第6話 七月十六日の高校にて ④
榊は雪本の鞄を、雪本に手渡した。二次被害を防ぐために、教室から持ち出しておいてくれたらしい。
「高野さんたちが、まず、鞄から『あれ』を持ち出した」
『あれ』と榊が呼んだ革のケースは、鞄を肩にかけた雪本の手の中にあった。
「なぜ持ち出したんですか?」
「それは」
望月が口を開いた
「ちょっと、悪ノリしすぎたっていうか――」
「俺が嫌がらせのつもりでとった」
高野が、遮って断言した。榊は望月の言葉を失った表情を見、高野の毅然とした目を見た。
「とったのは望月さんでしょう」
「とって来いって言った」
「『とって来い』をしたとして、」
悪意が出たのか、動揺して言い間違えたのか、榊は一度咳ばらいを挟み、とはいえ訂正もせずに続けた。
「嫌がらせしたいからとりに行けと?望月さんはそれに従ったって、そういうことですか」
「いや。『雪本が部費を払っていなくて、今どうしても徴収しなきゃいけないから、いったん持って来い』って嘘をついたんだ。休んでばっかで払ってもらってないからって」
「つまり望月さんには、嫌がらせのつもりはなかった?高野さんが雪本に嫌がらせをしようとするのに、巻き込まれただけということですか?」
「そう、こいつは関係ない」
「へえ」
雪本の、言うまでもなく冷ややかな相槌が、ちょうど聞き流せないくらいのタイミングでさしはさまれた。
「……じゃあ、なぜ――」
榊がゆっくりと息を吸い込んで座りなおし、膝の上で指を組む。
「嫌がらせをしたんですか。今更、こんなタイミングで。放っておいても、今日雪本は部活に来る。ご連絡もしたはずです。何か文句があるのならそこで言えばよかったのに」
「今更もなにも」
望月がせせら笑う。
「嫌がらせの理由なんか聞いてどうなる? で、なんでお前にそんなこと言わなきゃならない。誰が誰の事嫌ってようが関係無ぇだろ。小学校じゃあるまいし」
「おい、望月」
「望月さんと高野さんは陸上部で、雪本も陸上部です」
榊は微動だにせず言った。
「高野さんと雪本が二人で揉めているって話なら、確かに、勝手にやってろってところではあります。――ただどういうわけだか、そこに望月さんが関係してきてしまってるから、首を突っ込みたくもない野郎同士のいざこざが部の問題になっているんじゃありませんか。俺が首を突っ込んでいるんじゃなくて、あんたが俺の管轄になるようなことをやったんでしょう」
「補欠の二年が何の管轄だよ」
「お前らが押し付けてきた七面倒な副部長の管轄に決まってんだろ」
榊はあたかも気が長そうな、静かでゆっくりした口調で続けた。
「邪魔するんなら授業に戻れよ」
「……望月、もういい」
高野がたまらずといったように声をあげた。
「お前は悪くない。俺が巻き込んだんだから。――でもなんにせよ、榊にあたるのは一番おかしい。筋が通ってないだろうが」
榊は軽く目を細めて高野を見据えた。
「高野さん。なんでこんなことをしたんです。理由を言ってもらえませんか。……もちろん、雪本と二人きりでも冷静に話せるのなら、それはそれで構いません」
「自信ないな」
高野は苦笑いしながら、その一言の中でさえ嫌悪の色をにじませ、雪本に視線を合わせた。
「なんでお前、陸上部入った?」
雪本は答えないまま、鞄の持ち手を握る指をじっとりと擦った。
「確かにお前は、足が速いよ。でもそもそも、大して走りたがってないだろ。他の運動ができないわけでも何でもないし。……それでも、お前がちょっと走ったら周りはそれで注目するし、初めて出た大会でだって『応援します』なんて言ってもらって。――で、言うほど楽しくないんだろ?はじめからそういう態度だよ、お前は」
「高野さん」
「俺は本気でやってるんだ。タイム測るのも、身体づくりも――後輩の練習見るのも。俺はいちいち必死でやってるんだよ。俺以外の人間でだって、お前ほど片手間にやってる奴なんかいないんだよ。……それで……『いまいちしっくりこないな』みたいな、そんな面されたってさ。こっちは理解してやれないし、何もしてやれない。そんな暇ないんだよ」
高野の目を見据えたまま、雪本は、しばらく黙っていた。黙って、じっと考え込んだ後、唐突に呼んだ。
「望月さん」
うつむいたままだった望月ははじかれたように雪本に視線を合わせた。雪本は手にしていた革のケースを持ち上げる。
「これ、どうする気だったの。お金でも欲しかった?」
高野が望月をかばおうとするのを、榊は首を振って止めた。望月は高野が口を開く前にと早口で答えた。
「外の、グラウンドについてる女子トイレに入れようとした。――財布だったら、お前の名前入ってるカードとかもあると思って」
雪本は乾いた声で笑う。
「女子トイレ?よりによって……」
「でも」
望月は慌てたように付け加えた。
「高野には、それは言ってない。高野はそれを本当にやろうとしてたわけじゃない」
「そもそもいつ、高野さんに渡したんです」
「昇降口で」
榊の問いに、望月は答えた。
「好きに使えって言って渡して、それだけだ。高野がなんか言う前に、雪本が来た」
あの時、昇降口で。
確かに高野は一瞬、身動きを取れずにいた。まだ心は定まっていなかったのかもしれない。
しかし雪本を見て――走りを見たのか、顔を見たのか――腹をくくったのだ。
榊は高野に視線を戻した。
「高野さんは、どうする気だったんです」
「どうもしない。何にも考えてなかった。ただ無性に、返したくなくなって」
高野は視線を榊から外した。榊は少し息をついて背もたれに重心を預けた。五時間目が始業してもう五分が経過していた。外から体育の授業の声がささやかに聞こえてくる。
「高野さん」
雪本の声はまるで、寄り道でも誘うように軽く、その割に親しみがなかった。
「身長何センチ?俺、今、百七十六センチなんだけどさ。多分、俺より背は高いよね。榊よりはちょっと低い?」
「……百八十一」
「へえ。すごいじゃん、やっぱり背高いじゃん」
高野はただ怪訝そうな目で見返した。雪本は構わず続けた。
「テストは?」
「は?」
「期末テスト、何位だったの?なんか成績よかったんだってね。望月さん、高野さんが何位だったか、知らない?」
望月も高野も答えなかった。
雪本は革のケースを形が崩れるぎりぎりの力で握りしめる。
「彼女いたことある?あるよね。絶対ある。ていうか、ほら、誰だっけ、去年卒業しちゃったマネージャーさんと付き合ってたこともあったよね。あれは何人目の彼女さんなの?一人目じゃないんでしょ?すごいなあ、俺まだ一人しかいたことないよ」
高野が初めて、嫌悪感以上に、動揺を示した。
「そう。石崎だけなんだよ」
「……」
「はっきり言って、俺なんかより高野さんの方がよっぽど恋愛経験あると思う。高野さん、新記録だしたんでしょ、出してたでしょこないだ。そもそも絶対的に俺より足が速いんだよ、自分でもわかってるでしょ。今日だって平らなとこだけ走ってたら俺は絶対追いつけなかった。わかる? 高野さんめちゃめちゃいい選手じゃんか。選手としてだけじゃなくてもさ、高身長だし、勉強できるし、頑張ってるし、友達思いで、恋愛だってできてるからさ。あなたはすごい人なんだって。頼むからもっとまともに自信持ってくんないかな。大丈夫だって。とっとと石崎に告ってきちゃえばいいのに」
望月が雪本につかみかかろうとして、榊がぎりぎりのところで止めた。高野はただ椅子に座って身動きをとれずにいた。
「……今更、俺なんかに、どのへんで嫉妬するの。ズレてるよ。それでこんな……こんな嫌がらせ?」
雪本は、革のケースをテーブルに置いた。
「……盗むんだったらちゃんとよく見ろよ」
雪本の手が、大ぶりなチャックについた革のストラップをつまんで高野に見せた。
そこには、よくできてはいるものの、明らかに縫い目にばらつきのある、簡素な刺繍で、『5.6~』と縫い込まれていた。雪本はすぐにそれを取り上げる。
「石崎が作ったの。去年の六月、俺にくれたの。俺にとってはもうどうでもいい話だけどさ、石崎はわかんないじゃん。だから、一応、石崎にも謝ってほしい。向こうも、どうせ大して気にしちゃいないだろうけど」
高野は黙って、ただじっと、時折視線を動かしてしばらく考えを巡らせて、雪本に視線を戻した。
「お前、大会出るのか」
「選手に選ばれるかどうかもわかんないし」
「選ばれたらどうするつもりだ。選ばれて、体調良くて、だったら出るのか、お前。――出たいのかって聞いてるんだ」
「出られたらうれしいよ」
「それは出たいって言わないんだよ」
「そんなことないって」
「別に、いいんだよ出たくないなら出たくないで」
高野は声を荒げた。
「俺は別に、怒りたいわけじゃない。いい加減無駄な空回りもしたくないから、この際全部、正直に言ってほしいだけなんだよ。言われたら言われたで対応のしようはある。陸上に来たくないのに無理して来てるんだったら、じゃあなんでかって聞きたいし、石崎を気にしてないっていうなら、なんであの時こっち睨んできたのかって、俺は普通に気になるんだよ」
「睨んでないし、本当に、そんな理由で一週間も休んだわけじゃないんだけど」
「だから、そういう問題じゃなくて。お前がちゃんとどうしたいか言ってくれないと、本当に俺たちは何もしてやれないんだよ。何にも対応とってやれない。それって俺たちにとってもお前にとっても迷惑な話なんじゃないのか」
「病欠が迷惑って──」
「病欠がじゃない、お前が迷惑なんだよ」
高野は興奮しながらも、確信のある視線で雪本を容赦なく突き刺していた。
「いっつもいっつも何にも言わないくせに、ずっと不満そうで。ちょっとでもムカつくことがあれば必ず次の日病気になって」
「高野さん」
榊の制止を遮るように、雪本はまくしたてた。
「じゃあもうなんでも言わせてもらいますけど。もう二度と俺の顔についてコメントしないでもらえませんか。別に、陸上部でイケメンパワー発揮しようなんて思ってないですよ、当たり前じゃないですか。―ああ、あと、石崎と高野さんが仲良さそうにしてたから七日間休んだとか、それはほんと、本当に、違います。――でも、嘘は言いたくないから、高野さんと望月さんを信用して打ち明けますけど、ぶっちゃけ、今回の七日間は、病気じゃないです。すみませんでした。どうしても言えない事情があって休んだんです、勘弁してもらえませんか」
「勘弁できるか」
雪本が扉に踵を返すと、望月が廊下まで響きそうな大声を張り上げた。
「お前──お前さ、今回は部活休んだだけじゃねえんだぞ、学校ごと休んだんだぞ。それが何、病気じゃないっての」
「これまでは別として、この七日間はそうです。すみません」
「雪本」
高野が務めて冷静に抑え込んでいるような声で聞いた。
「その理由も聞くなっていうのか」
「別に、どうでもいいですけど、叶うなら言いたくないです」
「……退部処になりかねない」
「黙っててくれないんですか」
「理由も説明しないで七日休むやつと試合だのなんだのやっていけると思うか」
「そりゃそうだ。――でも退部は、ちょっと、まだ困るかもしれない」
高野が少し意外そうに眉を顰めた。
「退部は困るのか」
「少なくともこの欠席がもとでやめたかないです」
「それは、だから、どういう事情だ」
「だから、それを言いたくないんですって。じゃあもういいです退部で、失礼します」
「おい――おい、雪本ッ」
また扉から出ていこうとした雪本に高野が手を伸ばすと、腕を掴もうとした手が強くYシャツの半そでを掴んで、体重がかかった。肩口の縫い糸がわずかに千切れ嫌な音を立てた瞬間、雪本が発作でも起こしたように強い力で激しく高野を押しのける。
高野はその場にしりもちをつき、体制を整えようとして、雪本が鞄から取り出した何かをたたきつけるのを見た。
破裂音。
驚いて目を閉じ、再び開けると、部屋の状況は一変していた。
机の上に、野球ボールほどの大きさの透明な球が落ちていて、そこから蛍光のオレンジ色のペンキのようなものが、360度、放射状に飛び散っている。粘性のあるその塗料は、机の端からドロドロとこぼれ、床まで汚していた。望月は右半身に、高野はスラックスの大部分に、榊は細かなしぶきを全身に浴びていた。雪本は右腕と手首にかぶった液体を雑に払った。
「防犯用のカラーボールです。皆も持ち歩くようにした方がいいと思いますよ。気を付けてください、意外とこの高校回り、危ないです。一週間前、高校の側で、知らない人の車に引きずり込まれそうになりました」
雪本は鞄からティッシュを取り出して、不毛なしぐさで手についたペンキを拭き始めた。
「これぶつけて必死で逃げて帰って通報して、そしたら、夕方以降外出るのが嫌になって。そりゃ俺だって事情くらい話そうかとは思ったけど、でもなんか、今までだってそういうことはあったから、言わずに済むなら正直それが一番気分的に楽かなあって。すみません。怒られても文句言う気ないです。退部でいいです。もう、なんでも全部言ってください。俺、今なら何でも聞きます」
物言わず、動きもしない部室を、雪本は一瞥した。知っている人間が、話をしている人間がいるはずなのに、全員がそのまま景色として塗り込まれたように押し黙っていた。
「言いたいことあるなら言ってよ、俺はちゃんと言ったよ。美形って苦労してるんだね、馬鹿にしてごめんねって、言ってくださいよ。思ってるなら」
高野は沈黙し、望月は目をそらした。雪本は榊の様子を見ようとし――気づくと自分から俯いていた。
何かに押さえつけられたように上げられない顔が醜くゆがんでわななく。
「言ってみろよ」
そこから先の沈黙に、雪本は三秒と持たなかった。汚れた机を蹴り倒し、今日一番の轟音を残して、雪本は逃げ出した。
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