第11話 七月十六日の作戦会議 ③

 車は、かなり傾いた陰がそこかしこに落ちる住宅街を、静かに走り出した。

 「まず、石崎が嫌だっていうなら、いいんだ。無理に呼びたいわけじゃない。ただもし、石崎に少しでも、俺と話したい気持ちがあるなら、二人でしっかり話して、誤解なく別れたい」

「別れたいんだ?」

東井は少し意外そうに聞き返した。

「別れたい。これは変わらないよ。結局、俺が良かれと思ってすることと、石崎が良かれと思ってすることが、もう、ズレすぎてるもん。すり合わせられる限度を超えてる。お互いの為にならないと思うから。――ああ、あと、これが一番大事なとこだけど、今は俺、石崎をそういう風に見てない」

「……いいやつだね、お前」

「えっ?」

東井は進行方向を見たまま、膝に置いたエナメルバッグに頬杖をついて語った。

「めっちゃ怖かったよ。高野ぼっこぼこにしてた時」

「ああ――いや、まあ、お騒がせを」

「じゃなくてさ。恋愛的に好きってわけでもない、自分を殴った元カノの為に、あんな顔するっていうのが、いいやつじゃない」

否定も肯定もできかね、雪本はただ居心地悪くその言葉を心に溶かした。

「――本当に、二人きりがいいんだ。他に見てるやつとか、聞いてるやつがいない状態で、石崎だけと話がしたい。でも、学校の近くのカフェとか、そういうのは嫌だし、よそに連れ出すのはもっと嫌だ」

言ったそばから自分で矛盾を感じつつ、続ける。

「できるだけ、石崎の時間を取らずに、邪魔にならずに、でもしっかり二人っきりで、きっちり話をつけて、終わらせたい。それが一番、なんていうか――わかりやすいから。お互い全然考え方とか話し方も違うし、できるだけ複雑にしたくないし、後腐れがある感じにもしたくない」

 東井はエナメルバッグを抱えて黙り込んでしまった。榊は救急箱をピアノのように指で叩きながら、ゆっくりと口を開いた。

 「『できるだけ二人きり』じゃなくて、『本当に二人きり』がいいんだよな」

「うん。そうじゃなきゃいやだ」

「しかも、できるだけ大げさにせずに」

「うん」

榊はため息をついてうつむいた。

「――『本当に二人きり』を達成するのが、難しい。どんなに人目に気を付けていても、見られる可能性をゼロにはできない。一番いいのは電話とかビデオ通話で済ませることだろうけど――無理、だよな」

 雪本は苦笑した。

 「そう。多分だけど、石崎、カッとなったときに俺ブロックしてから解除するの忘れてんだと思う」

 榊はまた少し救急箱を指先で叩いた。空いた右手でこめかみを軽くさする。

 「本当に人を寄せ付けたくないときは、別の用事でおびき寄せるのが一番だ。――空き巣に一番狙われやすい時間帯を知ってるか」

「午前十時とか、人が仕事に出てった直後だろ?」

東井の言葉に、榊は頷いた。

「長年空き家の家よりもはるかに、ついさっき用事で出かけた家のほうが、空き巣をするには確実だって話だ。例えば、うちの壁に何かいたずら書きをしようと新島さんが企んでいたとしたら、俺が『絶対に立ち聞き禁止ですよ』といって扉を閉めた直後が一番安全なんだ。――ごめんなさい、たとえ話ですよ」

「いいですよ、面白いから」

 新島はにかっといい笑顔を一瞬向けてすぐ向き直った。どうもここでの会話は『頭に入って』いるらしい。

 東井が突然、エナメルバッグを叩いた。

 「石崎と雪本以外の生徒も教師も、皆別の用事で引っ込んでればいいんじゃないの、例えばほら、授業中に保健室でサボるとか」

「他の学年が体育の授業をしてるかもしれない。保健の先生いるし」

雪本の指摘に行き詰まった東井が、榊に視線を投げた。しかし榊は珍しく、悔しげに唸った。

「ちょっと時間貰っていいか」

「もちろん、俺らも考えるし――」

 ちょっとと言って、そこから榊は2分は黙って悩んでいた。

 すると、新島が、信号待ちで車を止めた瞬間に声をかけてきた。

 「単純な質問なんですが――」

「はい」

 視線も向けずに平坦な声で答えた榊に、動じることもなく、新島はのんびりと尋ねた。

 「保健の先生って、ずっと保健室にいらっしゃるんですっけ。私、ずいぶん昔のことだから記憶があいまいだけど、たまに保健室に行っても、あれ、いないなってこと、結構あったような気がして。今と昔じゃあ事情が違うかもしれないけど」

「ああ、割と、留守にしてる時もありますね。授業中はまあ、数分席を外すってくらいだろうけど」

「ああ――そうだ」

 榊がやっと何かに思い当たったようにぐったりと息をついた。

「そうだ、確実に席を外す瞬間がある。タイミングもきっちり捉えられる」

「え、タイミングも?」

雪本の言葉に榊は頷いた。

「何なら俺はそのタイミングを調節できる。――終業式で、各委員会が学期末の報告をするだろ。保健委員は保健委員長と、養護教諭がそれぞれコメントを出す」

東井がああ、と感嘆の声を上げた。

「そういや、あの人話がうまくて、毎回テーマ決めて話してたな」

「終業式だから正真正銘、生徒も教師も九割以上体育館に集合する。多少残る教師はいるかもしれないが、保健室に用はないはずだ。――月曜が終業式だろ。石崎には事情を事前に話して、本人の承諾がとれさえすれば、朝練の途中で体調不良になってもらって、保健室にいておいてもらう。終業式が始まってしばらくしたら、今度は雪本が保健室に行けばいい」

「俺が保健室に行ったら、それでも邪推する奴でそうじゃない?」

「行くだけでいいんだ、雪本が体調を崩したわけじゃなく、他のやつの付き添いで行けばいい。東井、いいよな」

「俺!?いや、いいけど……」

「付き添いはでも普通、保健委員が……あ、待って、あ、そういうことか」

 東井と雪本は、やっと榊の結論に追いついた。

 東井と雪本のクラスの保健委員は榊で、養護教諭と一緒に全員の前で活動報告をする保健委員長もまた榊だった。

 榊自身が壇上に上がるのだから、東井が体調を崩したときに友人の雪本が保健室に連れていくことが、その日に限って可能になる。

 「でも、東井は大丈夫?俺は慣れてるけど、仮病の演技とかさ――」

「あ、それは多分、大丈夫だと思う」

東井は高くも低くもない声音で冷静にうなずいた。

「俺、朝ごはん食べるとすっごい頭回るんだけどさ、逆に抜いてると一気に貧血起こすの。月曜だったら、バスケは朝練があるだろうし、朝ごはん抜いて朝練してそのあと長話聞かされてたら普通に真っ青になるから。余裕だと思う」

「それは余裕っていうの?」

「石崎とお前が保健室で二人っきりになれたら、すぐ男子トイレにでも行っとくから。ポケットにクッキーくらい入れておくし、喰えば治るから本当にそこは心配なし」

 榊もスマートホンをひらつかせた。

 「泉美さんが石崎に話をしてみてくれるらしい。雪本さえよければそれで話を進める」

「――そのまま進めて。泉美さんが話してくれてそれでも断られたら、多分何やってもだめだから」

「そうか」

 榊が端的に返事をして、スマートホンに向き直って、短いメッセージを送ったらしいのを見届けると、無意識のうちに深い息をついていた。あるべき体重が、一年の時を経て、どっしりと戻ってきたような思いだった。

 「なに、お前、この後泉美さんと会うの」

東井が榊のスマートホンを掴んだ。榊は長い腕をめいっぱい伸ばして、東井の手から自分のスマートホンをできる限り遠ざけようとしていた。新島が信号待ちで止まって、少し振り返って尋ねた。

「坊ちゃん、もしあれなら、お夕飯とっておきましょうか。今晩、唐揚げですし――」

「お願いします」

「ほら、会うんじゃん」

榊は心底あきれたような視線を東井にやった。

「わかるだろ、雪本と石崎の件で打ち合わせしに行くだけだ」

「『あの喫茶店』ってどこ」

東井は目ざとく情報を捕えたらしかった。

「おい――」

「あの、で通じるくらいしょっちゅういってんの、ねえ」

「東井、やめなよ」

雪本はやんわりと東井の肩を叩いた。

「榊は泉美さんと一緒に仕事すること多いから、それで色々話すんだろ」

 落ち着き払った雪本の態度に、東井は勢いをそがれたのか、まあ、そっか。と、正面に向き直った。榊は雪本をちらりと鋭く一瞥すると、ややむきになったように窓の景色を見ていた。

 その反応を見て、やはりと苦笑した。榊と泉美がしょっちゅう会って話あう理由の大部分は、雪本の「悪い友人」としての業務連絡だったのだろう。ただ、そんな事情を、雪本が一方的に隠すために知らないままでいる東井が、榊の機嫌を損ねたと思ってばつ悪そうに座っているのは不憫だった。

 「東井はさ、部活の女子とかと一緒にご飯いったりしないの?」

「えっ、いや――」

少し唐突だったのもあって、東井は口ごもった。

「ごめん、ただ陸上だと、女子マネと男子部員で打ち合わせとか、ご飯いったりとか、よくあることだから」

「ああ、なんだ、そういうこと。――いや、バスケ部は、陸上ほど人数いるわけじゃないのもあって、あんまそういうのは」

 東井は、陸上部とバスケ部の事情の違いを聞いて、却って恥じ入ってしまったようだった。

「いやいや、そういうのって、結構、環境で違うもんだし。――ねえ、じゃあさ、東井はどういう女の子が好きとかあるの?」

「部活で?」

「部活以外でもいいけど、――あれ、もしかして、決まった相手とか」

東井はばつの悪さも恥も忘れて、必死で首を横に振った

「いない、いないいない。――どういう女の子、か――」

数秒、悩んだ風だったが、東井はきっぱりと答えた。

「ふくらはぎがきれいな人」

 新島が小さく噴き出した。榊も静かに救急箱ごと腹を抱えた。雪本は笑うどころでなく、思わずオウム返した。

 「――ふくらはぎ?」

「いや、あの――バスケのウェアってさ、ふくらはぎが目立つ気がするんだ。あ、この人足早いな、とか、ジャンプ高そうだな、とかよくわかる。そんな感じでこう――ね。……えっと、後は、真面目な人がいいかな」

最後の補足で、とうとう雪本も手を叩いて笑った。

「いい、もう。もうなんもしゃべらん」

「え、なんで、いいじゃない。真面目だといいよね、榊」

「いや、もう――不真面目よりは――」

「うるさいな」

「悪い、もう、もうおさめた。大丈夫」

榊はやっと姿勢を元に戻した。泉美にするいい土産話ができたという感情がありありと表情に出ていた。

 東井は、苦し紛れの反撃とばかりに投げやりに聞いた。

 「じゃあ、榊は」

「健康的な人」

 榊は迷わず答えた。どうも東井を徹底的に笑っている間に、答えを用意していたらしかった。東井は負けじと追及する。

「健康的な人って何?肉付きがいいとか?筋肉質とか?」

「妙に細かったり、白かったりすると、健康状態が気になって会話もろくに頭に入ってこないんだ。だから、そういう、気が散る要素がないような人がいい」

「いや、お前、それずるくない?」

東井はややヒステリックにかみついた。

「――それ、不健康な奴は対象外ですって話をしてるだけじゃん。じゃなくて、好きなタイプはどういうのかって話をしてるの」

「『あー健康的だな』って人」

榊はいけしゃあしゃあと続けた。

「例えば、必ずしもじゃないにしろ、夏は多少日焼けするくらい外にいる方が安心だし、筋肉がきっちりついてる方が心配にならないし、無駄に肉がついてない方が血糖値の心配もない。よく笑う方が免疫力もあるだろうからそのほうがいいな。後は、目が潤んでる人間はビタミンが豊富なわけだから――」

「もういい。わかった。スポーツドリンクのCМに出てそうな子ね……石崎とか?」

 東井の最後の一言が響いた瞬間、榊は黙って、表情を殺した。その数秒の完全な無音状態を受けて、東井は勢いよく首を横に振った。

 「ごめん、違う、本気で言ったわけじゃない」

「当たり前だろ」

「うん。ごめん、まじでごめん。ほんとに本気じゃない。ちょっとからかってやろうってくらいで――」

「自分が何言ってるかよく考えてから発言しろよ」

「うん。ほんとにごめん、榊とか絶対、石崎に興味ないだろーなって、なんとなくわかるし――。あ、違う、雪本、ごめん、石崎がどうとかじゃなくて」

「雪本さん」

新島が穏やかに声をかけた。見ると、車は止まっていた。雪本のマンションのすぐ近くだった。

 「ああ、ありがとうございます」

「あ、もう着いたんだ――」

東井が、助かったというように息をついた。榊もさすがに、それ以上東井をいじめるつもりはないようで、雪本に淡々と尋ねた。

「一応聞くけど、大丈夫そうか」

「ああ、――うん。痛みとか、ほんと、ほとんどないし。お前よく気が付いたね」

 新島が雪本の側の扉を開いた。地面に降り立っても、やはり、少し違和感があるばかりで、ねんざというほどの痛みは特に感じなかった。

 東井が身を乗り出した。

「――おい、雪本、ちょっと待て」

「うん?」

「そういえばお前、放課後からずっと、どこにいたの。お前んちから榊んち、どう考えても四十分はかかんないじゃん」

「ああ……。東井には言ってなかったっけ。俺、行きつけのカフェがあってさ。多分学校のやつ誰も知らないんだけど」

「ああ、そうなんだ――え、お前、ずっとそこにいたの」

 既に怪訝そうな顔をしている東井の後ろで、すでに大体の察しをつけている榊がやや身構えていた。雪本は気まずくうなずきつつ、仕方がないので、正面から言った。

 「そこの店員のお姉さんと仲良くて。あわよくばその人に告白してお付き合しようと考えてます。――新島さん、送ってくださってありがとうございました」

「はい、こちらこそ、楽しゅうございました」

「――え、は、いや、お前、ちょっと」

東井が車から降りようとしかけて、榊がそれを見越していたように止めつつ、声をかけた。

「気をつけて帰れよ」

「ああ、二人も」

 扉が閉まり、東井と榊のいざこざは静かに遠ざかっていった。

 

 スマートホンで時間を確認すると、もう五時前だった。一週間前の犯人は、まだ逮捕されていないらしい。

 暗くならないうちに帰れてよかったと、スマートホンをしまおうとしたとき、手首にまだ小さく残る、オレンジ色の塗料を見つけ――もう一度、制服のズボンのすそを上げて、足首をひねって観察した。

 やはりどう見ても、ねんざをしているようになんて見えないし、雪本も自然に歩けている。


 ――それで、わざわざ車に乗せられたのか。

 うまく覚悟も考えもまとまらないまま、しかし、どうしてもそうしたいと思って、雪本はすぐにスマートホンを取り出し、榊のトークを開いた。ただトークでは既読が付くことを思い出し、すぐ閉じる。代わりにメールを立ち上げると、件名もつけずに『ありがとう。返信不要』とだけ打ち込んで送信し、少し乱れた動悸を鎮めるように、また部屋へと歩き出した。

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蜥蜴の殺し方 【夏休み前】 昼八伊璃瑛 @chuBachi_irie

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