魔法使いの春

不穏な裏庭

 私は俗にいう、魔法使いである。

 しかし、なぜ魔法使いになったのか、いつから魔法を使えるようになったのかと問われると困る。全く覚えていないというと嘘になるが、記憶が混濁こんだくしていてはっきりと思い出せないのだ。

 例えば、魔法使いであるという記憶があるだけで、実際に魔法を使っている場面は思い出せない。そして今、この場で魔法を使ってみせてみろと言われても、魔導書がないと何をどうしたらいいのか分からないのだ。

 そんな私の目の前に、似たような境遇の男がいる。

 使い古していそうな灰色のローブに、寝癖のひどいぼさぼさの髪の毛は青みがかった黒色。あんなに眠っていたというのに、何だかまだ眠そうな顔をしている。それでも、どこか不愛想な三白眼の瞳はどこか懐かしさを覚えるものだった。

 今にもまた長い眠りにつきそうな彼は、私とは比にならない重度の記憶障害のようで、自分の名前も思い出せないらしい。誰かも分からない男性を家にあげるなど不用心極まりないが、何日も寝込んでいたし、何より私が作ったシチューを美味いと言いながら全部平らげてしまった彼を、悪い人だとは思えなかった。

「うっ、苦い……」

 先ほど淹れてきたコーヒーを口に運ぶと、思わず声が漏れた。彼のほうを見てみると、何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいる。同じブラックを飲んでいるはずなんだが、彼は平気のようだ。それに、シチューを食べているときは熱かったからか汗をかいていたのに、今はどこか涼し気である。

 仕方なく、コーヒーを甘くするためにスティックシュガーを取りにキッチンの戸棚へと足を運ぶ。

 私の背丈よりも高い位置にある戸棚をつま先立ちで何とか開く。その姿勢のまま目を凝らすと目当ての物が見えたが、手をいくら伸ばせど届く気配がない。

 椅子を持ってこないと無理かなと考えながらしばらく悪戦苦闘していると、不意に背後に気配を感じた。かかとを床につけて振り返ろうとしたところで、急に何かが覆いかぶさってきたように感じた。

「ひゃっ!?」

 本日二度目である驚きをあらわにして、思わず目をぎゅっと閉じて身を固める。すると、私の驚きなど気にもしない様子で上から声が降ってきた。

「はい、これでしょ?」

 降ってきた声に目をしばたたかせると、彼の手にお目当てのスティックシュガーが握られていることに気付いた。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして。取れないのあったら、言ってね」

 私が小さく頷くと、彼はうっすらと笑みを浮かべながら戻っていった。その手にはスティックシュガーが一本。なんだ、てっきりブラックが平気なのかと思っていたのに、彼も本当は砂糖が欲しかったらしい。

 それにしても彼は優しいな、と思う。それに、彼のあの微笑みを、私は見たことがあるような気がしていた。

 そこで自分の頬が、ほんのりと熱を帯びていることに気付く。胸の鼓動が普段よりも早い気がするのは、きっと急なことで驚いたからだと自分に言い聞かせて、受け取ったスティックシュガーを握りしめながら深呼吸する。

 テーブルのほうで、いぶかしげな様子でこちらをうかがっている彼が視界に入ったが、それどころではない。何回か深呼吸を繰り返して、ようやく落ち着きを取り戻し、冷めないうちにコーヒーを飲もうとテーブルへ向かおうとした。


 ――がさっ。


「え……?」

 裏庭から、人か動物が通ったような音が聞こえた気がした。

 窓から、裏庭の様子を覗いてみる。そこまで手入れをしているわけではないが、滋養じように良い薬草や、木の実などが沢山生えており、栄耀えいよう栄華えいがを極めている。

 とはいえ、こんな辺鄙へんぴなところに人がいるわけがなく、心配は杞憂きゆうに終わるかと思ったが、どうやらそういうわけにはいかないみたいだ。

 昨日までは実っていた木の実が見当たらない。

「もしかして、泥棒……?」

 木の実は薬や料理にも使えるもので、市場で売れば小遣い程度にはなるだろう。それに、動物が食べることもある。しかし、こんなに綺麗さっぱり木の実だけを食べるだろうか?

 もう一度隈なく裏庭を眺めるが、窓から見える部分は限られている。様子が気になって、コーヒーどころではない。

 一人で裏庭に行くのも何だか気が引けるので、のんびりとティータイムを堪能している彼に事情を話して、一緒に裏庭に向かうことにした。


 外はまだ少し風が肌寒いものの、空高くに輝く太陽のおかげでそれほど気にならなかった。

 彼の後ろにひっつくようにして、裏庭へ向かう。彼は、物音の正体が何かも分からないのに怯えている様子もなく、黙々と歩くので勇気があると思う。後ろでびくびくと怯えている自分が、少しだけ情けなく思えた。

 そんな私を脅かすように、がさりとまた音がした。

 彼も音に気が付いたのか、音のしたほうへ目を向ける。

「こっちだ」

 音の正体を確かめるべく、草木を分けて進んでいく。万が一、何かあったら私が魔法で対処しなければと考えていたが、どうやら今度こそ杞憂だったらしい。

「ぎゃー! 誰か助けてえー!」

 甲高い声が耳朶じだに響く。

 その声の主は、蜘蛛の巣に絡まりもがいている小さな妖精だった。

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