14 道路の残影(上)

 最低限の防寒着で家を出た。

 カラッとした空気が私の頬を撫でる。冷たく、私の頬を撫でる。

 雲が高い。青空が薄い。


 それを見て、空っぽだと漠然と思う。

 先輩がいなくなってからの私は、何に対してもずっとそう感じてしまう。

 自分の中で、先輩がこんなに大きな存在だったなんて、知らなかった。

 ふと、風が吹く。

 氷のように冷たい風が、私の肌に刺さる。


「……寒っ」


 やっぱり上着を着よう。

 私は一度家に戻って厚手のコートにマフラーを巻いて外に出る。


 手袋は片一方が見つからなくて着けなかった。コートを着たが、それでもまだ寒い。

 指先に息を吐いて温めるが、すぐに熱が引く。吐いた息は白く、空気に溶けていく。

 ああ、もう冬か。


 重い足取りで駅に向かい、電車に乗る。

 通勤ラッシュが過ぎた後だから、同じ電車でもがらんとしている。


 扉近くのイスに座ると、風景をぼんやり眺めた。

 線路、電線、過ぎる看板、民家、そしてビル。そのどれもが褪せていた。

 渡り鳥と一緒に、色もどこか遠くへ飛んでいってしまったみたい。


 以前はこんなにも無機質だっただろうか。

 世界は、こんなにも色褪せていただろうか。

 そんな疑問を抱きながら、会社に向った。


 駅から出ると、私を迎えるのはビル群。空を覆うように並んでいる。

 その間に大通りが敷かれており、この道を真っ直ぐ進むと会社に着く。


 いつか歩いた歩道を進む。

 横を見ると交差点が見えた。

 少し、気分が悪い。チラチラと、脳裏に赤がよぎって吐きそうになる。

 血の臭いがする。きっと幻臭だ。


 フラフラと歩いている内に、あの交差点へとたどり着いてしまう。

 先輩が轢かれた、あの交差点。

 周りにいる人達は、何の疑問もなく歩いている。

 何の疑念も、後悔も感じることなく渡っている。


 赤。

 青。

 赤。

 青。

 赤。

 また、青。


 一日の間に何十回も、何百回も色は変わり、そして無機物と有機物が交差していく。

 皆、渡っていく。

 渡れないのは、私だけ。

 私だけ、あの事故から時が止まってしまったみたい。


 何度か、試しはしたんだ。

 でも結局、渡ることができなかった。

 信号が青だというのに渡らない私を、横断歩道を渡る何人かにチラチラと見られているのが、何となく分かる。浮いているが分かる。

 でも体が強張って、動けない。


 私は三〇分程交差点で立っていたが、結局渡れなかったので、二百メートル先にある歩道橋を使って対岸に渡り、会社の前までたどり着く。

 会社に入った私は、職場を目指してエレベーターに乗る。

 人は誰も乗ってこない。一人だった。


「……」


 エレベーターの登る速度が、やけに遅く感じた。

 誰もいない空間に目を泳がせると、エレベーターの壁に鏡があった。

 ……酷い顔。こんなにくまが濃かったかしら。

 終電で帰った時よりも、もっと酷い。


 ポーン。


 エレベーターが鳴った。扉が開く。

 広々とした部屋に規則的に並べられたデスクとパソコン、そして同僚達。


 久しく職場に来た……、なんて思ったが休んでいた期間は一ヶ月程。最近と呼ぶには長く、久しいと呼ぶには短い。


 私は自分の席ではなく、まっすぐ先輩の机に向かう。迷うことなく、まっすぐ。

 先輩の席に着いた。

 先輩の机はあの時から変わっていない。この机もきっと、あの時から時間が止まっている。交差点の私のように。


 けれど、この机はずっと止まっている訳にはいかない。置いてあるものは先輩のものであるけれど、机に関して言えば会社のものだ。また誰かが使うものなのだ。


 私は持参した紙袋を出すと、先輩の私物を一つひとつ丁寧に入れていく。

 紙袋にしまっていくごとに、机から先輩の気配が消えていった。


 心の穴がどんどん大きくなっていく感覚が、とても寂しい。

 泣きたくなっている自分がいる。

 でも今先輩にできることは、これくらいだ。

 これを届けるのが、私が今日ここに来た理由だ。


 やがて机は、誰でもないただの机になる。

 もう用はない。

 私は職場の廊下に出た。

 するとそこには白衣を羽織り、その中にワイシャツを着た男が立っていた。


「初めまして。私が犬上孝太郎だ」


 犬上孝太郎。

 今日私が会社に来たのも、先輩の荷物をまとめているのも、この人の依頼だった。

 彼は犬上さん。先輩の友人であり、彼の私物を回収しに来たのだとか。


 依頼をされた時、怪しいと思ったのだが不思議と信用してしまった。信頼してしまった。

 全くもっておかしな話ではあるのだけれど、漠然と先輩の友人という言葉に納得してしまったのだ。


「これが、先輩の私物です」


「ああ、ありがとう」


 私は犬上さんに荷物を渡した。


「犬上さんは、先輩とは仲が良かったんですか?」


 ふと湧いた疑問を投げかける。

 プライベートの先輩を、私は知らない。

 だから後輩に見せる先輩の姿と、友人に見せる彼の姿に差異があるのか、知りたかったのかもしれない。それと、本当に友人なのかという勘繰りも、少しあったと思う。


「私は、どうだろうな。まあ、他の人間よりは話す程度の仲だろう」


「どこかに遊びに行ったりとかは?」


「そうだな……共にプラネタリウムに行ったくらいか」


 男二人でプラネタリウム?

 それは、果たして、他人より話す程度の仲で行ける場所なのだろうか?

 プラネタリウムというのは、彼氏彼女のデートプランのそれではないのだろうか?


 なんだか、負けた気分になった。

 何に対して負けたのかは、微塵も分からないけれど。

 とにかく負けを悟ってしまった。私なんて安い居酒屋しか行ったことないのに。


「……そうですか。出口まで一緒に行きます」


「なんだか、機嫌悪くなってないか? それと、仕事は良いのか?」


「はい、今日は家に帰るんで」


「そうか……、では一緒に行くか」


 カーペットの敷かれた廊下を歩く。

 いつもより、足音が大きい気がする。

 きっと先輩がいないから周りが静かで、足音がうるさいのだろうと、乱暴に決めつけた。

 まるで失ったものを忘れないように、再認識するように。


 やがて、エレベーターの前に着くとスイッチを押して、何の会話もないままに待つ。

 エレベーターが来ると、それに乗って下の階まで下りていく。


 密室に無言の人間が二人。

 少し気まずさが漂う。

 何か話をしないと。

 そう思考を巡らせていると、先に口を開いたのは犬上さんだった。


「君は、アレの死に立ち会ったそうだな」


「え……はい。そうですね」


 あの時の記憶は曖昧だけれど、鮮明だった。

 トラックが突っ込んでいるのに気づいたかと思えば、次の瞬間には歩道に倒れていて、先輩が血まみれで……そこからはよく、覚えていない。


 それを思い出すたびに、胸の内に黒い何かが渦巻いているような、暴れているような、そんな感覚に陥る。


 涙が出そうになる。感情が壊れてしまったみたいに。感情を入れた器が割れてしまったような感覚だ。


 それが悲しくて、哀しくて、かなしくて。

 ブレーキが利かなくなった想いが、今も私を横断歩道で轢き続けている。


 その感情をトラックの運転手に対してぶつけてやりたい。

 だけどそれも、叶わない。運転手は先輩を轢く前に、心臓発作で亡くなっていたのだから。


 やるせない。これでは生殺しだ。この思いを、一体誰にぶつければ良い? 時間が解決してくれるのだろうか?


 きっと解決はしない。

 風化するだけだ。

 風化して、傷跡だけが残るのだ。


 そんなことを、望んでいる訳じゃない。

 私は、先輩の為に何かしたいのだ。亡くなった先輩に手向ける何かをしたいのだ。

 捌け口のない激情が、今もさざ波を立てず、私の内に漂っている。


「仲が良かったのか」


 私から何かを察したのか、犬上さんは言葉を投げる。


「仲は……そうですね、良かったんでしょうね……。すごく尊敬していた先輩だったんです。私とか、私以外の後輩にも気を使っていましたし、助けてもらった人は多分多いと思います」


「そうか……、惜しい人を亡くしたな」


「そう、ですね」


 それからの会話は特になかった。

 エレベーターは落ち続ける。

 どこまでも、落ち続ける。

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