第8話 七月十六日に逃走先で ②
鞄の中にしまい込んでいた、茶色の革のケースを取り出す。
「何それ、良いポーチ」
「ポーチってわかりますか?」
「うん。お財布にしてはちょっと、分厚いから。もらったの?」
「はい。付き合って一か月の記念に。手作りなんですよ。思ったより細かい作業、好きだったみたいで」
ケースのファスナーを開く。日焼け止め、ワセリン、ボディシートに制汗剤、薬用のリップクリームと、化粧水と、小分けにされたコットン二枚、そして小さな折り畳み式の鏡がきっちりと入っていた。
「俺、日焼けすると、痛くなっちゃうんです。真っ赤になって、ヒリヒリして」
「そうね、そういうお肌だね」
「それで、日焼け止めとワセリンと化粧水、持ち歩いときたいんですよ。特に日焼け止めは。あとはまあ、普通に汗とか、そういうのが気になるってのもあるし。でも、そういうのからかうやついるじゃないですか。それで一年生の頃、学校に日焼け止め持ってこれなくて、困ってたんです。それで、陸上部の練習中に、やけどをして。その子に相談したら、これを」
効果はあった。スクールバッグの中に忍ばせておけば、まず財布と思われて、触れられすらしない。中身を取り出してポケットに忍ばせてもいいし、そのまま持ち歩いても結局財布に見える。
石崎は、ずっと親身だった。日焼けをしたら肌が荒れる、その保湿に必要ならワセリンや化粧水を使うのも当然なのにそんなことを隠す必要があるのか、と、不思議そうにはしていた。それでも雪本が、どうしても知られたくないと言うと、その思いを受け取って、頭を回して、手間をかけて答えてくれた。
「文化祭の準備が本格的になってきたころ、帰り道に、ジュリエット役の子に声をかけられたことがあったんです」
「彼女ちゃんはその時は?」
「マネージャーだけで話し合うことがあったらしくて、一緒に帰ってはいませんでした。ジュリエット役の子が、劇の事で話したいことがあるっていうんで、かき氷屋さんに入ったんです」
ロミオ役を演じることが石崎に伝わったときも、別のクラスだった石崎は、絶対に見に行くと言ってくれた。単純に、ロミオとジュリエットを見たことがない上、雪本の演技も当然見たことはないし今後も見る機会がないだろうから、楽しみに見に行くと、約束してくれた。
その言葉に雪本は本心から『頑張るよ』と答えられた。
石崎ならば、きっと、普通に劇を見てくれるだろう。その役どころを、その演技を、その物語を、その演出を、クラスの全員の働きやその効果を、普通に見に来てくれるだろう。きっかけはどうあれ、後付けでも何でも、ロミオ役を楽しんでいけないはずはない。雪本は、クラス劇に対してある程度前向きに考えられるようになった。
「ジュリエットちゃん、ご用件は?」
「ロミオとジュリエットの、スキンシップのシーンを減らしたいっていう話だったんです。っていうのも、ジュリエットには他のクラスに好きな男子がいたらしくて。その男子に、絶対見に行くって言われてしまったらしいんです。俺も彼女がいたから、スキンシップが減って困ることはなくて。快諾しました」
「なーるほど」
「それだけだったんです、本当に。――ただ、かき氷屋さんから二人で出てくるのを、見られちゃって」
真菜はしばらく黙って、ふと、思い出したように、バニラアイスの蓋をはがした。大分柔らかくなったようだった。雪本もそれを見てコーヒーをすすった。先ほどよりも味が薄くなった。
真菜がアイスを雪本によこしながら言った。
「ジュリエットちゃん、美形でしょう」
「言ったら何だけど――当たり前じゃないですか?」
「だよね」
「頭も良いし、明るいし、人懐っこいし、気配り上手で。……マドンナでしたよ」
雪本はアイスにスプーンを入れた。少し溶かしすぎたかもしれなかった。
「目撃したの、俺が付き合ってた子の親友だったんです」
「なるほど。彼女ちゃん、愛されてるね」
「はい。その親友の子も、なんていうか、普通にいい人でした」
普通にいい人だったその親友は、さすがにその場で、雪本が浮気をしているとまで決めかかったわけではなかった。一応、石崎に伝えたほうがいいだろうと判断し、とりあえず、その場で雪本とジュリエットの二人連れの写真を撮った。石崎が雪本に事情を聴いて、雪本がきちんと返事をしたら、あとはそれを信じるか信じないか、また考えていけばいい。もしかすると、その日のうちにも石崎に報告をするかもしれない。その可能性も鑑みて、三日待ってから、その親友は石崎に写真を見せた。
そして石崎は、雪本からその話を全く聞いていなかった。
「でも、話しようがない」
アイスをすくって口に入れる。あっという間に体温に溶けて消えるので、雪本はまたすぐ続けざるを得なくなった。もうとっくに過ぎ去ったことを先に延ばしても、何も意味はない。ましてそれを責める人間すらいないのに。
「俺はよくても、ジュリエットの方が困る」
「そうね。でも、あとからでもきちんと説明して、納得いってもらえないことだとも思わないんだけど。それこそ、ジュリエットちゃんから彼女ちゃんに説明してもらうとかもさ、最終手段にはなっちゃうけど、なしじゃないよね」
「そうですね。でも、問い詰められた場所がよくなかったんです」
「場所?」
「部活のない日の帰り道でした。周りに大勢、人がいた」
帰り道を二人で歩く雪本と石崎の二人組への好奇心は、まだまだ残っており、ただ歩いているだけでも視線を向けられた。そんな中で、まだ校門にも出ていない、昇降口を出たすぐあたりで、石崎は切り出した。
――この間、雪本君のクラスの子と、一緒にかき氷屋さんに行ったってほんと?あのかき氷屋さん、前に、一緒に行こうって言ったとこだったよね?
雪本は即座に周囲に視線を走らせた。周りにいる五、六名は同学年だったし、揉めているらしい空気だけなら、さらに遠くからでも察することができただろう。
「何を話してたのって言われて、正直に、ジュリエットの話をそのままするのは無理でした。どういおうかなって一瞬悩んで――」
「往復びんた?」
「二秒も待てなかったみたいですね」
真菜が柔らかく笑うので、つられて笑って、少し驚いた。もう今は、笑って話して苦しくならないのか。あれから漸く、一年たった。
「痛かった?」
「めちゃめちゃ痛かったですよ。――あのね、ほんと、これだけ言っておきますけど、どんなひ弱な女の子だって、本気で叩いたら相当ダメージなんですからね。しかも往復ですよ、往来のど真ん中で、しこたま人に見られて、しかも、泣かれて。もう――もう、かける言葉なんかちっとも思いつかないですよ、頭ン中真っ白」
「でもなんか言わないと」
「勿論。……でも言えなかった。周りの人が、すごい見てたし、聞き耳立ててたし。そんなところで何言ったって、どんな話したって、噂の火種になる。俺と彼女の誤解は解けても、皆、陰で言いたい放題いうんです」
「それが嫌だった?」
真菜は柔らかく笑って首をかしげた。いつも通り、逃がしてくれる視線のど真ん中を、雪本はあえて見据えた。
「嫌ですよ。当たり前じゃないですか。他の事ならともかく俺と彼女の、二人だけの問題なんだから。俺の気持ちも、彼女の気持ちも、絶対、誰にも、語ってほしくなんかない。……誰かに聞かれるくらいなら、ゆっくり訂正しようと思った。できなかったけど」
「できなかったの?」
「電話で説明しようとしたら、出てくれなくて。メッセージも返信してくれなくて。……彼女は何にも言ってくれないし聞いてもくれないのに、次の日学校行ったら、教室も部活もなんか言ったり聞いたりしてくる連中ばっかり。でもクラスの方は、ジュリエットの子がすぐちゃんと対応とってくれて、二人で劇について話し合いしてただけって、割とみんな、スムーズに納得してくれたんです。――そう、あと、そうだ。ジュリエットの子、結局、夏休み入ってすぐに、好きな人と交際始めて」
「おお」
「今でも付き合ってる。すごい仲良しで、先生たちもみんな知ってるくらい有名なカップルです。お相手の男の子もめちゃめちゃいい人だし。そこがくっついてくれたおかげで、本当に、思いのほかすぐ、騒ぎは収まって。――でも、俺と、彼女は、そのあと結局、一回も話す機会無くて」
真菜が不意に、紙ナプキンでテーブルに落ちたしずくを拭いた。雪本が自分の頬を撫でると、ところどころ濡れていた。
「馬鹿ですよね、なんでお前らばっかりって、絶対口に出せないけど、たまに思う」
「実際、なんで雪ちゃんとこは、そんなにこじれちゃったの?」
雪本は少しだけ日が傾いてきた、明るい空に視線を投げた。
やはり、陸上部がよくなかった。雪本も石崎も、勝気な同性から反感を買いやすい気質をしているのは間違いなかった。それぞれの嫉妬と反感を勝手に背負わされ、まともに二人で話し合うことも難しかった部分は確かにあった。部員全員が招いたことといっても、間違いではなかったかもしれない。
それでも。
「いろいろ、考えられることはあるけど……俺が逃げたから、こじれたんだと思います」
「逃げた?部活から?」
「それもそうだけど、それ以上に、あいつと目も合わせなくなった、俺が悪いんだと思います」
「子供っぽい」
「だって、目が合って嫌な顔されたら、どうしたらいいんですか。大体、俺がどうこうするんなら、向こうだって連絡の一つや二つ、してくればいいじゃないですか」
「自分が悪いと思ってるから、せめて雪ちゃんを待ちたかったんじゃない?」
「俺のメッセージ無視されっぱなしなんですよ、そこからまた追加でなんか言えって?」
「言いたいって、思ってたんでしょ、ずっと。嫌なことも、良いことも」
「言いたかったですよ。言わなかったからこじれた。わかってるんです。ちゃんと言わないのが悪いって。でもできなかったんです。わかってできない馬鹿なんです。」
明るすぎる日差しの中、かすむ視界で、革のケースを手で探って掴んだ。
「でも――じゃあ、だったら、そういう馬鹿だったら、これ一つも持ってる資格ないですかね。遊園地どころか、かき氷屋も一緒に行けなくて。手もつないでなくて。そのあとはもう、色んな奴に、好き勝手言われて、さんざんで。今はこれしか残ってない。……大事にして何が悪いんですか。これ放り投げられて、怒って何が悪いんですか。二か月も一緒にいられなかったんだから、一か月記念のプレゼントくらい大事に大事に、墓場まで持って行かなくてどうするんです」
真菜は、雪本のコーヒーカップを持ち上げ、立ち上がった。
「冷めちゃったね。おかわり、いる?」
雪本は頷いた。真菜はしばらく、雪本の腕を撫でて、独り言のように言った。
「本当に、好きだったんだね、雪ちゃん」
真菜が立ち上がると、最後に残っていた客も立ち上がって、レジへ向かった。真菜は店主に続くようにその客に声をかけながら、雪本のコーヒーカップを持って行った。
今更、もう一度交際したいとは思わない。石崎に抱く感情は少なくとも、恋愛感情ではなくなったし、価値観の隔たりはあまりに根深かった。衆人環視の中で往復ビンタをされたその瞬間に、決定的に壊れた部分があったことも否めない。その瞬間を、その後を思い返してみてもやはり、未練はないと断言できた。それでも一年間風化させられなかったのは、何より肝心な部分を伝え損ねてしまったからだ。
本当に好きだった。誰によそ見をしたことも、石崎を片手間に扱ったことも、いずれ別れるだろうなんて考えたことさえない。石崎が自らの手で雪本をぶったその瞬間まで、揺らいだことはない。もしも石崎がぶったのが、人目につかない二人きりの路地裏ででもあったなら、雪本はすぐに「痛い」と言ってやれた、思い切り怒りをぶつけて、ジュリエットの話を許可も得ないでまくしたて、ついでにちょっとくらい石崎をつねり返すことだってできた。
それで済むなら、それでその後も一緒にいられるというのなら、そんなに嬉しいことはなかったのに。
石崎は雪本のそんな思いも知らないで、隣にいることができなくなった。それが何より腹立たしい。たとえ今はそうでなくても、最初で最後のつもりの恋だったのだ。ただ、いつか、それを伝えてやりたくて、いつまでたってもそれができずに引きずった。
着信音が鳴った。東井からの電話だった。店主に目配せで許可を取り、その場で電話に出る。
「もしもし」
『雪本。今電話しても平気?』
時計を見ると、三時を少し過ぎたほどだった。今日の授業はもう終わってしまったらしい。最後の授業が文化祭の話し合いだったので、早めに決まって解散になったのかもしれなかった。
「大丈夫」
『そっか。いや、今榊んちに行こうとしてるんだけど、お前も一緒に来ない?』
「えっ、今から? どういう流れ?」
『それ、俺が聞きてえんだけど』
東井の声が、静かに怒っていた。
『お前も榊もいつまでたっても授業に来ないし。陸上部の練習も中止になったって聞いた。お前が話せるなと思う範囲で、事情聴きたいんだ。俺にできることとかあるなら、知りたくて』
「わかった。行く」
真菜と目が合うと、真菜は、一瞬少し驚いたように目を開いて、雪本を見つめて、はにかむように笑った。
「俺、ちょっと時間かかると思うから、先に行ってて。榊にはもう連絡したの?」
『連絡したら絶対逃げられる気がしたから、してない』
「わかった。東井は何分くらいでつきそう?」
『かかっても十分くらい』
「じゃあ、榊に閉め出されたら連絡して」
『そん時は押し入る。それじゃ』
電話を切ると、真菜が、雪本の手元に、テイクアウト用のカップに入れたコーヒーを差し出した。
「どっか行くの?」
「はい。ちょっと友達の家に」
雪本は、カップに入ったコーヒーに口をつけ、すぐ離した。
「熱い」
「さっきと同じ温度のつもりだったけど」
真菜が少しあわててレモン水を手渡してきた。飲んで、やけどしそうな熱を冷ますと、いつも通りの華やかな、苦い、深い香りの余韻がした。真菜がまた、雪本の顔を覗き込んで、また、少しだけはにかんだ。
「真菜さん」
「うん?」
「俺、彼女と別れ話してこようと思います。部活もやめようと思います。これから、その作戦会議を」
「作戦会議?楽しそ」
「そうですか?」
「うん」
真菜はくしゃりと笑った。その目はいつもよりどことなく幼く、少しだけ落ち着きなく、光を放っていた。
「うまくいっても行かなくても、作戦実行したら、連絡ちょうだい。コーヒー淹れて待っててあげる」
「いいんですか」
「内緒ね」
真菜は声を低めた。店主はたまたま外の看板を片付けに出ていた。
「営業終わった時間においでね。そしたら、いっぱいお話しできるもん」
「すみません、今日は、他のお客さんもいたのに」
「そう。こういうのね、常連さん拗ねちゃうから」
真菜も声を立てて笑った。フラットで、含みのない笑いだった。
店主が店に入ってきて、声をかけた。
「雪本君、お店は閉じちゃうけど、しばらくいても大丈夫だからね」
「いえ。もうお暇します。真菜さん、ありがとうございました。アイスいくらですか」
「ん?ああ、もっと恩を売ってから請求するよ」
「わあ、もう、いち早く独り立ちします」
コーヒー二杯分の料金を真菜に手渡して、出口に向かった。店主がまたおいでね、と朗らかに声をかけてくれたのに振り向いて会釈すると、真菜が先回りして扉を押さえてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「うん。恩の押し売り」
「これでですか」
「これで十円アップね」
くすくす笑いを響かせあって、店の外に出てから、またすぐ振り返って真菜が閉じようとしている扉を抑えた。
「真菜さん、近いうちに、すごく………お世話になるかもしれないです」
「うん?」
「アイス、ものすごい値段上がるかも」
真菜は言葉の意味をとらえかねて、珍しく、ただただじっと雪本を見つめた。雪本はそのまま笑って扉を閉め、恐ろしい夏日の中でホットコーヒーに口をつけた。
些細な勝利を得た高揚感そのままに、長い階段を駆け下りながら、真菜には話さなかったもう一つの決心を、しっかりと腹の底まで落とした。
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