賢者の石

 どれぐらい歩いただろうか。四方八方から聞こえてくる本棚の軋む音にもすっかりと慣れてしまった。

 もしかしたら、もうここから出ることすら出来ないんじゃないかという不安に駆られるが、先頭を歩むアテナさんの悠然とした動きがそれを掻き消す。何とも心強い味方である。

 ジョヴァンニとはぐれた時のようになってはいけないので、自然と彼女との距離は近くなった。歩くたびに整った長い髪が左右に揺れて、仄かにシャンプーの香りが漂う。もうすでに焦げ臭さはなかった。

 長いことその赤髪に目を奪われていると、急に髪の揺れが止まった。うつつを抜かしていたせいで背中にぶつかり、柔らかい髪の感触を顔で受け止める。

「す、すみません」

「…………」

 慌てて謝罪するも、アテナさんは特に反応することもなく、どこかに視線をぶつけている。

 彼女の視線を追うと、本棚に僅かな隙間がありそこから小さく緑色の淡い光が漏れていることに気付いた。

「なんでしょう、あれ」

「賢者の石よ」

「え?」

「このグリモア魔法図書館にある賢者の石は、翡翠ひすいの石なの。恐らく、その光だと思うわ」

 図書館にある賢者の石は、という言い回しに引っかかる。三賢者の像に賢者の石があると言っていたジョヴァンニの言葉を思い出し、石はきっと三つあるのだろうと想像した。

 そしてここ、グリモア魔法図書館にあるのは、翡翠の石。

 すぐに別の本棚が行く手を阻むように移動して、緑光りょっこうの輝きは目に見えなくなった。

「大体の位置は分かったわ。本棚は動いているけれど像は動いていなさそうね。あっちの方角に進みましょう、キョウ君」

 アテナさんはすぐに移動を開始して、光が漏れていた本棚の傍に向かう。

 その瞬間、鳥肌が立つような、嫌な金属音が聞こえた気がした。

 幻聴ではない。

 アテナさんの真上。

 人形が急降下してくるのが見えた。

「アテナさん!」

 咄嗟に魔法を詠唱することが出来ずにただ立ち尽くしていると、アテナさんは振り返ることもせずに走り出し、眼前の本棚を蹴り上げてバク宙した。一瞬だけ視界に捉えることができた彼女の口元が小さく動いており、魔法を詠唱していると悟った。

 間髪入れずに火の粉が舞い上がり、彼女の背丈と変わらないほどの大きな鎌が現れる。遠心力ですぐ近くまで迫っていた人形を斬り裂くと、木で出来ている人形は真っ二つになり、その狭間にアテナさんが優雅に着地した。

 がちがちと音を荒げて再生しようとする人形に、鎌の柄を押し当てたかと思うと炎が燃え広がる。まさに、瞬殺。絶対に敵に回したくないほどの強さである。

「はぁ、せっかちな人は嫌いなのよ」

 アテナさんが余裕綽々よゆうしゃくしゃくと髪を掻き上げる。その仕草に見惚れていると、僕の背後から男の声が飛んできた。

「いやっはっはっは! 素晴らしい、実に素晴らしいよ!」

 濁声だみごえで彼女を賞賛しょうさんしているのは、人形が着ていたものと同じローブを羽織った中年の男性だった。頭は坊主で、骸骨のように瘦せこけた左頬の辺りに赤い星型のタトゥーが刻まれている。フードは被っていないものの、ローブのせいで上半身はよく見えない。僅かに見える足はかなりやつれていて頼りなくみえた。

 ローブの男性は何がおかしいのか汚らしく涎を垂らし、拍手までしている。

 いつの間にか僕の横に来ていたアテナさんが僕に耳打ちした。

「隣国の傀儡子くぐつしよ。あの赤い星型のタトゥーが見える?」

「そこはかとなく、ださいですね」

 確かにタトゥーはあるが、あれが隣国を象徴するものなのかは知らなかった。

「この非常事態に、隣国の傀儡子。グリモア魔法図書館がこうなっているのは、どう考えてもあのガリガリ野郎のせいだわ」

「もしかして、賢者の石を狙いに?」

「そうかもしれないわね。この国には、三つの賢者の石がある――というのは知っているわよね?」

「まぁ、そうかなとは思ってました」

「新しい王に代わってから、賢者の石は全て王が管理することになったのよ。そしてその抑止力で他国の治安までも平和に保っているんだけれど、王の側近である大臣が暗殺されてからかな……。賢者の石を奪おうとする不逞ふていな輩が現れ始めたってわけ」

 賢者の石がどれほど凄いものかは曖昧だが、少なくともこのグリモア魔法図書館にある賢者の石は空間を圧縮し、自身に危機が迫れば防衛策として図書館全体を立体迷宮にする程度の力はあるということだ。

「じゃあ、あの傀儡子を倒したらこの図書館は元に戻りますかね?」

「敵が一人だとは限らないわ。それでも、試す価値はあるわね」

 アテナさんは手に持っている大鎌を持ち直して髪を掻き上げる。試す、ということはすなわち、傀儡子を倒す自信があるということだ。先ほどの戦闘を見せられたあとでは十分に頷ける物言いだが、快哉かいさいしている傀儡子からも、また強者たるオーラが感じられた。

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