魔法使いの四季

霧氷 こあ

魔法使いのプロローグ

出会いは必然に

 横なぐりの雨が、窓を叩く音で目が覚めた。

 頭痛がひどく、重たい瞼を開けるのがやっとだった。今自分がどこにいて、何をしていたのかすらはっきりとしない。何とか思い返そうとしたが、正しい思考すらままならない。

 薄暗い部屋の中、どこかに明かりがあるのか、うっすらと浮かび上がる見知らぬ天井が見えた。どうやら僕は、ベッドに横になっているようだ。

 ほんの少し顔を上げると、すぐ横に誰かが座っていることに気が付いた。

 かすみがかった視界に、長い髪が映る。髪を耳にかける仕草をみて女性だということが分かった。いや、小柄なシルエットからして女性というより、少女かもしれない。

 少女はこちらの視線に気が付いたのか、鷹揚おうように立ち上がると、ガラス細工のような綺麗な瞳で僕を見据えた。

 視界の隅から、華奢きゃしゃな腕が伸びてくる。薄明りのおかげで、白い肌が見えた。あまり熱を感じない小さな手が、僕の頬を優しく撫でる。

「…………の、……い……ょ……ぶ?」

 小さな声が鼓膜を震わすが、何を言っているのかまでは理解することが出来なかった。何か答えようと息を吸い込み、声を発しようとしたが、気持ちばかりがいてうまく声が出ない。

 気が付くと、目の前が真っ暗になっていた。明かりが消えたのではない。まるで鉛のように重くなった瞼が邪魔をしている。

 少女の声はもう聞こえない。次第に、窓を叩く雨音すら遠ざかっていく。このままでは眠ってしまう。

 睡魔に抗うこともできず、僕は眠りのふちへといざなわれていった。




          *          




「ねぇ、どこに行くの?」

「着いてからのお楽しみよ」

「もったいぶらないでよ」

「だってもう着くんだもの。ほら」

「わぁ、すっごーい!」

「綺麗ね……」

「うん! 来てよかった!」

「しばらく会えなくなるけれど、我慢できる?」

「うん……。僕、良い子で待ってるよ」

「ありがとう、ごめんね……」




          *          




 次に目を覚ましたとき、雨はすっかり止んでいる様だった。

 わずらわしい雨音はどこかへ遠のき、窓から差し込む柔らかな陽と小鳥のさえずりが、部屋を明るく包み込んでいる。

 僕は体を起こして、部屋を見渡す。

 寝室と思われる木造の部屋は、四畳半ほどの広さで、すぐ視界に入ったのは大きな本棚だった。他にあるのは、明かりを灯していないテーブルランプと、壁掛け時計。時計の短針は八を指していた。

 ベッドの脇には、こちらを向いて置かれている椅子が一脚、不自然に存在している。そういえば、誰かがこの椅子に座っていた気がする。それは夢だったのかどうなのか、はっきりとしない。寝起きの鈍った思考をフル回転させていると、美味しそうな香りが鼻先を掠めた。

 ぐぅ、とお腹が鳴って、あっという間に思考を遮る。なんだか、しばらく何も食べていない気がした。こんな状態で物思いにふけるよりも、空腹を満たしたほうが良さそうだ。

 何とか結論を導き出した脳みそが体に信号を送り、ベッドから腰を上げる。一瞬立ち眩みがしたが、こうばしい香りにつられるように扉へ向かった。

 扉の先は、馥郁ふくいくたる香りが立ち込める部屋だった。壁が煉瓦で覆われている。陽射しのせいか温かい部屋の奥にキッチンがあり、金色の髪をした少女が何かを煮込んでいた。僕に気付いてはいないようで、小さく鼻歌のような声が聞こえてくる。

 少女は、ロッジのような内装の部屋とは不釣り合いなゴシック系のワンピースのような服を身に纏っており、背丈は僕よりかなり低いように見える。つま先立ちで鍋をかき回している少女に何故か既視感を覚えつつも、とりあえず声をかけることにした。

 ところが、声がれて上手く言葉にならない。思わず喉に手を当てて、軽く咳払いする。

「ひゃっ!?」

 その音で僕の存在に気付いた少女が、素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。

 驚いた表情でこちらを振り返った少女のガラス細工のような瞳を見て、僕は恐らく昨晩であろう出来事を鮮明に思い出した。ベッドの脇にあった椅子は、僕を看取っていたからか。

 少女は深呼吸をしながら作業を中断して、キッチンからこちらに歩み寄ってくる。先ほどとは打って変わってにこやかな表情だった。

「びっくりしちゃった。おはよう、具合は良くなった?」

 訊きたいことは山ほどあったが、無垢な笑顔で挨拶をされては、返さないわけにはいかない。

「おはよう。多分……もう大丈夫だよ」

 少女はほっとした様子で胸を撫で下ろす。不思議と、初対面とは思えない安心感を孕んでいるように感じた。

「君ね、覚えているか分からないけれど、気付いたら玄関先に倒れていたの」

「玄関先に?」

「うん。この家はね、人の寄り付かない結構森の深いところにあるんだけど、探検でもして迷い込んできちゃったのかなって思って……覚えている?」

 僕は目を閉じて記憶を辿った。しかし、まるで眠る前の記憶をキリトリ線で綺麗に切り取ってしまったかのように、何も思い出せなかった。それにしても、森の奥にある知らない家の玄関に倒れていたとは、どういう状況なんだろう。

「……全然、覚えてないや」

 ところで君は誰なの、と続けて訊こうとしたところで、またお腹が鳴った。どうやら僕のお腹は空気が読めないらしい。

 お腹に手を添えて、また咳払いする。少女はそんな僕の様子をみてくすりと笑うと、きびすを返した。

「この話は後にして、まずはご飯にしようか」

 そう言いながら、ことことと音のする鍋の方へと戻っていく少女の後ろ姿をまじまじと見つめる。さっきは遠目でよく分からなかったが、黒を基調としたワンピースは襟首やスカートの先が白いフリルになっている。そこから伸びる脚は溶けそうなほど白く、雪のように儚げでもあった。

「そうだ、大盛のほうがいいよね?」

 不意に振り向いた少女が、小さく首を傾げる。その動作に合わせて、明るい金色こんじきの髪がなびく。その髪に花をかたどったヘアピンが付いていて、窓から差し込んだ陽射しを浴びてきらりと輝いた。花のヘアピンは、少女の性格を表すように満開に咲いている。

「うん、沢山食べられそう」

「はーい」

 少女は気持ちのいい返事をして、再びキッチンへ向かう。何か手伝おうかと一歩前に踏み出したが、空腹でそれ以上動けなかった。

 ついさっきまで寝込んでいたんだから仕方がない、と自分に言い聞かせて、近くのテーブルがある椅子に何とか辿り着き、腰掛ける。

 ふと、玄関側にある窓の外に目を向けると、花の周りを飛び交う蝶々が見えた。先ほど、この家は森の奥深くにあると言っていたけれど、一体どこなんだろう。

 考えを巡らせていると、一つの重大な疑問が頭に浮かんだ。


 ――あれ……僕は、誰なんだ?


 視線を窓から少女の方へと移動させる

ちょうど、二つの食器を抱えてテーブルに近づいてくるところだった。二つの食器のうち、大盛のほうが僕の目の前に置かれる。中身は……ん、なんだこれ?

 どろっとした紫色の『何か』が、まるでマグマのようにぼこぼこと気泡を作っている。休むことなく現れる気泡に見え隠れして具材が顔を覗かせるが、肉か野菜かすら分からない。

 僕が何者なんだろうという疑問よりも先に、この食べ物のことを知るほうが重要に思えた。

 具材たちの悲鳴が聞こえてきそうな『何か』の正体を掴むべく、向かいの席に腰かけて満足げな表情の少女に声を掛ける。

「あの、つかぬ事を伺いますが、今日の献立は?」

 少女は小さな手を合掌して「いただきます」と呟くと、こちらには目もくれずに紫のマグマにスプーンを差し込んだ。

「何って、シチューだよ。食べたことないの?」

 もちろん、シチューは知っている。しかし、にわかには信じがたい言葉だった。

 少女の皿からひと際大きく、ぼこっという音と共に飛沫が舞う。

「あ、遠慮せずに沢山食べてね。いっぱいおかわりもあるから!」

 僕は苦笑しながら視線を手元の皿に落とす。地獄を連想するようなシチューをみて、死中しちゅうに活を求めるとはこういうことかと、ひとりごちた。

 意を決してなんとかスプーンを入れてみたものの、口に運ぶ勇気が湧かない。時間稼ぎのためだけに、訊きたかったことを質問してみることにした。

「ところで、君の名前は?」

 ちょうど少女が具材――恐らくジャガイモ――をスプーンに乗せて口に運ぶところだった。

「そういえば、まだ名乗ってなかったね」

 少女のスプーンが皿に戻されることで、ジャガイモは地獄へと還る。ごめん、ジャガイモ。

「私の名前は、アイっていうんだよ」


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