03 僕はいつから死んでいた?
カラッとした空気が頬を撫でる。
気温は、いつもより寒い。
雲も高いところにある。周りの高いビルと比べると分かりやすい。
そんなことを思いながら、外回りを終えてた僕は、会社の帰路につく。
疲れからか、歩みが少しふらついている。体調が少しよくないのだろう。頭が重い。吐きそうだ。
原因はきっと、昨日の徹夜だ。
「そろそろ寝ろ」と脳がシグナルを送っているに違いない。
先ほど飲んだエナジードリンクも悪かったな。炭酸が胃の中でデンプシーロールを決めている。
若い頃はこんなことで体調を崩さなかった。自分のボロボロさ加減を実感する。
けれど、そうも言ってられないのが仕事って奴だ。
「そうか、僕はもう若くないんだな」
あの頃はどうだったか、あのときはきっとこうだっただろう、という思考に若さがない。
ふと、思考はこうして老いるのだな、なんて思う。
すると若者代表とでもいうように、陽気な声が後ろから聞こえてくる。
「何悟ったことを言ってるんですか、先輩。人生これからですよ」
ショートボブが似合う後輩の鈴香ちゃんが、若さを体現したような爛漫な笑顔で励ますように僕の肩を叩く。
「三〇を過ぎると、なんだか老いを感じてしまうようになるんだ。君はまだ若いから分からないかもしれないけれどね」
「老いって、先輩まだ三五歳ですよね? 死にかけの悟ったおじいちゃんみたいなことを言わないでください。そんな歳でおじいちゃんになっちゃうなんてことがあったら、私ももうすぐおばあちゃんになっちゃいます」
「君はまだ二五だろう?」
「一〇年舐めてるとあっという間です。それより、先輩のその老いは挑戦心のなさから来るものなんじゃないんですか? 若さっていうのは前向きな姿勢から来るものです」
「前向きねえ」
彼女の言葉は正しい。
何事も人生を豊かにするのは経験と感受性だ。
新しいことを始めるというのは、それだけでその二つを得ることができる。
逆を言えば、何もしなければただ老いを感じて、何も得ることはない。何だったら気が沈む。
その繰り返しだ。悪循環に苛まれ続けるのだ。
「じゃあ、その英気を養う為に、さっさと家帰って寝たいんだがね」
「やめてください。私に仕事が回って来るじゃないですか」
「冷たっ! 急に塩対応じゃないか。そこは『私に任せて』とまでは言わなくとも何かこう、労いの言葉を掛けるのが後輩として健全なんじゃないか?」
「まあ、もうすぐ冬ですから」
「季節で人への態度が変わるかよ」
「先輩歩くのが遅いですよ。年齢を言い訳にしてないで、さっさと仕事してください」
「本当に冬になってる!?」
「あー、そういえば今日私の見たい番組の生放送があるんでした。という訳で今日は早く帰ろうと思うので、残った仕事は先輩に任せました」
「冬って理由じゃ収まりきらないよ。悪魔の所業だよ!!」
「ちょっと先輩、近付かないでください。加齢臭が移ります」
「お前っ! 冬にかこつけて僕に悪口言いたいだけだろ! それとまだ僕は加齢臭なんてしないっ!!」
絶対にないと断言できなかったことがどの言葉よりも僕を傷つけた。
このレベルの形態を春夏秋と残り三形態変身を隠している事実に恐怖する。
最終形態とか一体どうなっちゃうんだよ。多分僕の体、宙に浮いて爆発四散するんじゃなかろうか? クリリンみたいに。
「ふふ、先輩元気じゃないですか。それくらいエネルギッシュに行きましょ」
「これは空元気だ。にしても、僕等もそれなりの付き合いになったな」
「なんですか、急に」
「昔はこんなにグイグイくるような子じゃなかったよね、鈴香ちゃんはさ」
「そうですか?」
彼女が会社に入って来たときのことを思い出してみる。
「先輩、何か困ったことありますか」
「先輩、コーヒーいりますか」
「先輩、荷物少し持ちます」
全然違うな。
後輩の模範解答かよ。
あの頃の彼女というのも、今みたいにフレンドリーではあったけれど、もう少し誠実というか、先輩後輩の境がハッキリしていたというか、悪い言い方をすれば猫を被っていた。
「あのときはよき後輩であったなあ」
「なんですか、その娘の反抗期に感慨深くなる父親みたいな感想。というか、今もよき後輩です、訂正してくーだーさーいー。現在進行形にしーてー!」
「ちょ、やめて。体揺らさないで。頭痛いから、脳揺らさないで。デンプシーが胃に刺さるから」
頬を膨らませる鈴香ちゃん。「ぷんすかぷんすか」と効果音が聞こえてきそうだ。
可愛らしく見えるが、見た目に反してかなり怒っているときの顔だ。
何かしらなだめる言葉を添えておかなくては。
「まあ、良いことじゃないか。それだけ僕との信頼関係ができたってことなんだから。そうやって素が出せるってことはさ」
「でも先輩は素を出してくれませんよね」
「え、そうかい?」
「だって、私に全然頼ってくれないじゃないですか」
先程までの様子と違い、彼女の目はどこか真剣だった。
そうだろうか?
思い出してみる。
僕は彼女に素を出していないだろうか?
確かに、その指摘は正しいかもしれない。
僕は彼女に対して素というのを、多分出していない。
それが最良だと、考えているからだ。
必ずしも本音で語り合うことが、気持ち良い関係を作るとは限らないことを、僕は知っている。
これまで僕が人間関係を深く築こうとしなかったのは、この考えがあるからだろう。
それに加えて、感情の起伏というのは、疲れるということを知ってしまったのが大きい。
怒り、悲しみのほかに喜しい、楽しいという感情も例外ではない。
この思考は人を消極的にする。無気力を肯定する思考だ。
こういう情けない姿というのは、普段格好つけている分、見られたくないものだ。
僕を慕ってくれる後輩に対しては特に。
そう思って気配りをしていたけれど、こうして指摘されたということは、僕も無意識の内に素を出していたのかもしれない。
よし、これを参考にもう少し態度を改めるとしよう。
まずはこの不貞腐れた後輩をなだめるところからだな。
「分かったよ。じゃあ、会社に戻ったら少し手伝ってくれよ」
「いえ、私先輩のパシリじゃないんで」
「ええ……どっちなんだよ」
「これじゃ言われたからやったみたいじゃないですか。それじゃ意味ないです」
「分かった。善処するよ。でも、鈴香ちゃんは知らないかもしれないが、僕の中では結構頼りがいのある後輩としてキャラが確立してるんだぜ?」
「ふーん、そうなんですか」
あ、ちょっと機嫌戻った。
ここでもうひと押しだ。
「そういえば、今日居酒屋に行こうと思ってるんだが、鈴香ちゃんも来るかい?」
「美味しいところですか!」
「安いとこ」
「ああ……いつもの。じゃあ、馬刺し食べたいです!」
「良いぞ。いくらかでも食べるがよい」
「いくらでも、ではないんですね」
「馬刺しって高いから」
そんな会話をしながら交差点を渡る。
青信号を渡る。
キキイイィィィイイイイイーーー!!
思考をかき乱す摩擦音。
音の方を向くと、トラックが鼓膜を突き破るようクラクションを鳴らして、こちらに爆走してくるのが見えた。
油断していた。
当然のように、当たり前のように、青信号を盲目的に信用していた。
だから、異変に気付くことに反応が遅れた。
いや、気付けたからといって対応できたとは限らない。
こちらに激突するまでにできるアクションなんて、いくらもない。
けれど意外にも思考は冷静で、目の前の事象を頭が高速で処理していた。
トラックに乗っている男は四、五〇代だろうか。
体をうずくまるようにして苦しんでいる様子が見える。どうやらこちらには気付いていないようだ。
猶予は数秒とない。けれど前に倒れ込むように避ければ、何とか助かるかもしれない。
このまま、死にたいとは思えない。
意地でも死にたくない。
でも、鈴香ちゃんはどうだろうか?
隣を歩く鈴香ちゃんは、僕の体で視界が遮られ、反応に少し遅れるだろう。
必然的に彼女は轢かれてしまう。彼女は死にたくないだろうか?
……。
きっと、生きていたいと思うだろう。
僕は、どうすれば良い。
彼女を救い、自身を犠牲にするのか。……本当に、僕にそんなことができるのだろうか?
誰かを救うことができる人間というのは心に余裕がある人間だ。
善意は存在しない。善意の陰には無意識な欲望が潜んでいる。
打算や謀りという、卑猥な内面が渦を巻いているのだ。
僕は自分にそんなものがあるってことを、証明したくない。
僕は、彼女を助けない理由を探している。
僕は、助けたくない。
ああ、でも僕にはそれが……。
「ああクソッ!」
ドンッ!!
気付けば、彼女の背中を押していた。
突き飛ばした感触があまりにも軽く、乱暴に倒したようになってしまった。
けれど、それくらいは我慢してくれ。
僕は、彼女を助けない理由を探していた。
僕は、彼女を助けたくなかった。
見つけられなかったら、僕は彼女を助けなければならないから。
自分で自分を殺してしまうから。
ああ……最低だ、自分は。
鈴香ちゃんを助けたことを、酷いくらい後悔している。
そして後悔している自分自身に、嫌悪感を感じて、それが嫌で嫌で仕方がない。
こんなものを感じてしまうくらいなら、初めから迷わず助けていればよかった。
そもそも性格が最低であれば、そんなことは考えなくてよかったのだろうか?
彼女の性格だ。
きっと僕のことを引きずる、引きずってしまう。
こんなことを望んで、彼女を助けたのか?
……分からない。
ただ、鈴香ちゃんが憐れで、可哀想で。
そして僕は、なんて愚かなんだろう。
それだけが、今の僕に分かることだった。
加速していた思考のトルクが正常になる。
瞬間、強い衝撃が全身に走る。
まるで巨人に殴られたみたいだ。身体が浮いたのが、はっきり分かる。
やがて地面に打ち付けられた僕の体は、バキッなんて乾いた音が鳴るんだと覚悟したのだけど、聞こえてきたのはもっと粘着質で不快感を煽るような音だった。
下半身の感覚がない。
背中が逝ったのか、あるいはなくなってしまったのか。
息ができない。
衝撃で肺が強張っているのか、それとももう必要がないのか。
目が見えない。
目が閉じているのか、開いているのかも定かではない。
全身が痛い。
痛い。
いたい。
イタイ。
脳が焼けるように、頭が眩しいほどに白く、痛い。
意識が遠のく中で、高い音が耳に響く。
聞き慣れた高い音は、僕に駆け寄って泣きじゃくっている。
泣かないでくれ、謝らないでくれ。
謝られる資格なんて……泣いてもらう資格なんて僕にはない。
僕は君を救うことを後悔してしまったのだから。
だけど、それでも……君が救えたのなら、あんまり悪く、ないのかもしれない。
偽善者。
意識が暗い闇に落ちていく。
その中で僕はただひたすらに、こう思う。
どうか、僕のような人間にはならないでくれ。
自己が霧散していく瞬間まで、彼女の声が離れなかった。
これが僕の最後の記録である。
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