エサラズ23:49

平沼 辰流

本文

 10時36分発の電車が発進し、線形で加速していく風が頬を撫ぜながら去っていく。


 赤く剥けた肌がひりひりと痛むのを感じながら、液晶画面の送信ボタンをタップすると、「ごめん」と書かれた文面がシュポッと音を立ててタイムラインに吸い取られた。



 電車は次の急行が終電だった。急行電車は家の最寄り駅には止まらないから、今日はもう午前様だ。


 しんと静まったプラットホームに立っていると、だんだん足が痺れてきた。そんなことが気になるのも真面目に悩んでない証拠みたいに思えて、無意味に黄色の点字ブロックを蹴りつける。履き潰れたスニーカーのつま先が嫌な音を立てた。



「こんなこともあるさ」


 肩の上でぐるりと頭を回しながら、めだまが言ってきた。俺が何も言わないでいると、彼は不思議そうに首をかしげてきた。


「どうして泣くんだよ。ちゃんと考えてやったことなんだろ?」


「うるさい」


 ショルダーバッグから取り出した水のボトルは空っぽになっていた。


 舌打ちしてゴミ箱を探しに歩き出す。めだまも小さな羽をぱたぱた動かして飛び上がった。不機嫌ということはさっきのやり取りで伝わったみたいで、ボトルを乱暴に捨てたときも、彼は静かだった。



「気軽すぎた」


 パーカーのカンガルーポケットの中でスマホをいじりながら、つぶやく。


「でもああ言うしかなかったんだ」


「うん、合理的だったね」とめだま。「彼女は別れたいと言った。きみは好きにすればいいと返した」


「で、横っ面をはたかれた」


 視界の外で、めだまがぐるぐると頭を回すのを感じた。


 やがて、ぴたりと止まった視線が俺を刺してくる。かぶりを振ってやると、めだまは「へえ」とビー玉みたいな目でまばたきをした。



「理解してると思うけど、合理的であることは必ずしも正解を意味しないからね?」


「……分かってるよ。今回ばかりはハズレだった」


 ふっと肩を落とし、「彼女、迷ってた。たぶん一晩中考えてたんだと思う」


「それで最後は『大事な決断をカレシに丸投げすることにした』と」


「茶化すなよ。俺、これでもシリアスなんだから」


 画面をさする人差し指に力がこもるのを感じた。意識して力を抜き、これから帰る旨をメールの文面にしたためる。



 まだ頬はひりひりと痛んだ。



 今になって思えば、付き合っていたかも分からない。


 なんとなく遊ぶときはいつも一緒で、周りから「付き合ってんの?」と訊かれたら「ああ、うん」と返せたから、たぶんカレシとカノジョの関係だったと言える、と思う。



 顔の腫れたところに指先を這わせると、ヤスリでこすられたように熱くなっていた。


 本気で殴られたせいだ。


 もしかしたら、俺だけが本心じゃなかったのかもしれない。最初から彼女にとっては一世一代の大恋愛だったのに、それを汲めなかった俺が悪いという話なのかもしれない。



 めだまを見ると、彼はゴミ箱の端っこで片足立ちをしていた。風船みたいに丸い身体から伸びた「?」の形をした尻尾がうねうねと空気をかき混ぜている。俺と目が合うと、彼は上げた足でネコヒゲをぴんぴんとしごいた。



「ふたりともシリアスだと話が重くなるんでね」


「ムカつく野郎だなあ」


「なんで殴られたか分かったろ」



 まあな、とつぶやいてベンチに腰かける。ため息をついていると、めだまは今度はタップダンスの練習を始めた。



 世間には「うなぎ説」というのがあるらしい。


 どこかのベストセラー作家がいったもので、読者と小説家のあいだに「うなぎ」を挟むと上手く書けるそうだ。


 世間を見つつ、自分のことも客観的に分析してくれる存在。そいつとひたいを突き合わせて相談すると、いいアイデアが浮かぶイマジナリーフレンド……俺にとって、その「うなぎ」が、めだまだ。



 きれいなクランプロールを決めたところで、めだまはフクロウみたいな太った身体をぷくっと膨らませて、こっちに向けた顔を百八十度回した。


 どや、と言いたげなツラだった。鼻を鳴らしてやると、彼はぐるんと顔を戻した。


「つまらないやつ」


「おまえ、いつも肝心なときに出てこないよな」


「そりゃそうだ。フクロウはすべてが終わった黄昏に飛び立つものさ!」


「テツガク嫌いなんだよな。椅子の上をケツで磨いてるだけのジジババが偉そうにしててさ……」


「駅でぐずぐずしてるだけの若者も似たようなものじゃないか、少年?」



 ああ、と顔をぬぐう。汗がしっとりと手のひらを濡らした。


「そうだよ。俺はうやむやにしようとしている。サイアクだ」


「その苦悩もあと5分だ」


 めだまはニヤリと笑った。



「次は終電。もう待てないぞ」


「……分かってるよ」


 めだまがぴょんと膝に跳び乗ってくる。カチカチと順繰りに上がった足の爪がズボンの生地をタップした。



「今のきみにはふたつ選択肢がある」


 めだまは足元を見つめながら、ピアノでも叩くように爪を動かす。


「いや違うな……選択肢は無数にあるが、今はふたつに絞ることにしよう。オッカムの剃刀だ。単純な方が美しい」


「はあ」


「ひとつ!」



 ぴん、と右足の中指が上がる。目玉焼きみたいに真ん丸になった瞳が光った。


「『もう終わった』と言ってこのまま帰って寝る。どうせ学生の恋愛なんて軽いものだ。3日もあれば清算できる」


「あのな……」


「ふたーつ!」



 もう片足の中指が立つ。


「あとひと言だけメッセージを送って、この話にケリをつける。『俺だってマジなんだぞ』と言ってやれ!」



 遠くで踏切が閉じる音が聞こえた。


 俺に向かって両足の中指を立てながら、めだまはころころと顔を回す。時間はないぞ、と言いたげに。



 スマホが小さく震えた。見ると家族からの返信だった。


 一瞬だけ残念に思ってから、彼女からのメッセージを期待している自分に気付いて、うんざりする。


 別れる前に、この感覚が欲しかった。明日から他人同士になっちまうということの怖さを分かっていなかった。



 あのとき、彼女は流行のアイドルソングを聞きながら、片耳だけ外したイヤホンをいじっていた。


 右手でものを触るのは、彼女が悩んでいるときの癖だった。


 だから「別れてもいいかなって思ってる」と言ったときも、何かを切り出される予感はしていた。



 ――どうした?


 なるべく軽い調子で切り返したつもりだった。


 ――ヒマだなって


 ――つまんない男で悪かったな


 ――そうとは言ってないけど


 ――別に好きにしたらいいんじゃね



 ずきずきとまた頬が痛みだした。


 左手で押さえながら、スマホを取り出す。



 タイムラインには既読になった「ごめん」の文字がポップしていた。


 画面の向こう側で、同じようにスマホを握る人の気配を感じる。きっとあいつ、いつものように安いインスタントコーヒーを母親に淹れてもらって、答えを書き写しただけのノートを前にぼんやりとため息をついている。


 俺が迷っているのもバレてるだろう。駅のプラットホームにいることも、たぶん知ってる。



 ぜんぶ分かる。好きだったから。一応、本気で。



 ひとつ、深呼吸。



「また明日」



 送信ボタンをタップした瞬間、目の前に電車が止まった。


 ドアが開き、生ぬるい空気が頬を撫ぜてくる。


 中に入ると、めだまが長椅子でちょこんと腰を落ち着けていた。



「よくやったな、少年」


 翼でちょいちょいと隣を示してくる。


「もうちょっと考えたかった」


 終電のクッションはすっかり冷えて、ズボン越しに輪郭を主張してくる。


 目を上げると週刊誌の吊り広告が空調の風にぶらぶら揺れていた。


「じゃあ後悔してるのかい」


「いや……」


「なら誇れよ。きみは間に合ううちに決断できたんだ」



 ああ、と気の抜けたサイダーみたいにぬるく返しながら、またスマホを確かめる。


 返事はまだ無い。


 でも俺は今ある手札を切って、「どうぞ」と彼女に手番を渡した。ここからは彼女が好きに切り返せばいいし、そのときは俺がまた悩んで決めることになるだろう。



 ふう、と背もたれに身体を沈める。


 ドアが閉まって、静かに電車が走りだした。隣でめだまが足をぶらぶらするのを眺めていると、まんまるな頭がぐるりとこちらを向いた。


「そろそろ終わったかい」


「いや。続くことになりそうだ」


「だったらますます気まずいな。フクロウは世間が動くあいだは寝ているものだからね」


「また呼ぶよ」



 めだまは最後に片目をつむって消えていった。



 終電が橋を渡ったところで、次の駅名がアナウンスされる。


 ショルダーバッグを背負いなおしたとき、スマホが小さく震えた。



 指紋を読ませながら、返事を決める。



「わかった」


 親指でタップしたとき、画面の向こうで微笑む顔が見えた気がした。


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