第7話 七月十六日に逃走先で ①
扉を開けると、数名の常連客が視線をよこした。
調理場に立った、綺麗な枯れ方をした男性が穏やかに笑う。このカフェの店主で、真菜が二年前に働き始めるまでは、一人で切り盛りをしていたのだという。
「あれ、雪本君。学校もう終わった?」
その声に気が付いて、机を拭いていた手を止めた真菜が振り向いて笑った。
「あれあれ?早すぎじゃない?」
笑って何か返そうとして、全く口角に力が入らなかった。雪本の様子に店主は笑みを消したが、真菜は却って、軽快に笑った。
「なんかあった?ん?」
「真菜ちゃん――」
「あったんでしょう、雪ちゃん」
たしなめようとした店主に、わかっている、とうなずいて、真菜はまた雪本を追い詰める。
「ありました」
「でしょう。コーヒー淹れる?」
「はい。あと、甘いものが食べたい」
「バニラアイスでも出そうか」
「あるんですか?」
「あるよ。私の部屋に。お代は私の気分次第ね」
真菜はエプロンを一瞬外すと、キッチンの奥にある扉に向かった。
店主が真菜の背中に声をかける。
「コーヒー、真菜ちゃんがお願いね」
はーい、と答える声を聴いて、雪本はやっと頬が緩んだ。
アイスは、比較的単価の高いシリーズのものだった。冷凍庫から出したばかりなのか、容器全体が凍ってがちがちで、いかにも大事に、楽しみにとっておかれたものなのだろうという気配がした。
「怖いな。これ。いくら要求されるんだろう」
「ふふふ、いざとなったらカードで払っていいからね」
「そんな高額の可能性があるんですか」
「お母さんから持たされてるんでしょ?」
「はい。だから急に使ったら一応連絡来ると思いますよ。アイス一つでぼったくられたって正直に言いますからね」
「上等だ」
真菜の笑い声と、珈琲豆に湯を注ぐ音が、控えめな拍手のように鼓膜を満たした。大きな窓からさんさんと注ぐ、真昼間特有の白い白い日光を眺めた。また、その向こうの青く澄んだ空を想った。制服の土埃は、店に入る前に叩き落としたが、オレンジの塗料は未だ手首にこびりついている。高野と望月はともかく、榊に悪いことをした。謝ろうにも、謝り方がわからない。万が一、榊から謝り返されたら、その時はまた逃げ出してしまう。
「まぶしいね」
店主が雪本のコップにレモン水を注ぎながら外を眺めた。
「外に出たら、目がつぶれちゃいそうだ」
「つぶれますね」
「やっぱり?学生さんは大変だねぇ」
「ええ。砂のグラウンドなんか、いられたもんじゃなかったですよ。うちの高校、緑が少なくて、日影がなくって」
店主は元気に笑った。雪本が上靴のままであっても決してそこに触れなかった。
「ひい、かわいそう。うちはその点、緑だらけだからね」
「オアシスですね」
「うん。仲がいい子がいるなら、今度連れてきてあげなよ。サービスするよ」
「いますけど」
真菜がコーヒーを注ぐ音が聞こえてきた。今日は香りが少し弱かった。
「ここは、一人が一番いいです」
「おまたせ」
真菜がコーヒーを運んできて、店主と目配せをした。店主は数少ない他の客の注文を取りに行き、真菜は一人、雪本の隣の席に座って、アイスのカップを両手で包んだ。
「わあ、まだ固いね」
雪本は答えずに、空をぼんやり見上げたまま、ゆっくり深呼吸を入れて、口を開いた。
「俺が前に、付き合っていた子の話、しましたっけ」
「んーん。一回も。別れちゃったんだ?」
「別れちゃいましたね」
「どうして?」
雪本は首をかしげた。雲の角度が動くだけで、見える物は増えなかった。
「どうして……どうして、か、難しいな。……彼女が俺をビンタしたから?」
「往復?」
「往復です」
「元気な子……」
「超が付くほど元気な子ですよ。馬鹿は風邪ひかないって信じてなかったけど、あいつは絶対に風邪ひかない。元気が良すぎて下手を打つから馬鹿なんですもん」
コーヒーを飲むと、やはり味が薄かった。豆を少し変えたのかもしれない。いつもは熱すぎるくらいの液体が今日はまろやかで、変に飲みやすくて、少し気持ち悪かった。
「でも、何にもわかってない馬鹿は風邪をひかないけど、分かっててやらかす馬鹿は、風邪をひくしぐずぐず長引く。結局、俺が顔だけだったから、だから、どっちのためにもならないことになったんだと思います」
雪本はバニラアイスに触った。まだスプーンを跳ね返しそうなくらいの硬度を持っていることが感じられた。ふと真菜が雪本の腕に触った。しつこいオレンジの塗料をなだめて落とそうというように掌でトントンと叩きつつ、空に向かうようにして話した。
「最初っから聞きたいな。雪ちゃんとその子が、どう仲良くなったのか」
「部活が同じだったんです」
「陸上部だっけ。マネージャーさん?どんな子?」
「同い年のマネージャー。背は平均より、ちょっと低い。華奢って言えば華奢だけど、健康的に細い子でした。俺と違って、気持ちよく日焼けするタイプで、前髪が目の上らへんまであって、ポニーテールで。――あとは、月並みだけど、目がきれいだった」
「セーラー服が似合うタイプじゃ、なさそうね」
つい吹き出した。
「まあ、どっからみても文学女子っぽい雰囲気はないですね」
「ポロシャツとかなら似合うかな?」
「ああ、そう、そういう感じです」
向かい風を走ったり、新緑のすきまの光を浴びたり、土砂降りに降られて笑っていたりするのがよく似合う少女だった。笑うと、歯が白かった。
常連客が一人帰った。真菜は一度立ち上がって、そのお客に割引券を渡して、丁寧にあいさつをしてから、また戻ってきた。
「元々仲のいい子だったの?」
「いいえ。告白される前は、一回二回しゃべったくらいで……初めて会った時のことも、よく覚えてないや。でも、告白された時のことは、もう、強烈に覚えてる」
「屋上から叫ばれた?」
「あいつにそんな洒落っ気なんかないですよ。普通でした。本当に普通に、シンプルに、『好きです、付き合ってください』って、言われただけです。本当に、そのほかは、何にも言わずに、こっちの返事を待ってました。だけど……本気なのは、いやというほど伝わってくるんです。『ダメもとで告っちゃえ』みたいな、そんなのじゃなかった」
「その場でOK出したの?」
「出しました」
「もとから、雪ちゃんも好きだったの?」
「わかりません。でも、言われたその時に、ああ、好きだなって思って。『俺も好きです』って、そのまんま、お返事しました」
目が、本当にきれいだった。不安も、怯えも、照れも、ありありと浮かんでいながら、卑屈さや媚の類は一片もない。清々しく、潔く、格好良かった。そしてそういう石崎の強さが、目の光になって、自分の中に降り注いだ気がしたのだ。
「それなりにはかわいいけど、それほど美人じゃない。ちょっと素朴すぎるくらいの子で。皆、俺とその子が付き合ってるのにびっくりしてました。でも周りも、その子がいい子だって知ってるから、応援してくれたっていうか。俺を見直してくれてたひととか、多分いて。俺はそれが嫌だったけど」
「嫌だったの?」
「俺は好きだから付き合ってたんです。いい子だから付き合ってたわけじゃない」
けれど石崎は、そんなことさえ、ちっとも意に介さなかった。他人が何を言おうとそもそも気にする人間ではないのだ。石崎の価値を周囲が貶めようとすることに過敏になる雪本に、気づいてもいなかった。周囲の言動に価値を傷つけられた経験がなかったし、そういう発想がなかった。
裏を返せば、雪本が自身の価値を、周囲に揺るがされ続けていることも知らなかったし、雪本もわざわざそれを教える気がなかった。今にして思えば、雪本の方から先に彼女に負けた気になっていたのかもしれなかった。
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