです。
また二十三本の染色体は人間側と結合するため、父親由来の多様性も取り込めます。バリエーション豊かな子孫を残せるため、同じ遺伝子ばかりが増える単為生殖よりも、環境の変化に強いという利点があります。多様性が豊富である事が如何に重要かは、サキュバスの虐殺を行った国で、最終的にサキュバスと人間の見分けが付かなくなって達成出来なかった事が、皮肉にも物語っています。
この優れた生殖能力が、サキュバスが人間と共に暮らせた理由の一つと科学者達は考えています。
ここまでサキュバスについて、大凡人間と変わらない、少し変わった生殖様式の生物である事を述べてきました。やや人間より優れている点が多い以外、なんらかの差別が必要な存在には思えなかったでしょう。
ですがただ一つ、多くの人間には受け入れ難い性質をサキュバスは持ち合わせています。
この性質がなければ、サキュバスは人間にとってよい隣人となったでしょう。或いは古代人にとっては、大した問題ではなかったかも知れません。ですが現代の人間にとって、サキュバスのこの性質は嫌悪の対象であり、故に根強い差別があります。
それ故に一部のサキュバス友好派からは、この性質は偏見であり、嘘であるとの意見もあります。ですが現代のサキュバス学において、その意見は誤りです。サキュバスは確かに、多くの人間にとって好まれない性質を持っています。
この事実を否定する事は、ありのままの存在を受け入れないという意味では、偏見で差別する者達と変わりありません。それは黒人の肌を白く塗り、「彼等の肌は黒くない。故に差別すべきでない」と主張する者と同じなのですから。
現代の科学的見識によれば、大部分のサキュバスにはこのような性質があります。
それは子育てをしないという事。
自分の産んだ子供を、所属する社会にいる人間達に押し付ける――――これがサキュバスの最も特徴的にして、彼女達を『繁栄』させた生存戦略です。
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