第33話

桂は家に戻り、ジャージに着替えて店に顔を出した。店の中はいつもと変わらず満席で、ビーフシチューのいい香りが漂っていた。

「母さん、ちょっと走って来るよ」

桂が、厨房にいた涼子に声をかけた。

「こんな遅くに?夕飯は?」

「瞳と食べてきた」

桂が、にやけて言った。

「そんな人がいたのか?」

父親の幸太郎が、話に割り込んできた。

「そりゃあ、桂にだっているわよね。彼女くらい。年頃なんですから」

涼子が、嬉しそうに言った。

「行ってきます」

桂は、照れ臭そうに言って通りへ走り出した。

「気をつけてね」

桂の背中に、涼子の声が響いた。

「今度は上手くいくといいな」

幸太郎が意味深に呟いた。

「そうね。蒼依はフランスにいるんだから、大丈夫よ」

涼子が、笑って言った。

「だといいんだが」

それでも 幸太郎は、心配そうに言った。

学生の頃から、桂が好きになった女の子は、いつのまにか兄の蒼依と付き合っていた。それでも桂は、蒼依を尊敬しているし、自分がマラソンをやっていられるのは、蒼依が店を継いでくれるお陰だと思っていたので、蒼依を恨んだりする事もなかった。

桂は走りながら、瞳へのプロポーズの言葉を考えていた。

「指輪も買わなくちゃな」

桂の顔は自然と緩んでいた。指輪を買う店はもう決めていた。桂は今、自分ほど幸せな奴はいないと思っていた。

それから桂は毎日、勝つことだけを考えて走り続けた。タイムもどんどん縮まって、自己新記録を出していた。

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