15 道路の残影(下)
エレベーターを降りて会社の外に出ると、目の前の道路が騒々しかった。
周囲の人達は騒然としていて、何かを囲むように人だかりができている。
それに混ざるほどの元気はなかったけれど、みんな何を見ているんだろうと気になって、囲んでいる人達の僅かな隙間を覗き込む。
隙間から僅かにソレが見えて、息を飲んだ。
歩道には、女性が血塗れで倒れていた。
「おい、何の人だかりだ?」
「ビルから人が落ちてきたって話よ」
「マジかよ、自殺か?」
「ヤバ、すごいとこ見ちゃった」
自殺というワードと、周囲の人間が隣のビルに視線を送っているのを見て、何が起きたのかを大まかに察する。
そうか。
この人だかりは、自殺した女性に群がっているんだ。
声を上げる者、上げない者。
関心がある者、関心を隠す者。
写真を撮る者、撮らない者。
騒がしく驚く者、静かに驚く者。
状況を理解する者、理解できない者。
皆、女性から一定の距離を置いて円になって囲う。
死体と野次馬との間には見えない壁が隔てられている。
それは何を分ける壁なのだろうか?
関係者か他人だろうか?
日常が非日常だろうか?
生きているか、死んでいるかだろうか?
答えは出ない。
けれど彼らは、部外者なのに、他人なのに、どんどん集まってくる。
そうだ。彼らはきっと喜んでいるのだ。
退屈に満ちた日常にふと落ちてきた非日常に。
角砂糖とアリみたいな関係みたいだと、心の内の黒い穴から反響して聞こえて来た。
彼等は日常というものに飽き飽きしていて、非日常に触れることで、日常というのを一時的に忘れることができる。
食べ物や酒、煙草と同じ消費コンテンツの類なのだ。
だけど彼らはアリとは違い、落ちてきた非日常には近づかない。
それはどうして?
それは彼らが日常の大切さを弁えているからだ。
特別になりたい、非日常に遭遇したいと上っ面では言うけれど、本当は関わりたいなんて微塵も思っていない。
他人くらいの無責任な距離感で見ているのが丁度良い。だからと人は、平気で他人を見殺しにする。
……分かっている。
きっとそんなことはない。
ただ皆、無力なだけなのだと私は知っている。
他人を気遣うこと、助けることの難しさを私は知っている。
理性では、分かっているのだ。
でも感情は違う。
凪のようだった激情が一度でも波打てば、それは津波のように全てを塗りつぶしてしまう。
それを証拠に、今度は女性を非難している。
何故死んだのか? 何故こんな場所で?
下に人がいたら危ないではないか。
もっと目立たない山奥で死ねば良かったんだ。
死にたくない、死んでほしくないと思う人だっていただろうに、どうして?
間違っていることと分かっていながら、思うことをやめられない。
口に出さないので精一杯だ。
けれど理性で押し込めることはできても、解消することはできない。
だから、黒い感情が、時折漏れる。
「どうして、自殺なんてするんでしょうか」
自分でも驚くくらいに、その言葉の語気は強かった。
不条理に死んでしまった先輩と自ら死を選んだ女を勝手に比べて、勝手に怒る。
八つ当たりだ。そんなの分かっている、理性では。
でもそうでもしないと何か大切なものが壊れてしまいそうだった。
なんなら、いっそのこと壊してしまいたいとさえ思った。心を壊してしまいたい、と思ったのだ。
そう内心で叫んでいるが「~しまいたい」と言えるということは、まだ理性が勝っているのだろう。
頭の片隅にいる冷静な自分が考察する。
「鈴香さん。君は自殺をどう思う。どういった意味で自殺をすると思う」
質問を質問で返す犬上さん。
彼なりの答えがあるのだろう。
きっとディスカッションをしたいのだ。質問を質問で返すとは、そういうことだ。
だから私は少し考えて、答える。
「……関心を引きたいとかですかね。自分がここにいたという極端な承認欲求の」
「なるほど、そう考えたか」
「違うんですか?」
「いや、とても思想的だと思ってな」
「思想的、ですか」
「自殺に意味や価値を感じているということは、自殺によって生まれる利益を知っているということだ」
「自殺に利益?」
死んでしまったら終わりだというのに、利益って何?
私は犬上さんの言っている言葉の意味が、理解できなかった。
「自殺というのは、いわば発言力だ。拡声器のようなものだと思ってくれれば良い」
「拡声器……?」
「その拡声器を使って自殺した人間は自分の主張を説く。日本であれば切腹というのが有名だろう。自分の死を顧みず、忠義を示す。他であれば……、そうだな。芸術家や作家が言う『命を削って作った』という奴だ。あれを添えるだけで人の気を惹く。この二つは、何かを伝えたいが為に命を使うという点で似ていると言える」
何かを伝える為の自殺。確かにそれは思想的だ。
自殺をする人というのは、そんなものを抱えて自殺しているのだろうか。
「だが、今回の場合は違うだろうな」
「え、違うんですか?」
「今回の場合は、どちらかと言えば衝動的なものだろう」
「どうして、言い切れるんです?」
「思想的な自殺をする人間は、ビルから飛び降りたりしないからだ。拡声器がいくら主張を増幅させるとはいえ、場所を考えなくては今月の自殺者の統計を一コマ進める程度で終わる。思想的なら、最も効果的な宣伝をしなくてはならない」
確かに、思想的ならこんなビルの上からは飛び降りない。するなら東京タワーとからだ。高さはきっと関係ないだろうけれど、注目されるのはそっちだろうから。
「でも人って……、衝動なんかで死ねてしまうのでしょうか? だって命は、大切なものだというのに」
「本来、自殺とは衝動的だ。理性で押さえつけられるものではない。しゃっくりや、くしゃみみたいなものだからな。止めたくて止めれるものではないし、自分の意思でやりたい訳じゃない。少なくとも本人達に死んでしまう理由はあっても、死ななくてはならない理由なんてものはないのさ」
「本人の意思ではないと?」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、誰の意思で自殺するんですか」
「誰の意思、か。考えられるのは、社会だろう」
犬上さんは煙草を取り出すと、火を付ける。
「日に日に増える自殺者を見れば、な。『こんな世界で生きていけない』と彼等は音のない悲鳴を上げているのが分かる。自殺とは世界の否定だ」
「世界の否定……」
「社会の風潮、不景気、先の見えない未来が、彼等を圧迫ている。追い詰められた人間はそれに反発し、自殺という手段で世界に問いかけているのさ。まあ、多くの人間はそんなことは思わず、ただ単に圧死しているだけだろうがな」
犬上さんはビルの上に視線を向け、今度は人だかりを見る。
まるで見比べるように。
「今は生きているが、自殺を脳内にちらつかせている人間というのは、多いだろうさ。そこの女と彼等を分けるのは、飛んだか、飛んでないかだ。それくらいの差でしかない」
そう言うと、彼は煙草の煙を吐いた。
煙草の煙は風によってこちらに流れ、鼻孔に残る。
そして彼の言葉もまた、耳に残る。
死ぬことに理由なんてない。ただ、飛んだか、飛ばなかったかだけの違い。
社会の見えない圧に、潰されただけ。
先輩も、そうだったのだろうか。
先輩の頭の中にも、そのようなものがちらついていたのだろうか。
どうして先輩は、私を庇ったのだろうか。
自殺をする上で、都合が良かったのか。
それとも理由もなく、衝動的に押したのだろうか。
どちらも、違うような気がする。先輩は死にたいと思うような人ではなかったから。
きっと先輩にはもっと違う何かがあった。意思のような、信念のような何かが。
ふと、先輩との会話を思い出す。その時も、今みたいな会話だった気がする。
少し懐かしい、その記憶。
私が会社に入って一年経った頃。
その日の昼、休憩時間に先輩がどこか気に掛けた様子で声をかけてきたのだ。
「どうだい鈴香ちゃん、最近調子は。なんか悩みとかあるかい? 先輩なんでも話聞いちゃうよ?」
先輩の手にはブラックコーヒー。
それを手渡される。
私が好きなBOSSの缶コーヒーだった。
「何です? 急に」
「ほら、ニュースであったじゃない。鈴香ちゃんと同じ歳の子がさ……、頑張り過ぎちゃって溜め込んじゃって……ていう奴が、さ。最近頑張っているの見てるし、無理してるんじゃないかなあと思ってさ」
「特に悩みは……ないですね。私、物覚えが良い方なんでなんでもパッパッとこなせてしまうんです」
正直に答えた。
先輩は「本当に?」と聞き返す。
気を遣っているのではないかと、探っているのだろう。
「本当にないですよ」
「そっか、なら良いんだ。僕の取り越し苦労だったみたいだ。でも、頼りたくなったらいつでも言ってくれ。七割で解決してみせよう」
「なんか、微妙な数値ですね」
「僕でもどうにもならないことは多いからね」
いつもの少し頼りない笑いを見せた後、先輩は少し悲しそうな顔をした。
「でも、やっぱりああいうニュースを見ると、少しやるせなくなるよ」
「どうして先輩が気に病むんです?」
「若者の自殺が多いっていうのはね、間接的に今の社会に問題があるんだよ。そして今の社会を作っているのは、先に生きる大人達だ。だから僕含め、その責任というのはゼロじゃない。だけどそれをどうこうする力は、もちろん僕にはないし、部長にも、社長にもない。だからやるせなくなった。たったそれだけの話だよ」
「考えすぎじゃないですか? 先輩に責任があるとは思えません。その考えは、私にはちょっと分からない」
繊細な人。そう思った。
私はそれほど、他人に対して思いを寄せることができない。
だから先輩のその感性が、特別に見えた。
「そうだろうね、鈴香ちゃんはまだ若いから。だからこそ、僕は君や未来の後輩達に誇れる大人ってやつにならないといけないのかもしれないね。世界を劇的に変えることはできないけれど、ほんの少しずつ良い方向ってやつに持っていく為にさ」
「それはとても、素敵な考えですね」
素直にそう思った。
繊細で、優しい人。
こんなに良い人、後にも先にも先輩しかいないのではないか? そう思わせる程の力が、彼の言葉にはあった。
「というわけで仕事終わりは暇かい? 味はそれなりで、やっすい居酒屋を見つけたんだ」
少し恥ずかしくなったのか、普段のテンションに無理矢理戻す先輩。
「先輩、たまには良い店を紹介してくださいよ」
「言っただろう? 劇的には変えれないってさ。ま、いつかの機会だな。そりゃ」
普段はラフに接することができる面白い先輩程度にしか思っていなかったけれど、この時初めて私は先輩を「会社の先輩」ではなく「尊敬する大人」として認識するようになったのだと思う。
そして何年か経って、先輩の言葉も理解できるようになった。
若者が、後輩が、憧れるような人でありたい。先輩はきっとそう考えていたのだ。
そんな人が死にたいだなんて、思うはずがない。
「先輩は、優しい人でした。自殺する人を見て『やるせない』と言う人でした」
「偽善だな」
「ええ、そう言えるかもしれませんけど、けれど誰よりも私や後輩に対して良い大人であろうと振舞っていたんだと思います。だから……あの瞬間、私を助けてくれたんだと思います。最後まで自分以外の誰かを気遣うことができる、自分の理想を忘れない、私の尊敬する先輩です」
「……良い大人か、くだらないな。善人は損をするというが、お前の先輩とやらもその類だったんだろう。もっと賢く生きれば良いのにな」
「そうかもしれませんね」
私は笑う。
もっと賢く生きれば良い。
その言葉に対して怒らなかったのは、男の言い草には嫌味があれど、先輩を憂いての言葉だったからだ。
ただ単純に先輩を想って言っているのだ、彼は。
やがて犬上さんは私に別れを言う。
「私はこれで失礼するよ。それで君はこの後どうする?」
「どうもしません。いつも通り、何も変わらず、多分先輩の教えてくれたことを思い出して、歩いて行くと思います。私も先輩のような人間を目指して。今ある明確な目標は、それくらいですかね」
「それは茨の道だな、オススメしない。だが、それを決めるのは私ではない。私が介入できるものは自我のない者だけだ。意思を持った人間に対しては、私の言葉はまるで無力だ。……くれぐれも、自分を大切することを忘れるな」
「はい」
私は踵を返して歩み始める。
僅かに鈍く、けれど強く光る方へと。
先輩が示してくれた物を、少しずつ拾って、道にして……未来の後輩の為に頼れる大人って奴になる為に。未来を少しでも良い方向へと持っていく為に。
瞬きをする一瞬、先輩が私の歩く先を指さしてくれているように、見えた。
「鈴香ちゃん!」
後ろから声がした。
振り返ってみると、呼び止めたのは二つ上の先輩である上野さんだった。
汗を掻いている様子から、走ってきたみたいだ。
一体どうしたのだろう?
「しばらくお休みしてたから体調を崩してないか心配で心配で。そう思ってたらさっき一瞬だけ顔が見えたから追いかけて来たの」
そっか。私のことを心配して来てくれたんだ。
そういえば上野さんはよく私のことを気遣ってくれてたっけ。
ちゃんとした先輩。そういう印象でよく見ていた。
先輩曰く、上野さんはラフに接してくれるのが好きらしいけれど、この人の距離感が私には少し慣れなくて難しい。
でもこんなに心配してくれているのを見ると、良い人なんだと思う。
「すみません、ご心配をお掛けして」
「体調は大丈夫? 顔色はあまりよろしくないけれど……でも、なんだか表情は晴れやかみたい。何か良いことがあったのかしら?」
「良いこと、という訳ではないのですけど……目標ができました」
「目標?」
「はい。私、先輩みたいになりたいと思ったんです。漠然としたものではあるんですけど、あの人みたいな、誰かに誇れるような、そんな大人になりたい。……ってなんだか恥ずかしいこと言ってる気がします」
「いいえ、恥ずかしいことではないわ。だって目標があることは素晴らしいもの」
そうだ。恥ずかしいことじゃない。
今後、これを誇って言えるようにならなくてはならないんだ。
今はまだ、言葉が体に馴染んでいないだけ。
顔が熱いのは、その歯がゆさから来るものだろう。
「あなたをそんな風に変えた先輩っていう人に、私も会ってみたいわね」
「? 何を言ってるんですか? 上野さんも知っている人ですよ」
「え、そうなの? えーと、誰かしら」
「誰かしらって……上野さんの目の前の席が先輩の席だったじゃないですか」
「私の前の席は、私が入社してからずっと空席だったと思うんだけれど……」
「……え?」
「え?」
私は耳を疑った。
今、なんて言ったんだ?
「覚えて、いないんですか」
「覚えていないもなにも、知らないことは覚えられないわよ?」
何か、おかしい。
そんな、ことあり得ない。
確かに間違っていないはずだ。先輩の席の場所を間違えるはずがない。
だって、私が尊敬していた先輩のことを間違えるはずがないのだから。
そうだ、名前。
名前を聞いたらきっと思い出すはずだ。
「先輩の名前は××××先輩です……あれ?」
「ごめんなさい。よく聞き取れなかったわ」
おかしい。確かに名前を言ったはずなのに。
あれ、名前。なんて言うんだっけ……いや、そんなはずはない!
名前の字は思い出せるのに。
だって、顔も思い出せるのに。
声も思い出せるのに。
あの人は誰もが慕っていて。
だれもがそんけいしていて。
だれもがいなくなったことを哀しんで。
哀しんで。
悲しんで。
かなしんで。
カナシンデ。
……。
…………。
…………………。
あれ……?
先輩って。
誰の、こと……だろう?
「静香ちゃん、もうしばらくお休みしたら?」
「え……?」
「だってあなた、泣いているもの」
知らないうちに顔が濡れていた。
割れた瓶みたいに。
大事な中身がどんどんと流れてしまう。
けれど
けれどそれ以上に……
何か、大切なものが欠けてしまったことが。
ただただ、かなしくて。
悲しくて。
……哀しくて。
◆ ◆ ◆
時に私は思う。
自殺とは社会や世界の否定であると。
誰にでも起きる、平凡な現象であると。
そして思い出す。鈴香の語る、良い大人を。
「良かったな。後輩はお前の自己犠牲を美化してくれたぞ」
だが、私はそうは思わない。
自己犠牲なぞ、自殺以下の行いだと心の中で叱咤する。
自殺が世界の否定であるとするならば、自己犠牲は自己の否定だ。
自分を愛せない人間が、行き場のない愛を他者へと押し付けているに過ぎない。
それは病だ。
その行動はどこまでも善行に見えるだろう。
どこまでも美化してしまうだろう。
けれど、その行いで救われる人間はいない。
その善行まがいな物を見ても、誰もそれを理解はしない。
あるいは偽善だと指を指される。
何より最悪なのは、当の本人がその行いに対して何も得ていないことだ。
他者を優先することで自身をないがしろにする。やがて自己の価値さえ分からなくなって、あの男のように最後は死ぬのだ。
そして時にそれを美談として語り、それを自分の内に求める人間が出てくる。
自己犠牲という欺瞞に掛かり、それを見た人間が歪んだ善性という伝染病に罹る姿なんて誰が見たいものか。
アレもきっと、そう思っている。
だから私は、その行いを美化しようとは思わない。
私ができることといえば、憐れんでやることくらいだろう。
数刻ばかりの友よ。
お前はそれほどまでに自分を愛せなかったのか。
最後の、その瞬間まで。
「————なあ……」
星との境界線での出会いを思い出しながら、男の社員証を眺めて呼ぶ。
「遠藤清司」
異世界に捨てた男の残骸、その名前を呼ぶ。
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