戻らない記憶

 一週間ほど寝込んでいた彼が目を覚ましたり、リリィという妖精に魔法で解毒薬を作った騒々しい日から、早くも一週間が経とうとしていた。

 一緒に生活を始めて分かったのだが、彼は思ったよりも出不精でぶしょうで起きている時間はほとんど家で読書をしていることが多かった。ルーン文字で書かれている魔導書まで読んでいたので、もしかしたらそこそこ頭が良いのかもしれない。

 私はというと、掃除に洗濯、炊事に買い出しといった家事の全般を進んで行っていた。特に料理なんかは、彼が美味しいといって食べてくれるので、とても作り甲斐がある。

 そして最近、家事をしていると彼が手伝いにきてくれるようになった。もちろん、洗濯以外で。

 彼は居候という身でもあるが、寝込んでいたことや記憶喪失ということもあって少し心配だったが、あれ以来体調を崩すこともないので一緒に家事をすることも増えつつある。

 今日もいつも通りに彼と昼食をとり、洗い物を片付けてから椅子に腰掛けた。

 しばらく外の様子を眺めながら、考える。一体彼はどこからきた何者なのか。そんなことを考えても答えが出ないのは分かっているのに、どうしても考えてしまう。一度、二人で町にいってみるのもいいかもしれない。ちょっとしたことがトリガーになって、記憶が戻るなんていうことも、ないとはいえないだろう。

 ことん、と目の前にコーヒーカップが置かれた。

「お疲れ様、アイ。コーヒーここに置いておくよ」

「あ、ごめん。ありがとう」

 湯気が立ちのぼるコーヒーカップの傍らには、小さなスプーンとスティックシュガーが一つ。私の好みをよく理解してくれている。何だか気恥しい気持ちになりながら、黒い液体の中に砂糖をいれてぐるぐるとかき混ぜた。

 そういえば、彼がコーヒーを淹れるのも随分とうまくなったような気がする。最初は淹れ方も分からないといっていたのに、教えるとすぐに覚えてテキパキとこなす。料理も同じで、何でも器用にこなす彼は素直にすごいと思った。

「一週間ぐらい経つけど、リリィなかなか来ないね」

 彼がコーヒーを半分ほど飲み終えてからぽつりと呟いた。

「そうだね、お婆さんはよくなったのかな」

「それは大丈夫だと思うよ。アイがあんなに頑張ったんだから」

「……だといいけど」

 私は苦笑して、コーヒーを口に運ぶ。

 その時ちょうど、玄関のドアを誰かがノックした。玄関をノックされることなど滅多にないので、ついコーヒーを吹きかけてしまった。

「げほっ、だ、誰だろう」

「アイ、大丈夫? 僕が見てくるよ」

 彼が立ち上がって玄関のドアを開ける。噂をすれば何とやら、訪問者はリリィだった。

「久しぶり! 急に来ちゃったけど、大丈夫だった?」

 相変わらず元気そうに羽を動かした後、リリィは彼の肩の上に座った。

「大丈夫だよ、いつも暇だから。それより、お婆さんの体調はどうなったんだ?」

 彼が肩にとまっているリリィに視線を向けながら訊いた。

「おかげさまでばっちり! それでね、お礼がしたいから連れてこいって言われてお迎えにきたの」

「お礼だなんてそんな、元気なのが分かれば私はそれで……」

「ううん、あのね。お婆ちゃんって、実は少し変わってて。こいつが記憶喪失かもしれないんだって話をしたら、あたしなら分かるっていうの」

 私が解毒薬のために魔導書を取りにいっているあいだに、彼とリリィは記憶喪失のことに関して話をしていたみたいだ。こいつ、と言われた彼は私のほうを見ながら首を傾げている。

「どういうこと?」

「うちのお婆ちゃん、人間の過去を見たり、託宣たくせんっていってお告げをしたりもできるの」

「過去が見えるってつまり……それで僕のことが何か分かるかもってこと?」

「うん、そういうこと」

 リリィはいつになく真剣な様子で頷いた。

「まだ何も思い出せていなくて、あんたが知りたいって思うなら来ない?」

「確かに僕はまだ全然何も思い出せないけれど……本当にその、過去がみれたりなんてことがその人に出来るの?」

 彼はまだ半信半疑といった様子だ。リリィがひらりと再び空を舞う。

「胡散臭いかもしれないけど、妖精の中にはたまにいるの。お婆ちゃんみたいな凄い妖精がね」

 リリィの口調と性格からして、冗談を言っている様には見えなかった。

「行ってみようよ」

 私が促すと、彼は少し悩んでいたが、やがて覚悟を決めたように頷いた。

「分かった。じゃあ、準備してくるよ」

 私も、残っていたコーヒーを飲み干して、外に行くときはいつも身につけていくマントを羽織る。大きめのマントは彼が着ると丁度いいぐらいのサイズで、私が着ると若干地面を擦ってしまう。

「ほんとに、良かった?」

 リリィが手持無沙汰なのか、支度をする私の周りを飛び回っている。追っていると、目が回りそうだった。

「うん。彼のためにありがとね、リリィ」

「へへへっ」

 私は何も適当に答えたわけではない。一週間も経つが自分の名前も思い出せないという彼のことが心配でならなかったのだ。少しでも、何か手がかりになるようなことが見込めるならば、行ってみるべきだろう。お節介だと思われなければいいけれど。

「よし、行こっか!」

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