身の上話とビール
雛形 絢尊
第1話
彼はいつも同じビールを頼んでいる。
私もひとりで、彼もひとりだ。
街を統べるような力など持たない、
たかがひとひらの人間なんだ、
なんで非力な弱虫なんだと
私は常に肩を落としている。
要は単純に打たれ弱いのである。
些細なことで傷付いてはまた傷ついて
そんな毎日をこのビールで紛らわしている。
彼はカウンターを横目にして
私に声をかけてきた。
「この店のビールは妙にうまい」
私はそう、人見知りが炸裂し、はい、と返す。
「お客、いつもそこでビールを飲んでるな」
こくりと私は頷く。
「誰かと呑まんとつまらなくないか?」
私はいえ、と切り返す。
彼は丸いテーブルに置いたビールを取り、
私の席の隣に座る。
「俺はもう先が長くない、
とかいう俺もひとりだったな」
と言った後に彼はがははと笑った。
「俺はこの店の楽しみ方を知ってる、
お客には分かるか?」
「静かに嗜む、ですかね」
と彼と正反対の台詞を吐いた。
「それも分からんでもない、
だがな、俺はそう。
このバーにいる客人の
それぞれの人生を聞きにきた」
私は少し困惑していた。
「分かるか?俺らはきっと弱虫で、
ウイスキーなんて洒落たものは呑めやしない。でもきっとこのビールが、ビール様が。
色んな奴らのあんな話やこんな話を
聴いてくれてるんだろうなって思うよ」
私ははあ、と答えた。彼はものすごい持論を
持っている。それには少し関心が湧いた。
「俺は、先が長くねえ、あと何ヶ月だ。
今日だけはこのビールと
付き合ってくれないか」
我が娘のようにビールを差し出す。
俺の代わりにビールをと。なんとなく、
なんとなくだが彼とは
仲良くなれる気がしていた。
「俺はこう見えて、人見知りだ」
と彼は言ってきた。そんなわけあるかと、
私は突っ込みを入れようとして辞めた。
私は一口ビールを呑む。
「お客の人生は?」
とあまりにも唐突に堅苦しいことを
彼は言い始める。人生ですか、
と言い少し悩んだ。
「そんなに、いいとは言えませんね」
どうして、と彼は言う。
「まあ、それなりの人生ですが、
なんの捻りもないというか」
彼は再び笑い始めた。
「なんの捻りもない人生ってあるわけないよ、捻って捻って捻りまくって
今のあんたがあるんだから」
と再びがははと笑った。私は再び、
ビールを一口。
俺なんかよ、と彼は口を動かした。
「20代で会社を建てて破産、30代は就職して、また40代で破産したんだぜ?ボロボロだよ」
私は気になったことをすぐに口に出した。
今は、どうしているのかと。
「今はな、」少し溜めた後に
彼は幸せと言った。
「幸せならいいじゃないですか」と私は言う。
「幸せでたまんないよ、毎週のように
ここでビールを飲んでさ、
いやーいいねまったく」
うんうんと私は頷く。
お客は?と彼は聞く。
先程からその呼び方がやけに気に触る。
「私もまあまあですかね」
と溢すように言った。
「まあまあ、まあまあいいってことだな、
歩んできた道は間違いじゃないってことだな」
彼は時々、詩人になる。そこが面白い。
「俺はこの街の神様だと思ってるんだぜ」
急に彼は言い出した。神様?と私が聞くと、
「毎日、懸命に働いてんだぜ?
みんな忘れていると思うけど、
俺は忘れない。みんなが神様」
神様という単語を今までで
こんなに聞いたことがあるか?
というほど神様を使いたがる彼。
「僕は、そんな神様なんて」と私は言った。
「お客様は神様っていうのは嘘だ、
みんな平等に神様なんだからよ」
と私のことを遮断するかのように彼は言った。
彼はもう一杯ビールを頼んだ。
一時の沈黙の後に彼はこう言った。
「俺は癌を患っている」
私はグラスを口元に近づけながら驚いた。
「それまでの人生は、内気で、
情けなくてっていう日々を過ごしてた。
気づいたら、もうちょっとで死にますよって
言われて、こんな風になったんだ。
こんな風になれたんだ」
と彼は笑みを浮かべて言う。
「だからこんな風にさっきまで他人だったけど打ち明けることが出来て幸せもんだ俺は」
と彼は机に顔を押し付けるように、
泣いているのを誤魔化した。
私は優しく彼の背中をさすった。
子供のように彼は泣いた。
名前を呼びかけようとも
彼の名前を聞いていなかった。
「ビールに負けた」と彼は言っているようだ。
ごねる子供のように彼は足を
パタパタとしている。
どうしようかと私は目のやり場に困っていた。
「あなたみたいな人が
ビールに負けるなんてあり得ません」
と私はらしくないことを言った。
「美味すぎて、泣いた」
らしい。美味すぎて泣いたらしいのだ。
「なんですか」と私は言った。
彼はくしゃっと笑い、私を見た。
「あんたに会えて良かったよ」
その言葉を引き金に私たちは
朝になるまで談笑し合った。
それからというもの彼と
あの店で会うことがなくなった。
きっぱりこの街から消えてしまったのか、
もしくは癌により亡くなってしまったのか。
そんなことを考えながら私はビールを頼む。
今日もビールを頼む。
店員が私に向けて声をかけてきた。
「あのお客さんが、お客さんに」
とビールを差し出してきた。
ビールのグラスを持つ私に再びビールが。
「当店のオリジナルビールです」
酸味の効いた少しスモーキーな香り、
彼が呑んでいたビールだ。
気づかなかった。他の種類もあるなんて。
私は持っていたビールを置いて、
そのビールを近づける。
そして一口。
美味い。
奥深い味わい。
私は彼を思い出して、嗜んだ。
ゆっくりと嗜んだ。
私の隣に誰かが座ってきた。
「隣いいですか?」と。若い男だ。
「こういう場所でのビールの呑み方を
教えてくれませんか?」と彼は言った。
私はこくりと頷いた。
身の上話とビール 雛形 絢尊 @kensonhina
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