小さな温もり

 先ほどの戦いが嘘のように、図書館に静寂が戻った。

「ジョヴァンニ、私……」

 アテナさんが顔を伏せて、ジョヴァンニの斬り落とされた右腕を見た気がした。赤黒い小さな血の水たまりが、点々と床に染みを作っている。

「なーに気にするなよ。これぐらい、朝飯前だろ?」

「馬鹿! もしかしたら腕だけじゃ済まなかったかもしれないのに……!」

 涙をこぼすアテナさんを、ジョヴァンニが優しく抱擁した。

「おいおい、誰の弟だと思ってんだよ。死ぬわけないだろ、全く」

 そういう彼の瞳にも涙が滲んでいたのか、微かに光ったように見えた。

 気が付くと、不正な侵入者を排除したのを防衛システムが察知したのか、図書館は元の姿に戻りつつあった。侵入者はあの傀儡子一人だったようで、ほっと胸を撫で下ろす。

 どうやら事態はかなり深刻だったようで、足早に救護班らしき人たちが現れて怪我人を探し回っている。きっと町からここまで飛んできたのだろう。

 ジョヴァンニは思ったよりも平気そうにしていたが、疲弊してとてもじゃないが空間移動どころではなさそうだ。救護班が迅速に対応して、彼は担架で運ばれていった。

 アテナさんはというと、ジョヴァンニに心配するな、と怒られてから涙を拭うと、元の凛々りりしい表情に戻り、賢者の石の無事を確かめにいった。彼女は確かに強いが、強いがゆえに火力で押し切る癖がある。今回のように小細工をろうする敵とは相性が悪かったかもしれない。

 それにしても、片腕を斬り落とされたというのに悠然と振舞い、姉を折檻せっかんしたジョヴァンニに脱帽した。肉体のみならず精神面でも丈夫にできているらしい。あの場面で迷わず空間移動を使って敵を抑え込むなどとは、僕には到底真似できそうもなかった。あんな姿を見せられては、アテナさんはもう彼を愚弟扱いなどしないだろう。

 そう思いながら、僕の膝の上で気を失ったままのアイに視線を落とす。数名の救護班はジョヴァンニを運んでいくのが精いっぱいで、こちらに寄ってくる者はいない。

 アイは一定のリズムで呼吸しており、心音もする。見たところ衣服が少し汚れてしまっているが、命に別状はないだろう。しかしアイが腕を掴まれてぶら下がっていたのを思い出して、袖を捲ってみると、人形に掴まれてできたあざが浮かんでいた。アイの息遣いこそは安らかだが、まるで僕の無力さをあざ笑うかのように酷く、くっきりと浮かんだ痣は直視することが出来なくてすぐに袖を戻した。

 二の腕から目を背けると同時に、閉ざされていた瞼がぴくりと動いた。

「あれ? 私……あ、キョウ?」

「アイ、気が付いた?」

 悔しさを押し殺し、心配させないように笑みを浮かべてみる。はたから見たら酷く滑稽こっけいな笑みだったかもしれない。

 アイは何度か目をこすって、ぱちぱちとまるでまばたきの練習をしているように僕の目を覗き込んだ。

「大丈夫? どこか痛いところは?」

 必死に容態を確認しようとしたところで、急にはっと驚いたようにアイが飛び起きた。どうやら僕の膝に体重を預けて横になっているという状況に恥ずかしさを覚えたらしい。頬を赤く染めて、もじもじしながら周りを見渡している姿が何だか小動物のようにみえて可愛らしく思った。

「あ、あのえっと……私何をしていたんだっけ」

 アイは、アイスを舐めるように舌を小さく出して首を傾げている。僕はまだ紅潮こうちょうしている頬に視線を送りながら答えた。

「この図書館に、侵入者が来たんだ。それで、図書館が迷路みたいになって……」

「……あっ」

 途端に、目を見開いたかと思うと今度は怒られたかのようにうなだれる。自身に起きたことを思い出したのかもしれない。表情が豊かなのはいいけれど、顔の筋肉が疲れるんじゃないかと思う。

「アイはどうして図書館にいたの? 買い物に行くって言っていたのに」

「……えっとね、キョウが家にある魔導書をほとんど読んじゃったのに気付いていたから、何か借りていこうかなって思って」

 アイは怯えたように俯いて、上目遣いでこちらの様子を窺っている。

 正直、驚いた。

 いつも本に集中していたせいであまり気にしていなかったが、僕のことを気にかけていてくれたのか。そうとも知らずに、呑気に生活していた自分を恥ずかしく思った。

 僕は、彼女のことをよく見ていただろうか。

「ごめんね、僕のために図書館に来たばっかりに」

「キョウが謝ることはないよ! 悪いのは、その侵入者でしょ?」

 アイはそういうと今度は優しく僕の手を握ってきた。

「ありがとう。キョウが助けてくれたんでしょ?」

 さっきとはまた違った様子で、ほんのりと頬が赤く染まっている気がした。つい観察してしまう自分の心境が、よく分からなかった。

 正確には僕が助けたというよりも、アテナさんとジョヴァンニのおかげなのだが、とりあえず頷いておく。若干の見栄を張ったのだが、アイにはバレているかもしれない。

「ところで、キョウこそなんで図書館にいるの?」

「あ、そうだった」

 うっかり当初の目的を忘れるところだった。ポケットをまさぐって、すっかり折り目のついてしまった封筒を取り出す。幸い、破けてはいなかった。

「封筒?」

「うん。これを開けるために、解錠の魔導書を探しにきたんだ」

「こんなにいっぱい魔導書があるのに、どこにあるのか分かるの?」

「ええと、アテ――カウンターにいた人に教えてもらった。三階の『E』の本棚にあるって」

「三階ね。じゃあ一緒に探そうよ」

 さっきまで気を失っていたのに大丈夫なのかと思ったが、軽々と身を起こして意気込んでいる。きっと大丈夫なんだろう。

「よし、行こうか」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る