涙の理由

「……ん?」

 何か夢を見ていたような気がしたが、下腹部に違和感を覚えて目が覚めた。ついそのまま眠ってしまっていたようだ。時刻はまだ深夜のようで、部屋の中は暗闇に包まれている。

 外からは虫の鳴き声が聞こえるが、もっと近くから何か声がすることに気が付いた。

「……ぐすっ、うっ・・・・・・うぅ……」

「アイ?」

 ソファーで横になっている僕のお腹の部分に顔を押し当てて、アイがうめいている。暗がりでも、アイの綺麗な髪は月明かりを帯びて輝いていた。

 どうも、アイは泣いているみたいだった。服がじんわりと濡れていくのが分かる。

「アイ、どうしたの?」

 ゆっくりと体を起こして、アイの頭に手を添える。

 数秒の沈黙。

 しばらくして、ようやくアイが涙を拭いながら顔を上げた。目が赤く腫れている。それだけで、どれだけ泣いていたのかが容易に想像できてしまって心配になった。

「キョウ……。寝ようと思ったんだけど、眠れなくて」

 まなじりに涙が溜まって、零れる。頬に線のように涙の痕が残り、あの傀儡子が操っていた人形を想起させた。

「あのね、図書館で……急に人形に襲われたとき、すごく怖かったの。足が震えてうまく歩けなくて、声をあげようにも呼吸をするのが精いっぱいで」

 溢れる涙をどうにか押さえて静かに語るアイを見て、胸が締め付けられる。

「殺されるのかと思った。頭の中で、キョウ助けてって叫んでたの。声に出さなきゃ、聞こえるはずもないのにね。それでも、目を覚ましたときにキョウが目の前にいて、びっくりしちゃった」

 力のない微笑みを向けるアイの瞳は、涙のせいかいつもよりも輝いてみえる。

「アイ、もっと早くに助けてあげられなくてごめん」

「ううん、キョウに謝ってほしいんじゃないの。むしろ助けてくれたことがすごく嬉しい」

「……うん」

 いい言葉が見当たらない。アイは人質にとられたときの恐怖で眠れずにいる。何とか彼女を安心させようと考えを巡らすが、寝ぼけているのか一向に頭が回らない。なかなか二の句を継げずにいると、アイが口を開いた。

「助けてもらっておきながら図々しいかもしれないけれど……一つだけ、お願いしてもいい?」

 上目遣いでそんなことを言われては、断ることもできない。同時に、少しだけ頭脳が明瞭めいりょうさを取り戻した。

「いいよ、僕で良ければなんでも」

「じゃあ、今日だけ、一緒に寝てくれない?」

「えっ?」

 取り戻した思考が遥か彼方へ吹き飛んでいく。心臓がいつもよりも大きく脈打つのが、自分でもはっきりと分かった。

 アイは潤んだ瞳のまま小さな手で僕の服を握っている。心音が聞こえてしまうんじゃないかと更に焦った。

「だめ、かな。そうだよね、ちょっとわがままだった。ごめんね、キョウ。忘れて?」

「い、いや……。いいよ、一緒に寝よう」

 言葉にしてみるとより一層恥ずかしさが込み上げる。顔から火が出そう、なんていう表現はいまいちぴんとこないものだったのだが、まさに今がその状態だった。

 しかしそれでも、アイが望むなら叶えたいと思った。僕なんかといるだけで少しでも怖い思いをしないで済むならお安い御用だ。決してよこしまな考えが後押ししたわけでない。たぶん、きっと。

「ほ、ほんと? えへへ……じゃあ、ソファーじゃ狭いから、寝室に行こう」

 恥ずかしそうにしているのが声色で分かるが、細かい表現までは暗さのせいでよく分からない。多分、照れているんだと思う。僕も人のことを言えないけれど。

 アイは僕が立ち上がる時も服をぎゅっと握ったままで、鼻をすすっていた。


 寝室には久しぶりに入った。この家にはベッドが一つしかないため、僕はいつもソファーで寝るからだ。アイはいつも寝室で寝ているが、僕が寝込んでいたときはソファーで寝ていたのかと思うと申し訳なくなる。

 しっかりと片付けられている寝室では外の音はあまり聞こえず、時計の秒針が時を刻む音だけが響いている。アイはまだ僕の服を掴んだままだったが、僕が先にベッドに入ると、引きずられるようにして掛け布団に潜り込んだ。

 それにしても、アイにしては珍しく強引だ。

 突如、掛け布団からぴょこんと顔を出したアイと目が合う。これが因縁のライバル同士なら火花が散っているところだろうが、ただただやかましく心臓が活発に動くだけだった。

「キョウ……心臓の音、聞こえてくるよ」

「うっ、仕方ないだろ」

 冷静を装っていたつもりだったが、どうやらばればれだったようだ。アイは悪戯っぽく笑うとまた掛け布団の中へと潜っていった。

 異性ととこを同じにするなんて、きっと今までになかったからこれだけ心臓が脈うっているんだろう。ただ一緒に寝るというだけなのに、なんでこんなにも意識してしまうのか、本当に分からなかった。

 そんな僕の気持ちに拍車をかけるように、アイが突然僕に抱き着いてきた。声を発することもできず、図書館でアイがアテナさんにからかわれていたときのように、口をぱくぱくとさせる。

「ど、どうしたの、アイ?」

 掛け布団をめくると、アイの頭が見えた。顔をぎゅっと押し付けて、更にぐりぐりとまるで体の中に入り込もうとするように押し付けてくる。

 そしてまた、呻き声。

 アイは、泣いていた。

 さっきまでは収まっていた涙も、再びせきをきったように溢れてきて、どこにそんな水分があるんだろうと疑問にすら思う。

 グリモア魔法図書館での一見が、アイの心に深い傷を負わせたことは事実だ。今更どう足掻いたって、その傷をなかったことにはできない。

 傷口はそう簡単に塞がらないし、ことあるごとに疼く。人は嬉しかったり、楽しいことよりも、辛いこと、悲しいことのほうが記憶に強く残るらしい。トラウマになれば、辛い思いをするのは明白だ。泣いたところで、どうこうなるものでもない。

 ただそれでも、今は泣かせてあげよう。もうこれ以上、心に傷を負わせるようなことは僕がさせない。

 必死にしがみついて、声をあげて泣くその小さな頭を優しく撫でながら、強く心に誓った。

 アイは必ず、僕が守る。

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