第10話 七月十六日の作戦会議 ②

 「そういえば、うちのクラス、文化祭で何やるの」

 東井はやけに楽しげに答えた。

 「やっぱ、出店だ。クイズを出して、クイズの特典次第でもらえる品物が変わる喫茶店をやるって、面白そうだよな」

「それ俺客として行きたいんだけど」

「雪本はクイズ作成担当だ。当日業務も直前業務もなし。ただ面白いクイズを考えればいい。榊は食いもんとかの発注と管理」

「俺もクイズ担当がよかった」

「勘弁してくれよ、俺一人で榊と雪本分提案してうまいこと通すの超大変だったんだからな」

 東井は困ったように言ったが、実際、そんな所業は雪本はおろか、榊でも難しそうに思えた。東井がいかに説得力を持って二人をその役職にすべしとプレゼンしたか、少なくとも他の生徒に聞いてみる価値くらいはありそうだ。

「――ありがとう。でも、もう一つ頼みたいことがあって――」

「坊ちゃん」

新島が顔を出した。

「奥様がお帰りです」

 その言葉のすぐあとに、静かな足音と、柔らかく明朗な声が聞こえてきた。

 「知理?靴いっぱいあるけど、お友達?お友達来てるの?」

 部屋に声の主が入ってきて、東井がもともと丸い目をさらに丸くした。

 雪本も動揺を見せないよう努める必要があった。 

 その百七十センチはありそうな長身の女性は、二十七やそこらにしか見えず、新島に比べて格段に年下に見えた。もっと言えば、榊のお姉さんくらいにしか見えない。タヌキを思わせる垂れ目が、やたらめったら嬉しそうに雪本と東井を見た。

 「わあ、いらっしゃい、何、お泊り?お泊りするの?」

「違います、もうそろそろ帰って――」

「帰っちゃうの?どうして?私が帰ってきたから?――あ、もしかして、込み入ったお話してた?」

榊はあきれたように息をつきながら、図星をつかれたのをうまくかわした。

「手前側が雪本、奥にいるのが東井です」

「あ、すみません、知理の母です。お世話になってます。――ねえ、あの、夕飯ぐらい食べていくでしょ?新島さん良いでしょ?」

「あ――」

東井がおずおずと手を上げた。

「ごめんなさい、親に連絡しないで来ちゃったから、そろそろ帰らないと心配かける」

「――ああ、もうそんな時間か」

 榊が時計を眺めた。午後四時二十五分ごろを指している。

 「新島さん、雪本と東井を車で送っていただいても構いませんか」

「私はもちろん、構いません。支度してまいります」

 新島はまた無駄のない動作で素早く外に向かった。

 榊は母親に向き直る。

 「美祈さん、申し訳ないんですが、新島さんをお借りするので、夕飯が少し遅くなるかもしれません」

榊美祈はそんな息子の言葉に、ほとんど妹のような態度でうなずいた。

「ええ、それは大丈夫よ。でもまた、お二人を呼んでね。今度はご飯をご馳走したいから」

「あの、榊、ちょっと」

雪本が思わず袖を引くと、榊はああ、と振り返りざまに雪本の足首を指した。

「お前、足捻挫してるよ」

「えっ」

「走ったときに妙なひねり方したんだろう、酷くはなさそうだけど、どうせ東井を送る途中に家あるんだから、乗っていけ」

 確かにかすかな痛みが、なくはなかったが、榊に言われるまでは気づきもしない程のものだった。榊が外から見ていてわかるのだから、無意識のうちにかばった歩き方になっていたのかもしれなかった。    

 美祈が不安そうな視線を向けた。

 「大丈夫?もしよければ、病院近いから、見ましょうか?何なら私が――」

「ああ、いえ、そんなに痛いわけでもないですから」

雪本が慌てて遠慮すると、榊も小さな救急箱を抱えてみせながら言った。

「もし悪化したら、私が処置しますから」

「そう?――じゃあ、くれぐれもお願いね?」

「お車、用意できました」

新島が折よく声をかけ、榊が美祈にお辞儀をする。

「行ってきます」

「お邪魔しました」

雪本が頭を下げると、どこか慌てた様子でスマートホンを操作していた東井も、すぐに頭を下げた。

「お邪魔しました」

「いえいえ、お構いもできませんで」

 美祈は、長い廊下を一同が渡りきるまで、笑顔で手を振って見送った。

 

 「東井、大丈夫?」

「ああ、ごめん。母親がさ、部活もないのにどこ行ってんだーって騒いでっから、ちょっと連絡を。もう済んだ」

 東井はスマートホンをポケットにしまいながら、小声で尋ねた。

 「榊、お母さんのこと下の名前で呼ぶのな」

「坊ちゃんだけじゃなくて、榊家の方は皆さんそうらしいですよ」

 新島がいち早く靴を履いて、扉を押さえながら答えた。

 「理由はよくわかりませんが、お身内や、ご結婚相手、婚約中とか結婚前提の方の事は必ず下の名前で呼ばれます」

 その説明で雪本は合点がいった。この、働きぶりはよいがさほど格式にはこだわらないであろう新島が、同じく格式にこだわらないだろう榊家で、なぜ奥様、坊ちゃんとそこだけ古風にしているのか。

「多分、宴会が日常茶飯事だったからだと思う」

榊がスニーカーのひもを結びながら言った。

「今はそうでもないけど、昔は、ここらの地域に榊家の縁者がたくさんいたらしいし、仕事がらみでの宴会なんかも多かったそうだから。親戚とそうでない人間をわかりやすくしようとしたんだろうな。俺は小さいころからそう育てられたからなにも違和感ないんだけど――」

「なるほどね」

そう返事をしながら、ひそかに雪本は靴を履くとき足首を少し見た。やはり腫れた形跡はない。榊はどうして、雪本が捻挫していると判断できたのだろう。

 東井は雪本の挙動に気が付かない様子で、真夏日に眉をひそめながら言った。

「でも確か、雪本もだったよな。――沙苗さんだっけ」

雪本は苦笑交じりにうなずいた。

「そう。よく覚えてんね」

「最初びっくりして。母親を名前で呼ぶ人間、周りにいなかったからさ」

「ま、俺の場合、なんとなくなんだけどね。だから榊がお母さんを名前で呼んでてもそんな不思議に思わなかった」

 榊はいち早く車に乗り込みながら、ほとんど聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやいた。

 「――その割に、石崎は『石崎』のまんまなんだよな」

「えっ」

「ああ、確かにそういえば――」

思わず立ち止まった雪本を追い抜かし、榊に続いて乗り込みながら東井が言った。

「えーっ、なんかでもそれ、な」

「な」

「なんだよ、『な』って」

雪本は慌てて乗り込んだが、榊と東井はすでに無言のうちに結託しているようだった。

「だって榊の家の場合、親にも名前呼びだし、そのうえで、結婚相手にも名前呼びなんだろ?」

「そう。それも、親戚とそうでないのを見分けるためのものだから」

「別に――そういうこともあるだろ。必ずしも下の名前で呼ぶのが好きってことじゃないじゃん」

「じゃあ沙苗さんっていう呼び方は形式的なものなのか?」

榊の問いに雪本は、敢えて隠さず、しかし慎重に、正確に言葉を選んで答えた。

「そういうわけでは、ないよ。普通に、お母さんってより、沙苗さんって呼ぶ方がしっくりくるっていうのはある。東井も知ってるだろ、沙苗さんは外国で働いてて忙しくてなかなか会えない。でも電話かけてきてくれるし、わざわざ時間作って帰ってきてくれるし――中学までは、俺がまだ小さいからってことで、日本できちんと俺を育ててくれてたの。外国いってきていいよって言ったのも、俺からだしね。もう、そういう、すべての感謝を込めて、そして一人間として尊敬の念を込めて、沙苗さんって呼んでるわけ」

新島がエンジンをかけた。あるべきノイズはすべてレクサスの防音性能の前に破れた。東井は静かな車の中で一言、吐き捨てた。

「――おっも」

「おい」

外の景色に視線をやりながら榊がまたうなずいた

「まあ……もともと石崎の段階で、そこそこ重たいし――」

「そういうところあるんだよな」

「どういうところだよ、別に重くないよ」

「雪本」

榊が手の中の救急箱を、ポン、と指先で叩いた。

「さっき言いかけてた、もう一つの頼み事ってやつ、今のうちに話しておいたほうがいいんじゃないか」

「榊、お前な――」

「あっ、そうだそうだ、お前んちすぐついちゃうんだから、早く言わないと」

何も知らない東井が無邪気に促す。

 榊は事前に内容を知っていて、なおかつこのタイミングでわざわざ持ってきておいて、自分は素知らぬ顔で窓の外の景色を眺めていた。

 「――石崎と……二人で、しっかり、話がしたい」

 東井は真正面からその言葉を受け止めて、深くため息をつきながら、忌々しげに言った。

「……そういうところあるんだよな」

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