あやふやな記憶

 一週間ほど彼が眠りこけていた寝室は、心なしか寂しい空間に思えた。置きっぱなしの椅子も、役目を終えた今はただの障害物に成り果てている。

 私は寝室で圧倒的な存在感を誇る本棚の前に立ち、しっかりと整理整頓されている魔導書を確認した。

「えっと、確かこの辺りに……あ、あったあった」

 本棚から目当ての魔導書を取り出す。中身を流し読みして再度確認していると、抑え込んでいた不安が浮かび上がってきた。


 ――私は、うまく魔法が使えるのだろうか。


 魔法の発動方法は、魔導書に懇切丁寧に記載されている。したがって、あとは体の中に宿る魔力を一定量練り、必要な手順を踏まえたうえで呪文を詠唱して発動させる。ましてや、今回試すのは薬学術の基本中の基本である調合の簡略化魔法だ。

 何事もなく無事に成功すれば、たったそれだけでリリィのお婆さんを救うことができるのだ。そう、たったそれだけ、それだけできれば……。

 それに、別に魔法が失敗したところで、この程度の魔法では被害もないだろう。ただ無駄に魔力を消費するだけなのだ。万が一のときには、大人しく時間をかけて調合すればいい。魔法使いとしての矜持きょうじは、捨てることになるが。

 冷や汗が背筋を伝う。もし出来なかったらどうしようという悪い方向にばかり気がいってしまう。

 そもそも何故、私は魔法使いだという記憶があるのか。私はいつからここに住んでいるのか。そして私はいつ産まれたのか。過去を知ろうとすればするほど、思考回路が滅茶苦茶になる。まるで、脳みその中にある『記憶』の部分をスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜているような――。

 そんな得体のしれない気分にさいなまれて倒れ込みそうになったその時、温かい何かが私の肩に触れた。

「アイ、大丈夫?」

 顔を上げると、彼が心配そうな表情を浮かべて立っていた。彼の手を借りて、何とか姿勢を維持する。

「だ、大丈夫……。ちょっとだけ不安になっちゃって」

 精一杯見繕って笑ってみるが、彼の表情は晴れない。私は今そんなにひどい顔をしているのかと、ますます不安になった。

 彼には私の見栄などお見通しなのか、腕を掴まれてベッドに案内された。そして隣に座ると、私の手から魔導書をひょいと取り上げて一枚一を神妙な面持ちで読み始める。真剣な彼の邪魔をするのは気が引けたが、意図を察して言い添えることにした。

「あのね、魔導書に書かれている内容は魔力がないと真似することはできないの」

 そう、決して同じ状況下であっても魔力の有無によって変わってしまう。それに、魔導書は特殊なルーン文字で書かれている。最低限知識がないと、まず読むことすらできないのだ。

 一般的に魔力というものは、生まれながらにして持ち合わせているか、他者の魔力を使い強引にねじ込むしかない。後者はとても苦痛を伴うとされている。苦痛、と一言でいうのは簡単だが、実際はその代償ゆえに魔力に体をむしばまれて腐敗する。正確な論文が発表されているわけではないが、魔力に耐えうる体を持ち合わせていない、あるいは魔力にも血液のように種類があり、合う合わないがあるのかもしれないと数多あまたの憶測が飛び交っていた。

 また、練れる魔力の量にも個人差がある。といったこれらの知識は、魔法アカデミーに通っていれば周知の事実である。しかし残念ながら、私が無事に卒業したという記憶はあったが、アカデミーでの生活はしゃがかかったように思い出せなかった。

 私は考えるのをやめた。何か思い出せるかもしれない、と思ったけれど、これ以上思い出そうとするともっと気分が悪くなりそうだった。

「もし、僕にも魔力があれば薬を作ることができるんだよね?」

 彼は再度、確かめるようにこちらを窺う。

「簡単な魔法だから、できなくはないと思うけど危ないよ」

「……そっか」

 彼に気を遣わせたくないという想いが、いつしか心に芽生えていた。

「さぁ、もう大丈夫。リリィのところへ行きましょう」

「これに載っている魔法をやるんだよね、できるの?」

「分からない……。けど、やってみるよ」

 私は具合が悪いのを悟られないよう努めて冷静に、リリィの待つ部屋に向かう。彼はもう何も言わずに、私のあとをついてきた。

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