無辜のバリスタ③

 段々と料理の匂いが部屋に漂ってきて、思わずお腹に手を置いた。どことなくスパイシーな香りがするが、薬膳に近い匂いもしてくる。昼もしっかり食べたはずなんだが、早くも胃袋が食べ物を欲しがっている気がする。

 俺は結構食うほうだが、キョウは食が細そうだし、リリィも体が小さいから大して食べられないだろう。アイも小柄なほうでましてや女性だから、俺より食べるとは考えにくい。これは急いで食わずにしっかり味わって食べていても、おかずの争奪戦になることはないだろう。小さいときはよく、姉ちゃんとおかずを奪い合っていたものだ。

 笑顔のままキッチンへと消えていったアイに、リリィがこちらに舌をべーっと出してからついていってから一時間ぐらい経っただろうか。お皿を持ったアイが、食卓に料理を運んできた。

「おまたせー」

 夕暮れになると暑さはやわらぎ、日中と比べるとかなり過ごしやすい。

 開いた窓から、心地よい夏風が頬を撫でる。それだけなら風情を感じて心も清らかになるというものだが、そうも言っていられない。

 目の前の円卓から、禍々しいオーラが放たれてる。いや、正確には円卓ではなくこの皿からか。

「もしかして、カレー苦手だった?」

 向かいの席でこちらの様子を窺っている一片の曇りもない瞳をみて、首を横に振る。

「い、いや。大好物だぜ?」

 カレーは大好物だ。カレー、は。

 自分でも顔が引きつっているのが分かる。

 隣にいるキョウを横目でみると、軽やかにスプーンを口に運んでいる。嘘だろ、おい。

 皿に視線を戻そうとして、さっきまでいたリリィの姿が見えないことに気付いた。

「おいキョウ、リリィはどうした?」

「そういえば姿が見えないな」

 キョウと一緒にきょろきょろと辺りを見渡す。皆の前にスプーンを置いていたアイがすぐに答えてくれた。

「なんかね、用事を忘れていたっていって飛んでいっちゃった。戻ってこれたら戻ってくるって言ってたよ」

 名残惜しそうに呟くアイを見て、俺の勘が鋭く反応する。


 ――あいつ、逃げたな!


 恐らく調理過程を垣間見て悟ってしまったんだろう。頭の中で、こちらに敬礼をしているリリィが容易に想像できた。

「そっかぁ、リリィ戻ってくるといいね」

「うん……。あ、ちゃんとリリィの分はとりわけて置いてあるから、気にしないでおかわりしていいからね!」

 俺に気を遣ってか笑顔を振りまく彼女に、微塵も悪意は感じられない。むしろ好意的でさえある。

「それじゃ、いただきます」

 キョウが両手を合わせたかと思うと躊躇なくカレーを口に運んだ。思わず様子を窺うが、何事もないように食べている。

「今日は一段と味に深みがある気がする」

「あ、分かる? さすがキョウだね!」

 二人が仲睦まじく話している。

 キョウは普通に食べているわけだから、きっと悪いのは見た目だけだ。

 禍々しい緑のカレールーに浸食された可哀想な白米をスプーンですくう。意を決して、口に放り込んだ。

 一口噛む。カレーだから辛いものだと思っていた俺は、早速出鼻を挫かれた。――苦いっ!

 口の中全体をなんともいえない苦味が襲った。と思ったら、苦味があっという間に消え去って辛味がくる。しかしその辛味もまた一瞬なもので、気が付くとまた苦味が顔を出す。旨味が顔を覗かせることはなかった。

 まるで波が押し寄せては引いていくように、苦味と辛味が口の中で激闘を繰り広げている。

「ど、どう? 美味しい?」

 俺の退院祝いとしてわざわざ作ってもらった食べ物を、不味すぎるとはいえるはずもなく、目をぱちぱちと瞬かせる彼女に向かって放った一言は、俺の心中とは全く別のものだ。

「めちゃくちゃうまいよ……ぐふっ」

「ほんと? 良かったー!」

 喜ぶ彼女を見てか、キョウも口添えする。

「いつも見た目に驚かされるけど、不味かったことはないよ」

 内心で嘘つけ、と突っ込みをいれながら、ようやく苦いような辛いようなよく分からない物体を飲み込んで彼を見る。ちょうど机の上に置いてある、気味の悪い色の飲み物を口に運んでいるのが見えて疑問に思った。

「キョウ、それ何を飲んでいるんだ?」

「これは期間限定のシチュードリンクだよ。ストロベリー風味のやつ」

「は?」

 自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。


 ――こいつら二人とも味音痴じゃねーか!


 その翌日、俺は通っている医療機関での検査にひっかかり、精密検査を行わなければいけないと切羽詰まった様子で言われたのは言うまでもない。

 

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