16 赤い影
瞼を開ける。
見慣れた空間が視界に広がっていた。
コンクリートの壁と天井。蛍光灯が切れかけているのか、僅かに点滅している。
ここは、自分が通勤していた会社の廊下にある自販機の前。
休憩できるよう、小さな空間があり、くつろげるように長椅子が置かれている。ボクはそこに座っていた。
前後の記憶がない。どうして、こんなところにいるのだろうか。
頭が回らない。
けれど、不快じゃない。不安もない。
夢心地で少し、安心する。
「君は、いつもので良いんだよね」
不意に声がして、ハッとする。
顔を上げると、青年が立っていた。
白いワイシャツに学生服のズボンを履いた青年。
何故学生服だと分かったかというと、ボクが通っていた高校の制服と同じものだったからだ。
顔はよく見えなかった。寝ぼけているのか、顔を見ようとすると視界が滲む。寝起きによくある現象だ。
できるなら顔を洗いたい。洗うとするならトイレの洗面台だろう。
けれど、立ち上がるのが億劫だったので却下した。
ガタン。ガタン。
自販機から飲み物が落ちる音。
「僕は君を、なんて呼べば良いのかな?」青年は尋ねる。
「え……、あー、そうだな。シスイと呼んでくれ」
飲み物を取る為に屈む青年の背中に、そう言った。
青年は落ちて来た飲み物を取ると、こちらに投げ渡す。エナジードリンクだった。
「目を覚ませってことなのかな?」
「いや、よく飲んでいるから好きなのかと思って。二〇〇円って、随分なものを飲んでいるんだね」
「別に好きで飲んでいる訳じゃないんだけどな」
開けると炭酸が勢い良く抜ける。一口飲むと炭酸が胃を、カフェインが脳を刺激する。味もジャンキーで、舌を砂糖漬けにでもするかのように甘ったるい。
目覚めるという一点にのみ重点を置いた劇薬だ。体に悪影響なのがヒシヒシと伝わる。
対して青年はブラックコーヒーを握っていた。
個人的には、そっちの方が魅力的に見える。
けれど彼は缶を開けず、ボクが握る劇薬をじっと見ている。
「……どんな味なんだい?」
「一口飲む?」
コクリと頷く青年。エナジードリンクを受け取ると、飲み口に鼻を近づけ匂いを嗅いだ。そして口を付ける。
飲んだ瞬間、眉をひそめた。
「酷い味。薬みたいだ。よくこんなものを飲めるな」
「好きで飲むかよ」
いらないものを渡すように、エナジードリンクを返してくる。返ってきたそれを、ボクは一気に飲み干した。ずっと味わっていたいものじゃないからだ。
一気にカフェインを摂取した為、思考がクリアになる。
クリアになったお陰で、本来言わねばならない問いを、思い出すことができた。
「見たところ、君は高校生に見えるが、一体こんなところで何をしているんだ? 課外授業というやつなのか?」
「まあ、そう捉えて構わないよ。ちょっとした問いかけに答えてもらえれば、それで」
「問いかけ?」首を傾げる。
「うん、問いかけ」
青年の顔は依然としてぼやけているが、抑揚のない言葉から、無表情なのは察せる。
僅かに走る緊張から、冷たい視線を向けているのが分かる。
何故だろう。
彼を見ていると、後ろめたさを感じる。
あまり直視したくないと思ってしまう。
だから自然と、顔は下を向いてしまう。
下を向いて、僅かに乱れた彼の靴紐を眺めた。
眺めながら、彼の言葉に耳を傾ける。
「善意って、何だい?」
「善意?」
思わぬ問いに視線を上げるが、ブレーキが掛かったように視線は首元で止まった。
「随分と、哲学的なことを聞くんだね」
「それが僕の役割だから」
「役割……か。それは、重苦しいものを担っているね」
「僕のことは気にしないで良い。それよりも、答えてくれ」
善意……か。善意とは、何だろうか。
善。良いこと。良い行い。好意的に思えること。
意味合いとしてはこれで良いはずだ。
しかし、彼が問いたいのはもっと深いところにあるように思う。
そもそも良いとは、何に対して良いのだろうか?
個人での人間関係で発生する慈善行為を指すものなのか。
あるいは社会全体に求められる、SDGsのようなものか。
それとも、誰に対しても分け隔てなく奉仕する姿勢のようなものか。
やはり、そのどれもが合っているようで、間違っているようにも見える。
「ごめん。ボクには分からない。君は、どう思っているのかな?」
冷たい視線は鋭さを増した。
痛いくらい、ボクに刺さる。
「僕はそれを、人が持つ、物事をより良い方向へと持っていく行動であると仮定した」
「より良い方向?」
「間違いを正す。不益を益に。不便を便利。そういう意味で言った」
「なら、それが答えなんじゃいのか? 君のそれは、とても正しく聞こえる」
「じゃあ……」
胸ぐらを掴むような勢いで、ボクに迫った。
語気も強い。
「じゃあ……何故人は笑うんだ? 善行をしたら、何故人は笑うんだ?」
「笑うことは、駄目なのか?」
「笑うということは、何か欲望が満たされているということだ。下心があるということだ。善意と欲望は結び付かない」
「それはいけいないことなのかい?」
なだめるように、優しい口調で聞く。
すると彼の言葉は段々と小さくなった。膨張した風船が縮むように。
「結び付いてしまうというのなら、それは……、悲しいじことだ。益がないと誰かを救えないなんて……悲しいよ」
善意が何か、もう分からないと、青年は低い声で言った。
それはもう、悲しい声で。
彼の表情が、僅かに見えた。
悲しみと怒りが混ざったような、歪んだ顔。
理解ができずに苦しむような、それでいて、寂しそうな表情。
その顔は、ボクの胸を締め付ける。どこから湧いて出てくるのか分からない罪悪感に、気分が悪くなる。
「大丈夫か?」それを払拭しようと気に掛けて、肩に触れようとする。
「触るな!」
慰めようと伸ばした手を、強く、弾かれた。
その声は、悲鳴に近い。
「僕は、お前が嫌いだ。心の底から大嫌いだ」
突然のカミングアウトにぎょっとする。
先ほどまでの感情が見えない青年はどこへ行ったのだろう。
まるで人が変わってしまったみたいだ。その証拠にボクの呼び方が「君」から「お前」になっている。
「一体どうしたんだ、急に。ボクの発言がいけなかったのか? 『分からない』と言ったことが、何も考えていないように映ったから」
「そうだ。お前は、お前の頭には、瞳には、何も映っていない。僕は生まれた意味を覚えているというのに、お前は忘れたフリをした。忘れてしまうよりも質が悪い。犯罪と知りながら手を染めて、罪を軽くする為に『知らなかった』と白を切る屑と同じくらいに、質が悪い」
怒りに染まった声。確実に、ボクに向けられている。
けれど、思い出せない。身に覚えがない。そんな強烈な感情を向けられるほどの、恨みを買うほどのことをした覚えは、微塵もなかった。
じゃあ彼は、何故ボクに怒る?
怒りとは、理不尽に直面した人間が起こす、感情の発露。
だとすれば、彼はボクの何かしらに理不尽を覚えたということになる。
忘れている。
いや、彼の言い分だと、忘れたフリをしている何かがある。
でも、全く見当がつかない。全くもって、身に覚えがない。
自分は三五年間生きてきたが、人との交流は少ない。友人も多くない。
でも決して、友人が少ないというわけじゃない。人間関係に関しても、性格が合わないというのはあっても、悪くなったことはない。恨まれるようなことは、断じてやっていない。
ボクは至って、普通の男なのだから。
けれど普通とは、主観というレンズを通して見える平均値だ。
目の前にいる青年が、ボクをそのように認識しているかは分からない。
彼の目からすれば、ボクは犯罪者のように見えている可能性だってある。
「教えてくれ。ボクは一体、何を忘れているんだ?」
彼を理解したくて、何を忘れているのが知りたくて、問いを投げる。
けれどそれを聞いて、青年は酷く傷ついたような顔をした。
足は軸を失ったようによろよろと二、三歩後ろに下がって、壁にもたれ掛かる。
「は、ははは……、僕がお前に教えることなんて、何一つない。むしろ教えて欲しいのは、僕の方だというのに。は、ははは、ははははははは……!!」
確かに大人が高校生に答えを求めるなんていうのは、おかしな話なのかもしれない。
彼は尋ねられたこと、問われたことに、何一つ答えられないボクを笑っているようにも見える。
けれど、乾いた笑いだ。目は微塵も笑ってなどいない。
表情が乏しい顔の下ある激情が、見え隠れしている。
「善意とは人が持つ、物事をより良い方向へと持っていく意思である。間違いを正す。不益を益に。不便を便利。息を吸うのと同じこと。当たり前の思考である。理性を持つ人間であれば当たり前のことである」
青年は呟く。それが問いの答えであるかのように。
その言葉は小さく、耳を澄ませなければ聞こえないくらいの声量だったが、確かな怒りが込められていた。
いや、怒りなんてものでは済まない。
その声には、呪いが込められていた。
怒り、怨嗟、憎悪。そういうどす黒い感情が渦巻いているように、聞こえた。
「だから僕は、善行をして笑顔になる人間を理解できない。笑顔になるということは、そこに利益が発生しているからだ……」
彼の顔は見えない。
目を逸らしているからではなく、見ようとしても見えない。
項垂れているからだ。
「仮に聖人や聖女がいるとして、本当の善意を持ち、善行を行う人間がいるのなら……そういう人間がそれを成した時の表情は、きっと……」
ああ、そうだ。
その言葉の先を、ボクは知っている。
「きっと……」
青年と共に、口を開く。
「「無表情なのだろう」」
声が、重なった。
それが、どこから湧いて来た言葉なのか、覚えておらず。
それが、どんな意味を含んでいるのか、分からず。
それが、どんな思いで叫んだ言葉なのか、知らず。
けれど、確かに自分の言葉であることだけは、分かった。
「やっぱり、覚えているじゃないか」
青年は顔を上げると、呆れたように、笑っていた。
次の瞬間、風景ががらりと変わる。
景色は、会社の休憩所から、横断歩道へ。
まるで紙芝居のページが抜かれたような変わり様。
ああ、そうか。
これは夢だ。
夢の中にボクはいるのだ。
それならこの奇想天外な現象に、説明がつく。
「でも、今更思い出したからといって、何かが変わる訳じゃない。もう、何もかも遅い」
ふと、前を見る。青年は横断歩道の真ん中に立っていた。
信号は青。
周りには何人かの歩行者。
周囲の空気は冬が近いのが乾いていて、少し集めのコートやマフラーを付け出している人が見える。
何の変哲もない、普通の風景。
けれど、そこにいては駄目だ。
体が、心が、本能が、理性が、一斉に警鐘を鳴らす。
「早く渡れっ!!」
駆け出す。周りにいる人を掻き分けて。
掻き分けられた人は抵抗することなく、その場に倒れて動かなくなる。
まるでマネキンだ。これも夢だからなのだろう。
そんなことはどうでも良い。
急げ。一秒でも速く、急げ。
走る。走る。走る。転びそうになりながらも、走る。
やがて青年のところまでたどり着くと、手を引いた。
「こんなところで突っ立ってたら、車に轢かれて死んでしまうぞ!」
「何を、おかしなことを言っているんだ?」
確かにおかしな話だ。
信号は青だというに。
轢かれることはないというのに。
……本当に?
ボクが轢かれた時は青だったじゃないか。
「おかしなって、ボクは……とにかく危ない。君には死んでほしくないから」
「お前が僕を、殺したんじゃないか」
「はあ⁉ ……あ」
思わず振り返ると、青年と目が合った。
見ないよう逸らしていた顔を、直視してしまう。
そこにいたのは、いつかの「僕」だった。
その顔は病的なまでに白。その手は、氷のように冷たい。目は、視線は、それ以上に冷めていた。
目を見たボクは動けなくなる。
凍ってしまったように、固まってしまう。
「お前が、僕を殺したんだ」
「ボクが、僕を……?」
「お前さえ……いなければ……!!」
僕はボクの喉元に手を伸ばすと、首を掴まれ、親指で喉を圧し潰す。
「があ……ぐっ……!!」
呼吸が、できない。
抵抗するように「僕」の腕を掴むが、びくともしない。
殺される。自分自身に殺される。
明確な殺意。自分に向けられた、自分からの殺意。
頭がおかしくなりそうだ。
酸素が回ってこないからか。
訳の分からない状況からか。
きっと、その両方だ。
思考が止まりかけたボクは、とにかく「僕」から逃げたい、抜け出したいという一心で、「僕」の体を強く押した。
ドン!!
「僕」の体は、想像以上に軽かった。
強く押された彼の体は、少し地面から浮いていたと思う。
首を握っていた手も、簡単に取れた。
その瞬間。
キキイィィーーーーー!!
トラックが「僕」の方へと突っ込んで来た。
横断歩道の信号は青。車両の信号は赤。
本来起きるはずのない出来事だ。車両の信号が赤なのだから、車は来ない。
交通ルールが許さない。
否である。
交通事故は赤信号ではなく、青信号に起こる。
どんなに自分が規律を守ろうと、相手が同じく守る保証はどこにもないのだから。
態勢を大きく崩した「僕」は避けることなんてできない。
周囲の時間がゆっくりと動くような、そんな錯覚に陥る。
思考が加速しているのか、それとも遅くなっているのかは、分からない。
けれど、遅くなる時間の中、彼の瞳はずっとボクを捉えていた。
口だけが、ハッキリと動く。
「お前が死ねば良かったんだ」
時間が、思い出したかのように戻る。
鈍い音を、覚悟した。
けれど、そんな音はしなかった。
気付けばトラックは消え、周りの人間は消え、青年は消え、残されたのは血だまりだけだった。
赤い……、赤い血だまりだけが、横断歩道に残されていた。
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